Ⅰー1.お墓に挿した竹箸の上に卵は載るか?
ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(1)
★2005年3月3日~7日:クアンチ省
3月4日、社会学研究所のダイさんと彼の親戚のハインさん一家と一緒にハインさんのワゴン車に乗ってハノイのホテルを出発しクアンチ省に向かった。ハインさん(1970年生まれ)とは、2003年11月にタイビン省に行った時に会っており旧知の間柄だ。彼は何年か東欧に出稼ぎに行き、お金を貯めて帰国し、今はタイビン省タイビン市で家具販売やエビの養殖をしている。ハインさん一家はハイン夫婦と5歳ぐらいの男の子、母親のハーさん(1942年生まれ。見出し画像の中央の人物)の4人家族だ。今回のクアンチ行きはベトナム戦争で亡くなったハーさんの夫のお墓参りが目的で、私とダイさんはそれに便乗させていただいた。
朝7時半にハノイのホテルを出発し、途中ゲアン省のドライブインで昼食をとり、夕方7時過ぎにクアンチ省ドンハー市に着いた。ドンハー市内のホテルに投宿。お墓参りは翌5日の予定である。ベトナム戦争中、クアンチ省は旧南ベトナムの最北端に位置し、暫定軍事境界線が引かれ、1972年3月の春季大攻勢(イースター攻勢)の激戦があったところである。
ハインさんの父親も春季大攻勢で当地にて戦死された。死亡通知が届いたのは1974年で、戦後、ハインさん一家は父親の埋葬場所を必死に探し求め、部隊関係者や地元の人に何度も問い合わせした。そしてようやく最近になって、クアンチ省カムザン社の烈士(戦没者)墓地に埋葬されたことが判明した。しかし当該墓地には、クアンチ省出身で名前のある墓が145基、北部出身の戦死者で名前のない墓が369基あった。後者の約400の墓のうち、どれがハインさんの父親の墓かまでは分からなかった。
そこでハインさん一家はあらかじめ全国的に有名なホーチミン市在住の「霊能者(ngoại cảm)」に電話上で占ってもらって墓を特定し、今回の墓参とあいなったわけである。しかしその墓が本当に父親の墓であるのかどうか、確証はない。俗信では、3日間、家の祭壇にお供えした卵を持っていき、お墓に挿した割り箸のような竹箸の上に卵が載ると間違いなくそのお墓だとされる。ふつう箸の先端に卵がのっかるわけがない。実際、息子のハインさんが卵を竹箸の先端に載せようとしたが失敗。次に未亡人のハーさんが試みると、なんと卵が竹箸の先端に載ったのだ。それで一同、確かにその墓が父親の墓だと得心し、あらためて念入りにお参りすることにした。
墓地のその他のお墓にも全員で手分けして線香をあげた。
卵が載った写真は残念ながら現在手元にはないが、拙稿「ベトナム戦争のコメモレーションに関する研究について ーマラーニー論文へのコメントにかえて」『クァドランテ』第10号2008年(repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/52330/1/ifa010003.pdf)の最後のページにその様子を撮った写真(心霊写真?)があるのでご覧ください。
(ちなみにこの頃はデジタル・カメラではなく、まだ円筒に巻かれたフィルムのカメラを私は使っていた)。2000年代まではこういった「霊能者」によるお墓探しがよくおこなわれていたように思うが、2010年代に入ると少なくなった気がする。
カムザンの烈士墓地の後、私たちはベトナムの最も代表的な烈士墓地であるチュオンソン墓地に向かった。ここには1万2千余りのお墓があるが、ハインさんの父親の弟の墓がある。叔父のお墓には名前・生年・入隊日・軍隊の階級・出身地・戦死日が記載されていた。
2か所のお墓参りを終え、同日午後はクアンチ古城と同博物館を参観した。1972年春季大攻勢の81日間にわたる激戦地だったところだ。北ベトナム側は6個師団を投入したとされるが、第325師団・第95中団はすべてハノイからの学徒出陣兵で、彼らは経験が浅いため犠牲者も多かったという。(この点については、後年のハノイでの元学徒出陣兵たちへの聞き取り調査でも明らかになった)
翌6日は、国道9号線を辿って免税特区があるラオス国境の町ラオ・バオまで足を延ばした。途中、かつてのターコン飛行場だったところに開設された9号線・ケサン戦勝博物館を訪れた。見出し画像はそこでの野外陳列物の一つ、米軍ヘリである。
6日午後、ハインさんの母親ハーさんに聞き取りをおこなった。概要は以下の通り。
「1942年生まれ。4人兄弟の長子。父はフランス人に拷問され9歳の時に死亡。2人の弟はベトナム戦争に出征し、一人は頭部を負傷し、神経に異常をきたした。18歳で結婚。その時、夫は3年間の兵役義務を終えたばかり。1965年に娘を出産。1966年、夫は出征。1969年、夫は負傷し、治療のため休暇をえる。1970年、ハインが生まれる。同年6月、夫は再び出征。出征兵士の家族への国家優遇措置と夫からのいくばくかのお金で生活と子育て。その後、夫からの音信は途絶え、1974年に死亡通知が届いた。同年、夫の2人の弟の死亡通知も届いた。義母は心労でほどなくして亡くなった。2人の子どもは烈士の子ということで国から優遇され、毎月の生活費を支給された。娘はその後、結婚して2人の子どもを産んだが、1991年に病死。今は息子と同居。毎月、国から20万ドン支給されている。」
3月7日午前5時半、ドンハー市のホテルを出発しハノイへの帰路についた。途中、ハティン省ドンロックの「青年突撃隊烈士英雄10人の女性の墓地」をお参りした。交通の要衝で爆撃が激しかったドンロックで、危険な不発弾処理に従事していた青年突撃隊の二十歳前後の娘たち10人の墓地である。同日午後7時すぎ、ハノイ市内のホテルに到着。