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Ⅰー26. かつての「抗戦の首都」における戦争の記憶:東北部トゥエンクアン省(前編)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(26)
★2013年11月16日~11月23日

見出し画像:1945年八月革命直前に「国民大会」が開催されたタンチャオの亭(ディン)(トゥエンクアン省ソンズオン県)

はじめに

今回の聞き取り調査は東北部トゥエンクアン省でおこなった。トゥエンクアン省はハノイの西北の方向に位置する山間部にある。16世紀には黎朝と対立した莫朝が当地まで逃れてきており、その城跡のごく一部がトゥエンクアン市内に残っている。1945年の八月革命直前ではトゥエンクアン省のタンチャオにおいて「国民大会」が開催され、民族解放のための総蜂起が決定された。第一次インドシナ戦争中(1946~1954年)、ホー・チ・ミン率いる民主共和国政府はハノイを離れて山間部に疎開し、タイグエン省やトゥエンクアン省を転々とした。1951年2月にインドシナ共産党の第2回党大会が開かれたのはトゥエンクアン省であった。この大会でインドシナ共産党はベトナム労働党に改名した。当時、トゥエンクアンは「抗戦の首都」とも呼ばれた。

今回の調査日程は以下の通り。
11月16日、日本発、ハノイ着。11月18日、朝6時半に車でホテルを出発。途中、8時半頃、ヴィエットチーで休憩。午前10時40分、トゥエンクアン市に到着。同省退役軍人会に挨拶。同日午後、同省退役軍人会と打合せ。トゥエンクアン博物館を見学。11月19日、トゥエンクアン市内在住の5人にそれぞれの自宅でインタビュー。夜、同省退役軍人会から犬肉屋にご招待される。11月20日、ソンズオン(Sơn Dương)県に行き、同県退役軍人会事務所にて4人にインタビュー。午後、タンチャオ特別国家歴史遺跡を見学。11月21日、イエンソン(Yên Sơn)県に行き、4人に自宅でインタビュー。昼、同県退役軍人会の人たちと会食。会食後、トゥエンクアン市に戻り、同省退役軍人会に挨拶。午後2時、バスにてトゥエンクアン市を出発し、午後6時半頃、ハノイのホテルに到着。11月22日午前、社会学研究所の30周年記念式典に参加。そこでアジ研のT氏夫妻と会う。11月23日、深夜便にて帰国。

タンチャオ特別国家歴史遺跡内にある小屋。ホー・チ・ミンが八月革命直前の1945年5月~8月に住居兼執務室として使った。

今回のインタビュイー13人は全員がトゥエンクアン省在住の男性退役軍人。トゥエンクアンは新開地ということもあり、移住者が多い。一覧は以下の通り。記載事項は、名前、生年、出身地、入隊年、最終階級、入党年、備考。順番は年齢順。?は聞き漏らし。

1.マオ、1927年、ナムディン省、1946年(ゲリラ)、?、1961年
2.ビン、1929年、タイグエン省、1953年、中佐、1967年
3.トゥイ、1932年、ハタイ省、1951年、大尉、1952年
4.カン、1933年、トゥエンクアン省、1949年、大尉、1955年
5.ニュン、1940年、タイビン省、1960年、上佐、1966年
6.ヴァン、1940年、フート省、1960年、?、1962年
7.ギエン、1940年、?、1968年、?、1968年
8.ヴィエン、1946年、ニンビン省、1965年、中佐
9.ニャン、1948年、タイビン省、1966年、大尉、1967年
10.トン、1950年、トゥエンクアン省、1969年、?、?
11.タイン、1950年、トゥエンクアン省、1968年、?、1969年(?)
12.ザン、1950年、トゥエンクアン省、1968年、?、1972年
13.キー、1953年、トゥエンクアン省、1971年、?、?

トゥエンクアン市の光景

(1)マオ(1927年生まれ):ディエンビエンフーの戦いの民工

現在、トゥエンクアン市在住。マオはナムディン省出身の私生児で両親を知らず、養父母に育てられるも、養父も1942年に亡くなった。1945年の飢餓で沢山の死者が出たので一家で郷里を捨てた。ハノイまで歩き、そこからフートまで汽車に乗ったがお金が尽き、当地に彷徨い辿り着いた。その間、日本軍のクーデタがあり、フランスの行政機関や軍隊は敗走し、無秩序になり略奪も生じた。最初は乞食をし、「火事場泥棒」のようなこともした。マオはあるお婆さんに拾ってもらい、牛飼いや雇われ仕事をした。

