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Ⅰー5. 北部兵士と南部女性の恋

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(5)
★2006年11月18日~11月25日:ヴィンロン省、チャーヴィン省

今回はベトナム南部メコン・デルタのヴィンロン省とチャーヴィン省における解放勢力側の戦士8人(元ゲリラ戦士5人、元第9軍区・士官2人、北部出身の元北ベトナム軍正規兵1人)の聞き取り調査の結果をお伝えする。

(1)元ゲリラゲリラ戦士への聞き取り
 11月19日、ホーチミン市にて相棒のダイ氏と合流。翌20日、乗り合いバスにてホーチミン市からヴィンロン省ヴィンロン市へ。所要時間は約2時間半。さらにヴィンロン市から50キロほど離れたタムビン県に移動し、同県党委のゲスト・ハウスに投宿。

11月21日朝、ダイ氏の知り合いのチエン氏(同県人民裁判所裁判官)を裁判所に訪ねた後、同県ミーロック社に向かう。同日と翌22日にかけてミーロック社で2人、隣のハウロック社で2人の合計4人(いずれも男性で元ゲリラ)にそれぞれの自宅でインタビューした。メコン・デルタの農村では一軒一軒が離れているので紅河デルタの農村のように数をこなせない。

21日の午後には、「カイガン(Cái Ngang)革命歴史遺跡」を見学した。ここは1966~1975年までヴィンロン省党委のヘッド・クオーターがあった軍事基地で、かつての姿がほぼそのまま残されている。この基地のトップはもちろん省党委の書記である。

22日夜、二日間にわたって同行(監視?)してくれた退役軍人会のビー氏の自宅に伺い、メコン・デルタ名物の野ネズミの肉をご馳走になった。ビー氏の自宅は大通りからはちょっと引っ込んだ所にあったが、家に電気がつくようになったのは2000年だという。彼によれば、退役軍人は①若くない(già)、②貧しい(nghèo)、③学がない(dốt)、の特性をもっているという(さらに④だんだん亡くなっていく(chết dần)を付け加える場合も)。

23日朝7時半、私とダイ氏は2台のオートバイ・タクシーに分乗して(他に適当な交通手段がなかったので)、チャーヴィン省カウケー県アンフータン社に向かった。所要時間は3時間近く。お尻が痛くなった。ここで、北ベトナム正規軍の部隊が分宿していた家を訪ね、ゲリラだった家の人1名(男性)にインタビューした。この家は大きな川沿いにあった。

以上、ヴィンロン省とチャーヴィン省で合計5人の元ゲリラにインタビューした。ベトナムの解放勢力の軍隊は、大きくは、主力部隊、地方部隊、自衛民軍の3種類に分けられる。自衛民軍は「自衛」とゲリラを統一した、大衆武装勢力で、地方の党委と政権によって直接指揮される。人民軍隊だけでベトナム戦争を描くことはできない。ゲリラの果たした役割も大きく、とりわけ南部はそうであった。

5人の元ゲリラへのインタビューから、次の点が読み取れる。①概してゲリラは学歴が低い。5人は学歴が5年生以下で、そのうち2人は未就学で字もよく書けない。相棒のダイ氏によれば、南部解放軍には文字を書けなかった人も沢山いた。ダイ氏は部隊の上官に字を教えた経験がある。字を書けなくて書類に署名ができないので〇を書いて済ますケースもあり、「名前丸(tên tròn)」と呼ばれたという。
②ゲリラになった動機は家族・親族つながりが強い。

③ミーロック社とハウロック社は解放勢力が強かったものの「競合地区」であり、双方が戦いながら相互依存していた。サイゴン政権側の給料を受け取っていた邑長(集落長)も「ベトコン」を助けていたという。邑長は妻を通して解放勢力側に税を納めていた。

④ゲリラは無給。戦争中、ゲリラには給料はなかった。正規軍兵士には給料があった。ダイ氏によれば、自分自身の新兵時代、月に5ドンの支給があり「5ドン兵士(lính 5 đồng)」と呼ばれたという(当時でフォー10杯分)。青年突撃隊のヒラ隊員も月に5ドン(女性は5.5ドン、石鹸代が追加)であった。戦後、ゲリラだった人は恩給を殆ど受給していない。

⑤1960年代初頭からゲリラ活動が活発化。
⑥北の正規軍は後ろ盾として歓迎。チャーヴィン省のティエンは、「北部の部隊は当地に1963年頃から入っていたが幹部だけで、大量に歩兵部隊が来たのは1972年から」と述べている。また「当地はそれまで正規軍は多くなく、ゲリラの割合が多かった。ゲリラ勢力が手薄だったので、北部の正規軍が来てくれて、これで解放されると思った」と語っている。

