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友と呼ばれた冬~第33話
千尋との電話を終えた俺は、すぐに成田に電話を入れた。客以外にこんなに他人と話すのは久しぶりだ。
梅島にクレーム記録で確認してもらった成田の携帯電話にかけてみたが、「電話番号の前に186をつけておかけ直しください」とアナウンスが流れてきた。非通知は着信拒否になっているようだ。
頭に186をつけてかけ直すと、すぐに成田が出た。
「もしもし成田ですが」
「成田さん、いま会社ですか?」
「そう……ですが、どちらさまでしょう?」
「真山と言います」
「ん?どちらの真山さん?」
「今日の午後、少しお時間を頂けますか?」
「すいませんがどういったご用件でしょうか?」
「あなたが去年タクシーであったトラブルのことで話がしたい」
成田の口調が一変して小声になった。
「この前の男じゃないな?お前、何者だ?」
この前の男?
成田がそういう意味がわからなかったが、トラブルの事は覚えているようだ。
「少しばかり出られませんか?」
「今すぐは無理だ。今何時だ?・・・・・・2時間後、3時にビルの裏側の通りにある喫茶店でいいか?tenderlyという店だ」
「わかりました、では3時にその店で」
唯一まともなスーツに着替えた俺は1時過ぎには再び電車に乗っていた。
千葉の車の位置をGPSで確認するとまだ営業所から動いてはいなかった。会議が長引いているのだろうか、それとも今日はそのまま仕事をするのだろうか。
成田の勤める関東運輸局は横浜にあった。成田の住む大宮からはJR一本で一時間もあれば着く。
俺の住む北千住からは乗り換えも含めると同じくらいの時間がかかった。昼時ということもあってか、車内はそれほど混雑していなかった。
周囲の乗客は全員が携帯電話を手に持って、画面に視線を注いでいた。異様な光景だ。誰もが自分の世界に閉じこもり、電子的なつながりを求めているように見える。それは同時に現実世界の拒絶を主張しているようにしか見えない光景だった。
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俺は座席に座って先ほどの緊張と達成感に高揚していた。千尋との電話に気持ちも晴れていた。だがこの状態が日常になるほど、喪失感に苛まされる。
バランスという曖昧な感覚は未だに理解できなかった。長年理解できないことが、降車駅に着くまでに答えが出るはずもない。
ただ、目を瞑った。現実的な拒絶だ。携帯電話を開かないことで受け入れる余地を残しているような気がした。
馬車道駅で降り4番出口から出ると目の前が関東運輸局だ。
すっかり記憶と変わってしまった桜木町の景色と違って、古く趣のあるビルが残っているエリアだ。
関東運輸局の建物には出入口が二ヶ所あった。正面側は大通りに面していて車やタクシーを利用するならこちらから出入りする。ちょうど真裏に当たる出入り口は最寄り駅に近く、電車を利用するなら裏口を使う。一人で張り込むには厄介な場所だ。
ビルの裏口側に居た俺はすぐに成田の言う喫茶店を確認した。
今では数が減ってしまった古き良き喫茶店で、きちんと看板が出ていた。ドアには「CLOSE」の札がかかっていた。
成田のために開けるのだろうか?
まだ時間は充分にあった。俺はそのまま万国橋を渡って赤レンガ倉庫の方へ歩き始めた。
横浜港から吹き付ける風はさすがに冷たかったが、久しぶりの晴天がやわらかな陽射しを投げかけていた。
昼の時間に外で過ごすのは久しぶりだったが、心は穏やかではなかった。
電話で成田が言った、この前の男とはなんのことだ?
「いい加減にしてくださいよ。タイミングですよ、タイミングゥ。しっかりしてくださいよ」
男は電話を切り一頻り悪態をついた後、深呼吸をした。
携帯電話を乱暴に白い陶器の上に置き、鏡を覗き込んだ。
くそっ、まだえぐれてやがる
洗面台の鏡を見ながら絆創膏を張り替える。
痛っ!ク、クソがぁ!
半分も残っていない鏡に拳を叩きつけると、砕けた破片が白い陶器の洗面台に乾いた音を立てて落ち、不安定に置いてあった携帯電話が排水溝へ滑っていった。
ポタポタと蛇口から落ちる水滴が破片に弾け、男の苦痛に歪んだ顔を万華鏡のように幾重にも映し出している。
携帯電話を拾い水滴を振って落とすと、手が滑って床に投げつける形になった。
うわぁっ!嫌なんだよ!こういうのが!
頭を掻きむしり、洗面台の中から大きな鏡の破片を拾い上げると男は洗面所を出てアルミ製のドアを開けた。
遮光カーテンが閉め切られていたがあちこちに空いた穴から外の陽ざしが差し込んでいた。
壁のスイッチを押すと裸電球が弱々しい灯りを放ち、埃が漂う淀んだ空気を露にした。
部屋の中央に置かれた脚立に歩み寄りその上に跨ると、鏡の破片の茶色くくすんだ裏面に木工用ボンドを山盛りに塗りたくった。
慎重に脚立の上に立つとベニヤの天井板を一枚ずらし、天井裏を覗き込んだ。
小さな穴の空いた屋根から陽光が張り巡らされたピアノ線のように差し込んで、不規則に置かれた鏡の破片を暗がりにいくつも浮かび上がらせている。
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手にしていた一片を細く差し込む光の下に慎重に合わせて天井板に貼り付けると、屋根裏に小さな太陽が描き出された。
『宇宙から狙ってくるレーザー光線を跳ね返している』
大野は初めてここに連れて来られた日に、郷田がそう話していたことを思い出しながら、脚立に立つ下半身を眺めていた。
脚立から降りた郷田は指先に付いたボンドを太ももに擦りつけながら、武骨なベッドフレームに縛りつけた大野を無言で見下ろした。
「おらっ!!・・・・・・ビビり過ぎだぜ、大野君よぉ」
右拳を挙げると反射的に身を丸めた大野を見て笑って言った。
身体の反応とは裏腹に大野の目はまっすぐに郷田を見返していた。
郷田は玩具に飽きた子どものように急に興味を失くした表情を見せ、無言で背を向けて出て行った。
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