1946年にイエンソン県イーラー社のゲリラに参加。武器は小刀と杖のみ。1947年にフランス軍が当地を攻撃したが、焦土作戦で対抗した。同社では革命政権を維持。しかしトゥエンクアンがフランス軍に再占領されると、マオらゲリラは疎開して抵抗を続けた。

1953年8月にイーラー社抗戦行政委員会から、ディエンビエンフーへ補給する荷物運搬用自転車(xe thồ)の民工を依頼される。当時、同社には自転車はあまりなく、検問所をつくって自転車で通行する人から自転車を借り上げた。しかし反発する人はいなかった。トゥエンクアン省全体では民工の大隊を組織し、イーラー社とトゥエンクアン市は11人の小隊を組んだ。ルンロー(Lũng Lô)峠からギアロ(Nghĩa Lộ)峠へ、さらにファーディン(Pha Đin)峠、ヒムラム(Him Lam)地区まで、体の弱い人でも最低100キロ、体の丈夫な人で最高300キロの荷物を運んだ。主には米で、食料品や弾薬も運んだ。敵機が襲来し、道路も未整備の中での任務だった(筆者注:ディエンビエンフーへの補給路は主には2つあった。1つはイエンバイからルンロー峠を通ってと、もう1つはタインホア省からコーノイ三叉路を通っていくルート。Ⅰー10. およびⅠー19. (2)を参照のこと)。マオは1954年6月まで民工を務めた。この間、お米の支給があっただけで、衣服や給料の支給はなく、蚊帳・毛布・雨具・紐なども自弁だった。

抗仏戦争後もゲリラを続けるとともに、社の公安副委員長、合作社主任、イエンソン県党委幹部などを務めた。抗米期は(外国からの)援助があったので抗仏期ほど生活は大変ではなかったが、爆撃が多く、マオの家の裏にも爆弾が落ちた。抗米期、イーラー社周辺には中国軍が駐屯し、主に食糧の運搬をしていた。

(2)ビン(1929年生まれ):3つの戦争を経験した砲兵

現在、トゥエンクアン市在住。タイグエン市出身。抗戦政府下の学校であったルオン・ゴック・クエン高校(9年制)在学中(1949ー50年)に兵士の募集があり、それに応じて入隊した。やせていて身長が低かったので不合格になるかと思ったが、その時は全員徴兵していた。

1953年にタイグエンの部隊に配属されるが、その後、第351砲兵司令部に補充され、ディエンビエンフーの戦いに参加した。ビンは、ディエンビエンフーの戦いの火ぶたを切るヒムラムの丘攻撃の砲兵戦士だった。主に使われた砲は中国製の105mmで、中国からラオカイ、イエンバイ、トゥエンクアンへと輸送されてきた。そのほかに日本軍の75mm山砲もあった。戦勝後、砲兵士官学校で学んだ。砲兵士官学校時代(1957~1959年)、教員はみな中国人だった。抗仏期は武器と食糧は少なく、大きな部隊はなく、戦闘経験も乏しかった。

1963年に南部行きを志願。63年末・64年初に南部入りした。南部に最初に入った北部人のひとり。当時まだ南部への道は整備されていなかったが、ラオス、カンボジアを通って、4か月と10日でタイニン省に到着した。砲兵司令部に属し、1964年10月にはビエンホア飛行場を攻撃した。1965年8月にはDKBを使用した。1968年のテト攻勢では、3度サイゴンの攻撃に参加した。テト攻勢後の「平定期」は長い間カンボジアに避難していた。1972年にはベトナムに復帰し、グエン・フエ、ビンロン、フオックロンの各作戦、および1975年のホーチミン作戦に参加した。ビンの使用した砲はソ連製の122mm。これらの砲弾はカンボジアから運び込まれた。

中越戦争では、砲兵中団の政治員として指揮した。カオバン省で戦い、主に122mmを使用した。ビンの意見では、砲兵は中国軍の方が優れていた。

1963年に結婚したが、1週間で出征した。妻に再会したのは12年後の1975年であった。1978年に第一子が誕生した。
ビンは、トゥエンクアン省の枯葉剤被害者の会の主席をしているが、同省では被曝者が6000人余りおり、そのうち補助金を受け取っているのは2700人にすぎないという。

トゥエンクアン博物館(トゥエンクアン市)