(2)第9軍区の元士官への聞き取り
 11月24日に第330師団師団長だったフイン・チョン・ファム大佐(1942年生まれ)、25日に第9軍区参謀部副政治主任だったファン・タイン・ホア大佐(1951年生まれ)にインタビューした。主な注目点を以下に挙げる。
①革命的血筋がいい。南北の交流は南北分断後の1954年以降も継続した。ホアの父親は第9軍区副参謀長まで務めた軍人であった。ジュネーブ協定後、ファムの兄弟、ホアの父親は北部に「集結」した(ホアの父親は63年に南部に戻る)。
ホアは、1966年にカマウやラックザーで革命幹部の子弟を対象とした学校(「少生軍」)で学び、1973年に勉学のため北部に行った。ハノイで7年生、中越国境のランソンで8年生の課程を修了した。ホアによれば、彼の通っていたランソンにある国防省の文化学校(補習学校)には南部からの学生が多数在学していた。

②南ベトナム民族解放戦線と臨時革命政府の役割。ファムは大要、以下のように語った。「南ベトナム民族解放戦線(1960年12月成立)と臨時革命政府(1969年6月成立)が直接戦闘に関わるのは多くなかった。しかし中央から社まで解放戦線の組織はあった。各級の解放戦線は兵士募集日などに解放戦線の旗をもち、解放戦線の指導部を紹介し、自らの存在を強調した。党の指導が表に出るのを避けるために、その時は解放戦線と臨時革命政府が南部の革命を指導しているといっていたが、実際は党の指導が主であった。」

③北の正規軍が当地にやってきた時期。以下もファムの指摘である。「南部革命の初期は現地の勢力によって担われ、その後、北の勢力が後ろ盾として増強されていった。南部の人々は北の部隊に期待するだけでなく、すすんで北の部隊を迎えた。1969・70年から北の部隊を受け入れ始めた。特殊部隊から始まり、1971・72年には主力部隊の歩兵を受け入れるようになった。」

(3)ヴィンロン、チャーヴィンに駐屯経験のある北部兵士への聞き取り
 11月24日、ヴィンロン市内のホテルにて、ヴィンロン、チャーヴィンに北の正規兵として駐屯経験のあるD氏(1953年生まれ、ハノイ出身、現在もハノイ在住)にインタビューした。以下はその概要。
「1971年に高校を卒業してすぐに入隊。ホアビン省で6か月訓練を受けた後、1972年3月に出征。ハノイからゲアン省のヴィンまで汽車。そこからは自動車と徒歩。クアンチからチュオンソン山脈に入る。72年の7月か8月にロクニン(現在のタイニン省)到着。そこからカンボジアに入り、2か月ほど滞在。ベトナム国境付近で止まり、3週間、水泳の訓練。その後、ヴィンテー河を渡河し、ベトナム入り。ウーミンの森を行軍。第1中団に合流した時には、サイゴン軍の砲撃により、人数は3分の1から2分の1になっていた。1972年末か73年初、カントー省(当時)フンヒエップ県に駐屯し、ここから本格的な戦闘に参加した。1年ほど、ここに駐屯し、その後、チャーヴィン省に。(1)に登場したティエンの家に部隊は分宿し、お世話になった。1974年末か75年初、ヴィンロン省に入る。戦闘で負傷する。冒頭で登場したチエン裁判官(当時はまだ子ども)の家にお世話になる。ヴィンロンで南部解放を迎える。戦争終結後もクメール・ルージュなどとの戦闘や農業生産に従事。北部に戻れたのは1977年になってからであった。」

D氏はヴィンロンに駐屯している時、チエン氏の姉と恋仲になった。戦争中ということもあり二人の恋は実らず、D氏は1977年に北部に戻った。姉は医師で、ヴィンロン市郊外に医院を開いている。ずっと独身を貫いてきた。11月21日夕方、私はD氏と一緒にその医院を訪ねた。D氏と女性医師は30年余ぶりの再会であった。二人きりにしてあげたいところであったが、久しぶりの再会ということで関係者が集まって大宴会となった。9時前にようやくお開きとなった。D氏とは、もちろん我が相棒、ダイ氏のことである。

11月25日、ヴィンロン市からバスでホーチミン市に戻る。同日深夜、帰国。

◆今回のインタビューについては、拙稿「南部メコン・デルタにおけるベトナム戦争 -ヴィンロン地方における解放勢力側の戦士8人への聞き取り調査ー」『東京外国語大学論集』第74号(2007年)
repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/27054/1/acs074007.pdf
にまとめていますので、ご覧いただければ幸いです。





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