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#4 より、言葉の「音」を聴く
今からむぎちゃんに「バカ!」って言うね
言葉は言葉
言葉から色を剥がすトレーニング
記号としての言葉
私たちは物事を共有したり、心を伝えたりするために言葉を使っている。そのとき言葉は絵筆になる。共有したいのは絵であって、絵筆の質やメーカーじゃない。それなのに、言葉選びや発言者に目を向けてしまう。自分の得意なことはあまり大袈裟に話したくないし、不祥事を起こした人が道徳について語っていると嫌になる。
言葉選びに振り回されている例で頻繁に目にするのは長所/短所の事例がある。考えごとが多く、将来を予想し、行動が遅いような人を「慎重」だの「行動力がない」だの「計画的」だの「杞憂」だの表現を変えて印象の調整を図る。言語化にはやはり発言者の視点と気分がノイズとして加わる脆弱性があるため気をつけなければいけない。上の例では、つまるところはじめに挙げた考えごとが多く云々、な特徴を共有したいわけなので、4つの例文どれを読んでもその特徴だけを受け取ればいい。そこに乗るネガティブさやポジティブさはあくまで発言者の性格として切り分けよう。プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言った。これに倣い、「言葉」の観点で言い換えれば「人間は万物の漉し器である」といえるのかもしれない。人間に世界のすべてを言葉にすることはできず、多くの要素を漉してしまう。そのうえ、本人の価値観や気分を付与する。
どうしても色を塗りたくなるけど
いいえ 私は何にでも意味をつける女~♪
どんなことでもひと注ぎ 隠された意味を見たい~♪
ハンカチの柄、靴下の履き順、ゴミ捨て場の雑誌、ドラマ、失敗、人生 etc…と、私たちはとにかく「意味」ってものが大好き。ニーチェも「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」と書いた。大昔の人は亀の甲羅のヒビにすら運命を感じたし、今の私たちも花びらの枚数に運命を感じたりする。国民的学園ドラマで長く先生を演じた人を、テレビでは本物の先生のように扱っている。視聴者も、その俳優の教育論に頷き膝を打っている。
「意味」ってすごく文化的だ。日本人は小さな鳥居が転がっているだけでポイ捨てをできなくなるらしい。西洋の絵画には多くの象徴的モチーフが描かれている。分かる人には、小物ひとつや構図だけでメッセージが伝わる。多くの日本人はワインとパンを(人間あるいは神様の)血肉だと思ったことがないだろうと思う。それでも、生い茂る山に神様を感じる。
私たちは地球を覆う人間の文明社会で、それぞれの文化に染まって生きている。何を頑張らなくても、私たちの感覚に、性格に、言動に、好き嫌いに、世界の見え方に、無意識に、意識に、生まれ育った環境の文化が根を張り息づいている。それが世界を鮮やかに彩らせる。
世界の色には、人それぞれが感じる「意味」が表れる。価値観や偏見もその世界に色を塗る。私たちが本当の世界を見る前に、私たちの心は勝手な色を塗ってしまう。心がもつ自動的な色塗り機能に気付かずにいることが、他者と自分の世界が同じように「見えている」と勘違いをする原因になる。
他人の歌を歌うこと
俳優が役として話す言葉やする行動はその人の本心じゃないなんて、みんな知ってるはず。犯人役のあの人も、試写会では人柄良くインタビューに答えている。
歌手が発表する歌が本心じゃないなんて、みんな知ってるはず。ハツラツに歌い踊るアイドルは、誰かの書いた詞を読んでいる。
私たちもカラオケに行けば、リズムやメロディーを気に入っているだけの曲を楽しく歌うことができる。
私たち人間は心や気持ちと無関係に「言葉」を使うことができる器用な生き物だ。仲良くもない人を食事に誘うことも、好きな人に「嫌い」と投げつけることだってできる。とはいえ、もちろん言葉を気持ちに従って使っていることが多いこともひとつの事実として経験されていて、特別なことがなければ私たちは「言葉=心」として受け取る姿勢を無自覚にとっている。無関心に、無警戒に、無検討に、言葉を心として扱い、心で受け止め、言葉になった心で表現している。
本記事はポッドキャスト『金曜夜の詭弁と妄言』を元に作成されました。
土曜日20:00~22:00 Twitterスペースで生放送中
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