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小林秀雄に痺れる!こうして私はドストエフスキーを読み始めた~いざロシア文学沼へ

前回の記事でお話ししましたように、私は世界一周の旅を経て久方ぶりにドストエフスキーと再会することになりました。

9年ぶりに読み返してみて、私は驚きました。

やはりこの小説はすごい・・・!

初めて読んだ時に衝撃を受けた箇所はもちろん、前回そこまで目に留まらなかった箇所でも「こんなことが書かれていたのか」と新たな感動を受けました。

知識も経験も乏しかった9年前とはまるで違った印象を感じました。

よく「古典の名作は何度も何度も読み返すたびに違った味わいが生まれてくる」と言われますが、まさしくその通りであることを実感しました。

やはりドストエフスキーは巨人だ・・・!

そしてちょうどこの頃、私は『カラマーゾフの兄弟』を読みながら小林秀雄の『読書について』という本も読んでいました。


小林秀雄は昭和に活躍した、「批評の神様」と呼ばれる文学者です。

この『読書について』という本は小林秀雄が読書について書いたエッセイが集められています。

その中で私は彼の次の言葉に胸を打たれました。少し長くなりますが引用しました。

或る作家の全集を読むのは非常にいい事だ。(中略)読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早い而も確実な方法なのである。

一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。(中略)

僕は、理屈を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしている内に、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了うと、その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるようになる。

これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。

『読書について』小林秀雄 中央公論新社 2018年五版発行 P11~13

その人の言葉を通してその人自身が見えるようになる―それこそ読書の醍醐味である。

あぁ、さすが小林秀雄!なんと心を震わせてくれるのでしょう。

書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び人間に返すこと、読書の技術というものも、其処以外にはない。

『読書について』小林秀雄 中央公論新社 2018年五版発行 P13

本が本には見えない・・・!

あぁ、こんな境地があったのか・・・

もし今これをやるとすれば・・・それはもう、ドストエフスキーしかない・・・

・・・でも、ドストエフスキーの全集か・・・

思い付きはしたものの、すぐに決定とはいきませんでした。さすがに相手が悪すぎると尻込みしてしまったのです。

さて、その日のうちに『読書について』を読み終わり、次に読み始めたのが同じく小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』でした。

この本は小林秀雄によるドストエフスキーの評伝で、ドストエフスキーの生涯や人間像が小林秀雄流に書かれています。

私は『カラマーゾフの兄弟』を読んではいたものの、このときはまだドストエフスキーの生涯がどのようなものであったかはほとんど何も知りませんでした。

ですのでこの本が実質、ドストエフスキーの生涯がどんなものだったかを知る初めての資料だったのです。

読み進めていくとドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』で文壇に華々しくデビューし一躍時の人となったものの、間もなく伸び悩み絶望の淵に沈みます。さらにはその数年後には政治犯としてシベリア流刑になったりと思いの他波乱万丈な人生を送っていたことを知りました。ドストエフスキーってこんな人だったのかと驚くばかりです。

そして読み進めていくこと122ページ。私の驚きは頂点に達します。こちらも少し長いですが引用してみましょう。

ストラアホフの語るところによれば、「ドストエフスキイは、決して巧者な旅行家ではなかった。自然も歴史的な記念碑も、最大の傑作はともかく、美術品さえ格別彼の気を引かなかった。彼の注意はすべて人間に向けられていた。街の一般生活の印象、人々の天性や性格に向けられていた。誰もやる様に、ガイドをつけて、名所見物に歩いたところで仕方がないじゃないか、と彼は熱心に僕に説いた。事実、僕等は何も見学しなかった」。青年時代から憧れていたフロオレンスに行っても、「旅行家のする様な事は何一つしなかった。街を散歩する外、僕等は読書に耽った。当時、ユウゴオの『レ・ミゼラブル』がでた許りで、ドストエフスキイは、毎巻つづけて買い、読み終ると僕に渡して、三四冊は一週間の滞在中に読んでしまった」。

『ドストエフスキイの生活』小林秀雄 新潮社 平成24年35刷発行 P122

1862年、41歳のドストエフスキーは初めてのヨーロッパ旅行に出発します。その旅に途中から合流したのが引用に出てきたストラアホフという友人です。

ドストエフスキーにとってヨーロッパ旅行は長きにわたって憧れの存在でした。

しかし憧れの旅であるはずなのに、ドストエフスキーは旅行中、上に語られたようなありさまだったのです。

ドストエフスキーにとっては観光名所めぐりはもはや頭にありませんでした。彼にとっては街の印象や人々の生活、性格こそ興味をそそる対象だったのです。

彼の頭には、はやロンドンもパリもない。彼の思想は燃え上る。自由とは何か、同胞愛とは何か。

『ドストエフスキイの生活』小林秀雄 新潮社 平成24年35刷発行 P123

ドストエフスキーのこの姿勢!

