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Ⅰー8. 「内通者」からベンチェー省隊の最高幹部になった男

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(8)
★2007年8月20日~8月30日(ベンチェー省など)

8月20日にホーチミン市に到着し、相棒のダイ氏と合流。今回は彼の高校生の息子も同行。22日午前7時、ハイヤーでホテルを出発し、10時頃にベンチェー省ベンチェー市に到着。ベンチェー省は、南部の武装蜂起の先駆けである1960年1月の一斉蜂起で有名な所だ。メコン・デルタの東部海岸地方の河口部に位置する。同省人民委員会に伺うと、省党委から聞き取り調査の許可がまだでていないとのこと。そこで人民委員会の隣にあるベンチェー・ホテルに投宿。同日午後、省党委と省人民委員会に行き、ようやく許可の書類をいただけた。

翌23日午前にベンチェー省退役軍人会事務所に赴き、最初の人へのインタビューを始めた。すると退役軍人会主席から横槍がはいり、インタビューは中止になった。ベンチェー省の退役軍人が中心になってホーチミン市で土地問題をめぐる抗議デモをおこなった直後で混乱した状態にあり、またベンチェー省退役軍人会の大会が開催中で役員改選の真っ最中ということでストップがかかったらしい。やむなくインタビューを切り上げて、近くのベンチェー博物館を見学し、同日午後はベンチェー省出身の文豪グエン・ディン・チュウの墓地を訪れた。

8月24日、元ベンチェー省隊参謀長で前日までベンチェー省退役軍人会副主席の要職にあったファン・ディン元大佐(見出し画像、右の人物)がインタビューに応じてくれるというので、自宅に伺い、午前9時から昼食をはさんで午後4時前まで長時間にわたってインタビューした。その内容について以下に紹介する。

ファン・ディン氏(1933年生まれ)はベンチェー省モーカイ県ディントゥイ社出身。共産党員だった伯父の手引きで、1947年から革命に参加し、モーカイ県で連絡員をつとめた。18歳の時、「救国青年」組織に参加した。と同時に、サイゴン政権の保安兵に徴兵された。保安兵を装う一方、同志たちと密に連絡を取り合っていた。1958年末か1959年初、サイゴン政権の2度目の兵役にとられ、ディントゥイ社の民衛(民兵)となり、「内通者 nội tuyến(内戦)」として敵の勢力の中に潜入した。そのことは支部書記だったモットモンだけが知っていて、他の誰も知らなかった。支部書記と彼は直接連絡を取り合っていた(「単線活動」)。

1960年1月の一斉蜂起では、モーカイ県ディントゥイ社が起点に選ばれた。その時、ファン・ディンは同社の保安兵であったが「内通者」として手筈を整え、敵のリーダーを殺害する任務が与えられ、仲間と共に見事に任務を果たした。一斉蜂起後、彼はベンチェー省で編成された3つの小隊のうちモーカイ第3小隊に入った。これがベンチェー省隊の始まりである。

※ ここでベトナム人民軍隊の編成について、ちょっと長くなるが触れておきたい。同軍隊は、主力部隊、地方部隊、自衛・民兵の3種類に分けられる。地方部隊は省クラスと県クラスにおいて組織され、省クラスは省隊、県クラスは県隊と呼ばれる。
1968年に発行されているアメリカの南ベトナム援助軍司令部編『ベトコン専門用語集』(U.S. Military Assistance Command VIET NAM, Viet Cong Terminology Glossary, San Francisco, 1968)では、ベトナム人民軍隊の編成を「中隊(trung đội)」はplatoon、「大隊(đại đội)」はcompany、「小団(tiểu đoàn)」はbattalion、「中団(trung đoàn)」はregiment、「旅団(lữ đoàn)」はbrigade、「師団(sư đoàn)」はdivisionだとしている。
本稿では、日本語としてこなれていないが、「小団」や「中団」などベトナム語の呼称をそのまま使用する。
相棒のダイ氏によれば、彼の所属していた歩兵部隊では、最小の単位が班(tổ)で3人、小隊は3班(9人)、中隊は4小隊(36人)、大隊は4中隊(144人)(略号はC)、小団は3~4大隊、中団は3小団と幾つかの直属大隊、つまりおよそ12大隊(1728人)(略号はĐ)。旅団は4~6小団と幾つかの直属大隊、師団は3~4中団と幾つかの直属部隊(略号はF)、軍団は3~4師団と幾つかの旅団・中団である。
ほぼ一般的には次のように相当すると考えられる(括弧内がベトナムの単位)。「小隊」が分隊、「中隊」が小隊、「大隊」が中隊、「小団」が大隊、「中団」が連隊。本稿では紛らわしいので、ベトナムでの呼称をそのまま使用する。
米軍の場合、小隊は最大36人、中隊は3~4小隊(数十~200人)、大隊は4~6中隊(最大約1000人)、旅団は2~3大隊(3000~5000人)、師団は3~4旅団(1万~1万5千人)。部隊名称は同じでも、ベトナムの方が人数が少ない。

<ファン・ディン氏の話の続き>
1960年1月のベンチェー一斉蜂起の後、同年3月に敵は再占拠を目指し進攻してきた。蜂起軍は1個中隊とゲリラで応戦し、アメリカ製軽機関銃を初めて鹵獲した。またこの時、女性たちから成る「長い髪の部隊」が誕生し、女性たちが鍋釜・生活道具をもって都市にある敵の中枢部に押し寄せ、掃討をやめるように敵軍に働きかけた(「逆疎開 tản cư ngược」)。「長い髪の部隊」は一度に数千人を動員し、ベンチェー市では1万人以上になったこともあった。