(3)トゥイ(1932年生まれ):軍隊政治員を長く務めた兵士

現在、イエンソン県在住。ハタイ省(現ハノイ市)の出身。1947~1950年、戦乱で人々は疎開し、トゥイの家族もソンタイ省バットバット社カムダイ村に逃れた。1948・49年に同村のゲリラとなった。1950年11月にフランス当局に捕まったが、1951年3月に脱出し、そのまま入隊。ホアビン省に駐屯していた第320師団に配属された。同師団は1951・52年のデルタ作戦に加わり、ニンビン、ナムディン、タイビン、ハタイの各省を攻撃した。52・53年秋冬はデルタの敵後方で戦闘した。53・54年はディエンビエンフーの戦場に呼応して、ダイ川を越えてナムディン、タイビン、ニンビンの各省を攻撃し、ディエンビエンフー作戦の時はカオバン省で戦った。

1951年に入隊した時、服は支給されず、自前の服だった。民の家に寄寓し、寝る時は藁や乾燥したバナナの葉をかけて寝た。お米は朽ちていて、食事はゆでた空心菜と塩・タレのみ。銃弾は不足し、銃は歩兵銃と軽機関銃のみだった。昼間の訓練が終わると、川に行って魚貝を採り食べた。

1958年の8万人削減の「軍縮」の時、トゥイは党員で士官だったので軍にとどまった。1962年にソ連留学の話があったが、「修正主義」批判で取りやめになった。政治学院で2度学び、装甲司令部の戦車大隊政治員などを務めた。

1970年1月、第320師団・高射砲小団の政治員として同小団を率いて南部のタイニン省へ行き、部隊を引き渡した。その後、北上して、クアンチ作戦に参加。ヴィンフーの政治学院で再び学んだ後、第338師団の中団の政治主任となった。1967年から退役した1977年まで軍隊の政治工作に従事した。

(4)カン(1933年生まれ):ラオスで長期間戦った国境警備隊兵士

現在、イエンソン県在住。トゥエンクアン出身。祖父が当地に入植した。1945年に日本軍が進駐すると、フランス軍は撤退し、逃げ出す住民もいた。飢饉の時は多くの人がやってきて、祖父母は山の方に避難した。

カンは1949年に入隊した。各兵士はフランス軍か日本軍の歩兵銃が与えられた。1949年末にはハザンに行き、匪賊を討伐した。1953年、第148国境警備隊に配属になり、ラオスに赴いた。ディエンビエンフーの戦いの時はラオスにいた。戦後もラオス国境沿いに駐屯し、時には偵察でラオス領内に入った。

1959年、ハノイの公安関係の学校で約3年間学ぶ。その間に結婚した。また、ソ連留学の話があったが「修正主義」批判で取りやめになった。学校を終えると、妻を連れてラオス国境のディエンビエンに戻った。数か月おきにラオスと往来した。1971年にライチャウ省の武装公安に転任になり、1年後に再びラオスへ。合計で12年間、ラオスで戦闘した。

ベトナム戦争終結まじかの1975年3月、「総進攻」でライチャウ省の部隊にも動員がかかり、1個中団を編成した。ラオカイから汽車でハノイへ、ハノイから汽車でヴィンへ、ヴィンから車で南部入りし、ドンナイ省までたどり着いた。カンは、タイニン省の偵察班に配属され、カンボジア国境沿いの偵察をした。戦後もとどまり、クメール・ルージュがベトナムに侵攻してきた時はタイニンにいた。

中越国境の緊張が高まると、北に呼び戻された。1979年2月15日にラオカイに戻り、16日に緊急会議があり、翌17日朝6時に中国軍の攻撃が始まった。家族の生活困難な事情があり、1980年に退役した。

トゥエンクアン省退役軍人会事務所のある省合同庁舎

(5)ニュン(1940年生まれ):ラオス勤務が長かった工兵

現在、ソンズオン県在住。タイビン省出身。タイビン省で1960年に入隊。中学の7年生だった。その時は軍事義務制度による徴兵で選抜は厳格で、ニュンの住む社全体で120人が身体検査して11人のみが合格だった。1962年のハノイでの閲兵式では工兵士官として参加した。1965年に工兵士官学校を修了し、少尉に任官。第4軍区増援のため、ヴィンに赴任した。