この飽くなき人間探究の姿勢に私は痺れたのでありました。

これこそ私がドストエフスキー全集、はては伝記や論文その他の書籍を片っ端から読んでいこうと決意した瞬間でした。

私はドストエフスキーに心の底からシンパシーを感じました。

と言うのも私自身の世界一周の旅もまさにそのような旅だったからです。

もちろん、私の旅でも有名な観光地や芸術もたくさん見てきましたが、それよりもその背景にある文化や歴史、人間そのものにこそ最も興味が引かれたのでありました。

このドストエフスキーとの奇妙な共通点がきっかけで私は今度こそドストエフスキーと対峙する覚悟を決めました。

9年前とは違い、今度はドストエフスキーの全作品が相手です。小説だけでなく書簡から手記まで全部です。

世界一周記の記事が終われば、次にやるべきことはいよいよ親鸞聖人や仏教経典の研究だと私はずっと思っていました。しかし、ここでその前にもう一つやるべきことができたのでありました。

ですが、ドストエフスキーを学ぶことは仏教を理解する上でも必ず大きな役割を果たすことになりましょう。

こうして私はドストエフスキーと向き合うことになったのです。

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さて、

「ドストエフスキー全集を読む。」

そう決めた私でしたが、実はこの時私はドストエフスキー全集がどれだけの分量なのかを全く考えていませんでした。

早速市の図書館の文学全集コーナーの書架に行ってみると、思わず「おぉ・・・」と呻いてしまいました。


ドストエフスキー全集(新潮社版)は27巻と別巻1冊の全28冊。

『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、『悪霊』など有名な作品の他にもドストエフスキーはものすごい数の作品を残しているということを目で見て実感しました。

巻末の目録を見てみましょう。


1巻目は1846年に出版されたデビュー作『貧しき人々』をはじめとした初期の短編と中編が収められています。

16巻目までがドストエフスキーの小説作品なのですが、基本的に年代順に収められています。

有名な長編作品のイメージが強かったのでドストエフスキーがこんなにも多くの作品を書いていたというのは少し意外でした。皆さんはどうですか?

また、こうして見てみるとドストエフスキーで最も有名である『罪と罰』が出来上がるまでずいぶんと多くの作品が作られていたのだなと感じます。ちなみに『罪と罰』が完成したのは1866年。ドストエフスキーがデビューしてからちょうど20年後になります。

そしてこの目録を見て驚いたのは20巻から23巻までの4冊が書簡で占められていることでした。

そのうちの1冊は妻との手紙だけで出来上がっています。

電話やメールもない時代とはいえ、凄まじい量の手紙です。そしてさらに不思議なのはそれがしっかりと保管されていてこうして現代を生きる私たちが読めているという事実。

全集を読むということはこういうひとつひとつのことにも面白みがあるなと感じたのでした。


字の小さい分厚い全集をすべて読むのは大変なので、文庫で手に入るものは文庫で読むことにしていきました。

文庫の場合、いくつもの出版社からドストエフスキー作品が出版されていますが、私は新潮文庫をお勧めします。

訳も素晴らしく、ドストエフスキーの原典に忠実かつ、現代人の私たちにも読みやすい訳となっています。

私はまずは『カラマーゾフの兄弟』を皮切りに、文庫で出版されている長編小説に進み、その後で図書館にある全集に順次取り掛かることにしました。

8月上旬にスタートした全集はなかなかペースが上がらず苦戦を強いられましたが、世界一周記の記事を書き終えた12月上旬から一気にペースアップし1月の半ばにはようやく第一周目を終えることが出来ました。

そして読んでみての感想はといいますと・・・

とにかく辛かったというのが本音です。

『カラマーゾフの兄弟』はまだ救いがある内容なのでなんとかなります。しかし同じく長編小説の『悪霊』ともなると、小説の毒気に当てられるといいますか、読んでいてどんどん体調が悪くなっていきました。

