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友と呼ばれた冬~第20話
「悪いが新宿まで戻ってくれ」
「わかりました」
ドライバーは諦めたように返事をして青梅街道を上り始めた。車窓に雨がまとわりつき何もかもが歪んで見えた。ひどい気分だった。負の感情を締め出す必要があった。あの男の顔に傷をつけてやったと思うと少し気分が良くなってきた。
「西口に着いたら声をかけてほしい」
ドライバーにそう告げて目を閉じてみたが興奮した頭は冴え、眠りを拒否した。あの時、千尋は交番の前に居たから男は手を出すことができなかった。交番の前から動かないように言い、あの男に近づいて問いただすこともできた。いや、あの時点では千尋を監視していたと確信がなかった。もし俺の勘違いだったら。
そうじゃない。すぐに白黒はっきりさせたい俺の悪い癖が千尋を危険な目に遭わせてしまった。俺が危険を求めるのは勝手だが千尋を巻き込むことは何としてでも避けるべきだった。
「お客さん、着きましたよ」
ドライバーの呼びかけに現実に引き戻された。
「迷惑をかけてすまなかった」
チップを渡して車を降りた。新宿駅西口に出入りする大勢の人の波が、雨に煙りながらも途切れることなく動いていた。気後れした俺の脚は硬直し動かなかった。
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一人の人間が失踪して2日が経とうとしていたが新宿と言う街は何も変わらずに動き続けているように見えた。大野のアパートの住人は大野が帰っていないことに気づいてすら居ないだろう。乗務員たちはその日の稼ぎこそが何よりの気がかりで失踪した人間のことなどもう忘れているかもしれない。
やり切れない気持ちに何もかも投げ出したくなったが千尋に殴られた肩の痺れが現実に繋ぎ止めて俺を叱咤した。少なくても一人、大野の失踪に心を痛めている者が居て、そうだ、大野は俺に助けを求めて書き置きを残したんだ。俺をあのアパートに呼ぶために。
その思いに行き着いた時、俺はようやく駅の中へと歩を進めることができた。確かめなければならないことがあった。
「サテンドール」から音が漏れていなかった。今日はライブの予定が無いようだ。こんな日はほかに客が居なければオーナーは俺の好きな曲をかけてくれる。
気がつくと地下への階段を下りていた。防音の分厚いドアを開けるとTHE Rolling StonesのWild Horsesが聞こえてきた。暗い灯りの中でオーナーの町田がカウンターに座り琥珀色の液体を飲んでいた。客の姿はなかった。今日初めての幸運だ。
「暇そうだな」
「どうしたんですか?ひどい恰好で」
みぞおちの痛みに気づかれないように俺はカウンターに座った。答えない俺を察して町田が無言でカウンターの中へと入った。
「酒はやめておこう。ストーンズも悪くないがスライダーズをかけてもらってもいいか?」
町田がボトルを戻しジンジャーエールを出して聞いた。
「何をかけます?」
「チャンドラーが聞きたい気分だ」
「JAG OUT。頭から?」
「頼む」
カウンターの後ろのCDデッキにCDがセットされ、店内に吊り下げられたスピーカーからHurryのだみ声が溢れ出した。蘭丸のギターが絡みつくと圧倒的なうねりが容赦なく腹のあたりを揺さぶった。
「いいんですね?」
自分のグラスに継ぎ足しながら俺に聞いてきた。
「あぁ。ちょっとこれからやることがあってな」
酒を飲みたい気分だったが部屋に戻って試してみたいことがあった。ただその前に気の知れた奴と好きな音楽を聴いて少しばかり会話がしたかった。自分の存在を肯定してくれる何かが欲しかった。
「いつもの出来るか?」
「いつも同じ物しか食べないじゃないですか」
「他の物は食えたもんじゃないからな」
町田は口を尖らせ、ライブハウスには不釣り合いな業務用の冷蔵庫からピザ生地を取り出し伸ばし始めた。以前ピザ屋で働いていたという町田の作るピザは本格的なものだった。手慣れた手つきを見ながら俺は音に身を委ね全ての負の思考を締め出した。
「All You Need is Cash」が流れ始めた頃、オーブンからピザの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
「真山さん、ちょっと雰囲気変わりましたね?」
突然そう言われて俺は戸惑った。
「そうか?」
「なんか目に生気が宿ったというか」
「人を死人見たいに言うなよ」
苦笑いして言い返すと町田はグラスの酒を一口あおって言った。
「いつも死を待ち焦がれてるような目をしてますよ」
「今は違うのか?」
「そうですね。リタイアして生きがいを見つけた爺さんみたいな……」
俺は笑いながら殴る真似をした。
「お待たせしました」
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まだチーズが泡立っている焼きたてのピザがカウンターに出された。一切れ口に入れると薄いピザ生地は程よく香ばしく、トマトの酸味とバジルが舌を刺激する。
「旨いな」
町田が驚いた顔をしている。
「どうした?」
「やっぱり真山さん変わりましたね、俺のピザを初めて褒めてくれましたよ」
Zuzuのドラムが鳴り響き二本のギターがうねりだした。Hurryの声に押されるように俺は店を出た。どこへも逃げやしない、逃げ場所などどこにもないのだから。
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