ヴィンに来ると、ラオスに駐屯する第324師団の第15工兵小団に配属された。ラオスには合計で3回赴任し、最初は3年間いた。シエンクアンのサムヌアの森の中に駐屯していた。帰国して、約2年間、兵站学院で学んだ。それからまたラオスに赴任し、ヴィエンチャンの防衛にあたった。ニュンは工兵だったので、モン族と戦闘したことはなかった。その後、帰国し、兵站総局の基本建設局で研修した。1975年、研修修了近くに、クラス全員がサイゴン接収のために駆り出された。短銃とAKを携帯して、車に分乗して急行した。4月30日になんとか間に合い、サイゴンのフーニュアン区で接収に従事した。

1976年、第4軍区に戻り、第324師団の兵站副主任・中佐としてラオスのヴィエンチャンに赴任。2年間いた。その後、国道9号線沿いに駐屯し、1992年に退役。

1967年にラオスから帰って結婚。子どもとは7年離れていた。トゥエンクアンに住むようになったのは、妻の親戚が当地の農場の副所長だった縁で農場の土地を支給してもらったからである。

(6)ヴァン(1940年生まれ):軍事義務による最初の徴集兵

現在、ソンズオン県在住。ヴァンはトゥエンクアンで生まれたが、家は元々はフート省で両親がトゥエンクアンに入植した。ヴァンは1960年に入隊したが、軍事義務による最初の徴集兵だった。最初の徴集は選抜が厳格で、まず履歴の審査があり、次いで身体検査があった。学歴要件はなかった。最初の徴集は1958・59年にヴィンフック省で始まり、第3波でトゥエンクアンなどの山間部の省にも広まった。(筆者注:1960年代なかば以降になると、「総動員体制」で徴集の選抜は厳格ではなくなる)。ヴァンの頃の訓練は3か月で、後になると2か月になった。ヴァンはソ連の専門家が進めていた空軍の選抜に行くが、虫歯があるため撥ねられた。

ヴァンはトゥエンクアンの第246中団の電信兵となった。電信学校で1年間学び、ラオカイ省隊に配属になった。1964年8月、米軍は北部を攻撃し、11月にはレンジャー部隊をラオカイに降下させたが、米兵3人とも捕まえられた。ヴァンはラオカイ省隊に3年在籍し、その後、政治学院で学んだ。1971年12月、政治学院生1000人余りのうちヴァンを含む400人が南部の戦場に動員された。ヴァンは第304師団・第9中団の通信部隊の政治員となった。ずっとジャングルの中で活動し、1975年になってはじめて都会に出た。ダナン市だった。3月29日にダナン市ソンチャー半島に進攻。2日いて、海路でクイニョンへ。さらにはスアンロックの戦いにも参加した。ホーチミン作戦では、ヌオックチョン(Nước Trong)基地を攻撃した。

ベトナム戦争終結後、北に戻ってバックザンのケップ飛行場に駐屯。1979年、第2軍団の一員としてヴィンテー運河を越えてカンボジアに進攻した。カンボジアで中越戦争のことをきいた。病兵制度で1981年に退役(大尉)。

第304師団では、1973年のパリ和平協定後、年齢の高い兵士を一時帰郷させ、結婚させた。ヴァンもそれで帰郷し1か月で結婚した。

(7)ギエン(1940年生まれ):枯葉剤を浴びたインテリ兵士

現在、イエンソン県在住。出身地と詳しい学歴は不明。1959年、ハノイの農林学校で学ぶ。その後、クアンニン省で工作。1968年に入隊。同年7月に南部に出征。ギエンはテト攻勢後にトゥアティエンの戦場に入った。第6中団の政治補佐を務めた。この第6中団は、テト攻勢の時、最初にフエに入って最後に撤退し、26日間戦った部隊であった。1969~71年の「平定期」はフエ西方の山間部アルオイ(枯葉剤が散布された所として有名)にいた。きわめて困窮・空腹した時期であった。近くに駐屯していた第4中団は餓死とマラリア死で半分が死亡し、300人余りしか残らなかった。それでギエンの第6中団に補充された。またこの中団は、1970・71年に林業大学、建設大学、ヴィン大学などの学徒兵をたくさん補充した。トゥアティエン・フエの戦場で一番厄介なのは雨季であった。空爆が絶え間なかったので、1か月間も乾いた服を着れないことがあった。食糧事情は1971年なかばには改善された。1980年に家族が非常に生活困難だったので除隊し、トゥエンクアン省農業局長だった学友に頼り、こちらに来た。