全集の初期短編、中編小説群もなかなかに手強い相手です。

少なくとも、「読んでいて楽しくはない」、そんな思いを持ちながらの読書でありました。

特に3巻の『ステパンチコヴォ村とその住人』は私の中で最も辛いものでした。この小説に出てくるフォマという人物がとにかく腹立たしい。読んでてお腹の辺りがグラグラグラグラ煮えたぎってくるようでした。危うく発狂です。

「なんでこんな人間を書かなきゃいけないんだ!一体ドストエフスキーは何を考えているんだ!もう勘弁してくれ!」

思わず私は心の中で雄叫びを上げました。

もしこの本が図書館のものでなかったら、この本は八つ裂きの刑に遭っていたことでしょう。

しかしここで私はハッとしました。

ふと小林秀雄の言葉を思い出したのです。

「文は人なり」

そうです。全集を読むというのは作品を通して作者その人を知るということです。

全集を読み続けてきてからここにきて初めて、心の底から「作者のドストエフスキーはなぜこういう人物を書かねばならなかったのだろう」という疑問が浮かんできたのです。

ドストエフスキーそのものに対して心の底から興味が湧いた瞬間でした。

ここから私の読書も変わっていったような気がします。(相変わらずフォマは大嫌いでしたが)

小説を読み終えると今度は『作家の日記』へと突入します。

『作家の日記』はドストエフスキーが発行した雑誌で、ジャンルを問わずドストエフスキーが世に対して思うことを自由に書き連ねていくというスタイルのものです。

小説と違ってドストエフスキーが世の中のあらゆることに対して率直に語ることから、ドストエフスキーその人を知る上で非常に重要な資料であると言われています。

『悪霊』やフォマの件にもあったように、ドストエフスキーは人間のどす黒いものをとにかく執拗なほど私たちに暴露します。

ドストエフスキーは人間のどす黒いものをえぐり出した暗い作家。

そんなイメージが私の中には強く存在していました。

しかしそのイメージが覆され始めたのがこの『作家の日記』でした。

『作家の日記』には虐げられた女性の話や、子供たちに対する思いやり溢れた言葉がたくさん書かれていました。

読み進めていく内に私は少しずつ新たな感情を抱き始めます。

「ドストエフスキーは優しい人なんだ・・・」と。

虐げられた弱者へのまなざし、特に貧困に苦しむ子供や虐待を受けている子供たちに対するドストエフスキーのまなざしはそれまでのイメージとは全く違ったものでした。

人間のどす黒さを描いたまなざしと、苦しむ子供たちを憐れむまなざしが全く同じ人間から生まれてきていることに気付いたのです。

「なんでドストエフスキーはこんな人間を書かなければならないんだ!」私は少し前、そう疑問に思いました。

そのヒントがこの優しいまなざしにあるのかもしれない。ドストエフスキーは優しい人なのかもしれない。だからこそひどい人間をあえて描いているのかもしれない。

私はそう思うようになったのです。

1周目を終えて、ドストエフスキー作品のだいたいのあらすじを把握することは出来ました。しかし、その深いところは正直まだまだ分からずじまいです。初見で太刀打ちできるほど甘い相手ではありませんでした。

というわけですぐさま2周目に突入です。さすがに全作品を読むことはしませんでしたが私が重要と思う作品はすべて読んでいくことにしました。今度は世界一周記もないので全勢力をドストエフスキーに傾けられます。

参考書や資料も駆使して読んでいきます。

そうすると、面白いことに初めて読んだ時とまったく違う印象を受けることになったのです。

これには驚きでした。

やはり初見は厳しいです。まず初めてなのでストーリーを追うのでいっぱいいっぱいです。

しかも仮に参考書を読んでいたとしてもその作品を知らなければ説明を読んでも頭に入って来ません。

しかし、一度作品を読み、あらすじがわかった上でさらにその作品の解説を読んで背景を知り、さらにはそれを書いたドストエフスキーその人を伝記や資料などで知ることで大きな変化が生まれます。これまで読んだ作品がもはや初めて読んだ時とはまるで別物の作品と化すのです。

2周目の全集は1周目の時とは打って変わり、非常に興味深いものとなりました。

もちろん、ドストエフスキーの描くどす黒さは健在です。相変わらず読んでいて具合は悪くなりますが、今ではそれにも意味があると納得した上での体調不良です。

私はこの頃には研究の対象というより、ドストエフスキーに個人的に惚れこむようになっていました。

こうして今もドストエフスキー研究は続いています。

まだまだドストエフスキー全集についてはお話ししたいことがたくさんあるのですがそれはまた機会があればということに致します。

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今回の記事は2020年に公開した以下の記事を再構成したものになります。

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