1960年には大隊が成立した。ベンチェーでは、1960年12月に南ベトナム民族解放戦線旗に代わるまで、一斉蜂起の時に考案された「青星紅旗」の旗が使われていた。ベンチェー省の部隊は次第に拡大し、1965年にはベンチェー省隊は3個小団を擁し、ファン・ディンは1969年に省隊の副参謀長になった。それに先立ち、彼は1960年10月から軍区の中隊幹部学校で学び、ハノイの作戦要領を吸収したベンチェーで最初の7人のうちの一人となっていた。

1968年のテト攻勢では、ベンチェー市の一部を一時占拠したものの、大きな犠牲を被り、ほとんど壊滅状態で撤退した。敵の平定掃討作戦がおこなわれ、69~70年が一番過酷だった。1972年になり「一斉蜂起」中団が設立され、ファン・ディンが司令官となった。1975年の南部解放時には、ベンチェー省隊は主力の4個小団をもつまでになった。解放時、彼(当時は大尉)はベンチェー省長府の接収工作をおこなった。ベトナム戦争終結後の1975年5月3日にベンチェー省・軍事管理委員会が設立され、彼は省隊参謀長となった。

以上、ファン・ディン氏のライフ・ヒストリーを通じて、ベンチェー省隊という地方部隊の成長・拡大過程を見てきたが、以下に彼のベンチェー省におけるベトナム戦争についての見解をまとめてみたい。

①ベンチェー一斉蜂起は自然発生的な民衆蜂起か?
一斉蜂起時には、ゴ・ディン・ジェム政権の弾圧により党員数は100人台に激減しており、地元一般大衆の力に大きく依拠したという。ただ、今井の見解では、各級の党委の指導の下に蜂起は実行されたのであり(党中央ではなく、ベンチェー省党委が具体的な蜂起計画策定のイニシアティブをとった)、単純に「ベンチェー蜂起を南ベトナムの自然発生的な民衆蜂起だ」とすることはできない。ただ、ファン・ディンは、省党委常任会委員ハイトゥイの指導を強調し、省党委書記のナムチャウに言及しておらず、トップの書記が不在という異常な中で蜂起の決定をした可能性がある。

②南ベトナム民族解放戦線との関係。
南ベトナム民族解放戦線の成立以前は、省党委と省隊、および省党委による大衆運動があっただけ。省党委と省隊との関係は密。解放戦線が設立された時、省党委と省隊のメンバーが中核になっていた。当地での解放戦線の主席は省党委員が兼ねており、解放戦線は実際には省党委の指導の下にあった。省隊は軍の指揮系統上は第8軍区の指導下にあり、省党委の直接指導も受けていたが、解放戦線は我々を直接指揮することはできなかった。臨時革命政府もその存在は曖昧で、実質的にはベトナム労働党南部中央局であった。解放戦線には敬意を払い、会議にも参加してもらっていたが、計画の実行は省党委が指揮し、解放戦線の人事も省党委が決めていた。

③北部からの兵員補充。
一斉蜂起の頃、ベンチェーの部隊には北の人はいなかった。1973年に特殊部隊の2個小団が加わったが、これらの部隊には北出身の政治員がいた。また80~100人のタインホア、ハティン出身の兵士が第7小団に補充されていた。ベンチェーには北の正規兵は非常に少なく、南部全面解放時までにせいぜい100人足らずだった。
[今井の見解]:同じメコン・デルタにありながらもカンボジア国境に近いヴィンロン地方は、北の正規軍が1971・72年頃から本格的に入ってきていたのとは様相を異にする。ベンチェーでのベトナム戦争は人的在地性が一貫して強かったといえる。

④海上のホーチミン・ルート。
この地域にはベトナム戦争中、2000トン近くの武器が海上ルート(ハイフォンからベンチェー)によって運び込まれた。軍区はタインフー(Thạnh Phú)を船団が入港する地点として選んだ。ムオンロ(Mương Lộ)がもう1か所の入港地であった。運んだ武器は、K.44、AK、CKCなどで、AKは1967年に大量に入った。輸送したのは主に弾薬で、積み荷の3分の2を占めていた。

⑤戦争の記憶。
ベトナム人の中には、ベトナム戦争のことをもう触れたくない、あの頃のことを言ってもしょうがない、という気持ちもあるだろう。戦争はつらい悲しい思い出ではあるが、当時の青年たちは楽しんで革命に参加したという面もある。戦後処理の問題として、遺骨が見つかっていない革命戦士の問題と、工作者としてサイゴン政権側に潜入したのに(単線活動)、それを知っている繋ぎ役が亡くなり、革命側に属していることを証明する人がなくなってしまい、そのままサイゴン政権支持者だとされてしまっている人の問題が残っている。戦功の認定をめぐって、認定争いが地方ごと、個人ごとに起きており、それが激化している(今井注:解放勢力側の「記憶の抗争」)。とりわけ南部では抗米戦争、北部では抗仏戦争についてそうである。

8月25日、ファン・ディン氏の案内で、モーカイ県ヴィントゥイ社にある一斉蜂起記念館を見学した。見学後、同社の指導部と昼食。昼食後、ヴィンロン市に移動し、同市のホテルに投宿。
8月26日、カントー市に移動。翌27日、メコン・デルタ人民武装勢力博物館を見学。
8月28日、カントー市からバスでホーチミン市に移動。30日朝まで同市に滞在。

◆今回の聞き取り調査については以下の拙稿にまとめてありますので、ご覧いただければ幸いです。
「ベトナム南部ベンチェー省でのベトナム戦争 元ベンチェー省隊・参謀長ファン・ディン氏へのインタビュー」『東京外大 東南アジア学』第15巻、2010年。69~81ページ。






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