ギエンは1968年7月に入党した。部隊に入って2か月28日のスピード入党だった。その頃、学歴のある人は「知識人」で「プチブル思想」の持ち主と見なされ、入党が難しい面もあったが、軍隊に入ることによってそれが克服された。戦場では特別措置で、入党試験期間は3か月だけだった。

ギエンはイエンソン県の枯葉剤被害者の会の主席を務めている。彼によれば、同県の枯葉剤被害者は340人いて補助金を受給している。232人は直接被曝した被害者で、108人は第2世代である(37人が重症)。第3世代の被害者も約20人いるが、補助金を受給していない。被曝者の総数は975人にのぼる。ギエン自身も枯葉剤の影響で子どもを一人失くしている。

イエンソン県にあるキムフー農林合作社の事務所

(8)ヴィエン(1946年生まれ):フエでのテト攻勢で26日間立てこもった防空兵

現在、トゥエンクアン市在住。ニンビン省出身。10年生まで修了し、1965年に入隊。学校の成績はよかったが大学には行けず、入隊した。ゲアン省の第324師団の防空兵となった。1965年4月、ハティン、クアンビン、ヴィンリンと行軍し、ヒエンルオン川のたもとまで来て駐屯。1965年10月、17度線を越えてクアンチに入った。1966・67年乾季の北クアンチ戦線で勝利した。

1968年のテト攻勢では、フエを攻撃し26日間立てこもった。敵の激しい反撃を受け、一旦は撤退したが、再度攻撃し(第2波ではない)、4月20日から5月1日までフエ市の北のフオンチャー(Hương Trà)県一帯において激戦となった。ヴィエンの部隊は約600人いたが、生き残ったのは16人のみであった。損耗が大きく、戦闘後、ジャングルの基地に戻った。同年中に2度目の攻撃をした。その後、ダナン戦線に移った。ヴィエンのテト攻勢に関する評価は次のようなものである:「大勝利だったが勢力がまだ十分ではなかったので、反撃され多大な損耗をしたが、失敗とはいえない」。

1969~71年の「平定期」は困難な時期で、クアンナムにいた1969年9月、重傷を負い、ハノイの108病院で治療。治療後、ニンビン市やタインホアのハムゾン(Hàm Rồng)橋の防衛にあたった。ベトナム戦争後、ニンビン省の防空主任になり、中越戦争が勃発するとランソンに向かった。中越戦争後の1980年、トゥエンクアンにあった防空学院の教員となり、家族連れで赴任した。「バオカップ」時代、中佐の給料は米20キロを買えるだけしかなく、生活は苦しかった。1989年に退職。

(9)ニャン(1948年生まれ):戦死者に負い目を感じる生還兵士

現在、トゥエンクアン市在住。タイビン省出身。1966年に入隊。同年12月、南部に出征。1967年7月、ドンナイ川のほとりに辿り着いた。到着時はジャンクションシティーの戦いのさなかだった。この戦いでは北からの補給が間にあわず、洪水期でもあり、革命側は食糧不足に陥った。ニャンたちは第5師団・第5中団に補充され、東南部で活動した。1968年のテト攻勢では、ビエンホア飛行場を攻撃した。その時、ニャンの部隊は出発した時は117人いたが、生還したのは17人のみだった。翌年もビエンホア飛行場を攻撃した。武器はB.40とB.41を使用したが、当時は幹部・党員しか使えなかった。ニャンは1967年末からB.40を使用し、1969年なかばからB.41を使った。

「平定期」にはカンボジアに3・4年いた。その間、ロン・ノル軍と戦った。1970年5月にクラチエを解放し、(カンボジアの)革命政権を樹立した。1971・72年はB52の絨毯爆撃を受けていた。米軍の火力はものすごく、死体の搬送もままならなかった。「戦争のベトナム化」以降は楽になった。

南部(およびカンボジア)に9年間(1966~1975年)いたが、ずっとハンモックで寝ていた。食べ物は野草と干し魚。缶詰の肉は黴ていても食べた。1975年に負傷し、北に送られて、戦争終結を迎えた。治療後、両親が「新経済区」建設でトゥエンクアンで暮らしていたので、ニャンもトゥエンクアン省隊に異動した。1979年の中越戦争にも参戦した。

ニャンの故郷のタイビン省ドンフン(Đông Hưng)県ドンラ(Đông La)社
には200人以上の烈士(戦没者)がいるが、1968・69年の戦死者だけで100人以上になる。ニャンと同期入隊は76人で生還したのは24人だという。ニャンの最大の願いは、子や孫が戦争を経験しないことだ。 (前編 了)


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