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Ⅰー6. 大人になった「少年勇士」の憂鬱

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(6)
★2006年12月21日~30日:ハノイ市、クアンナム省

今回は、ベトナム中部クアンナム省での男性退役軍人8人の聞き取り調査について報告する。筆者の調べによれば、クアンナム省は1954~1975年の時期(ベトナム戦争期)の「英雄」称号者を全国で最も多く輩出しており、また「英雄的ベトナムの母」の称号を贈られている人も全国最多である。つまり最も激しく闘争がおこなわれた所といっていいだろう。
今回、クアンナム省では2か所で聞き取り調査した。1か所は省都のタムキー市で2人、もう1か所はティエンフオック県で6人である。

(1)タムキー市での聞き取り調査
12月24日にハノイ市からダナン市に移動し、翌25日、さらにタムキー市に移動してロイ(1920年生まれ)とアイン(1928年生まれ)の2人の元大佐にインタビューした。宿はクアンナム省党委ゲスト・ハウスに投宿。ロイとアインの二人共、地元出身で八月革命期からの活動歴があり、54年のジュネーブ協定後、所属部隊ごと北部に「集結」している。ロイは66年に、アインは58年に南に戻っている。当初、北から南に浸透した部隊の全ては「集結」した南出身者から成る部隊であった。ロイは69年に再び北部に行き軍歴をつみ、アインはクアンナムにとどまって戦っていたが、75年までに5回ほどハノイに出張した。このようにベトナム戦争期は北緯17度線でヒトの動きが完全に遮断されていたわけではない。

上の画像はロイの自宅で撮ったものである。ロイは枯葉剤の影響で次第に目が見えなくなってきていた。画像のロイの前に置いてあるのは、ロイが軍隊生活で使用した飯盒である。ベトナム語では hăng gô という。私の仮説では、これは日本語由来で、残留日本兵がベトミン軍に伝えたのではないかと思われる。

(2)ティエンフオック県での聞き取り調査
12月26日、タムキー市から車で小一時間かけて山間部にあるティエンフオック県の祖国戦線事務所に移動した。同県で26日・27日の両日にわたって6人にインタビューした。1人は祖国戦線事務所で、あとの5人は相棒ダイ氏の運転するオートバイ(借用したもの)で自宅に伺いインタビューした。

抗仏戦争期に軍人だったトン(1928年生まれ)とチン(1933年生まれ)は、タムキー市のロイ、アインと同様、ジュネーブ協定後、部隊ごと北部に「集結」し、北部の土地改革に部隊で参加した。トンは健康を害して、軍人からタイグエンの鉄鋼工業区の労働者に転じた。83年になって帰郷した。チンもタイグエンの鉄鋼工業区で建設労働に従事したが、60年末か61年初、南に潜入する部隊に加わった。チュオンソン山脈を数か月行軍し、61年なかばにクアンナムに到着したという。

ティエウ(1929年生まれ)、トゥオン(1942年生まれ)、チョン(1927年生まれ)は北部に「集結」せず、ずっと地元の社隊のゲリラとして活動した。ゲリラには給料はなく、食事は自前。チョンのゲリラ隊の半分は女性であった。女性は未婚の18歳か20歳ぐらいから4・5年間、参加した。10歳の子どもゲリラもいた。

ティエウによれば、南ベトナム民族解放戦線と南ベトナム臨時革命共和国の機構は社レベルまであり、社には主席がいて「革命人民委員会主席」と呼ばれていたが、この委員会の人員は多くはなかった。またこの委員会の中核は武装勢力が担い、主席も兼任されていたという(チンも同様の指摘)。実際、ティエウは72年にティエンフオック県の「革命人民委員会主席」を兼任で務めている。チョンの住むティエンロック社は65年7月に解放され、革命政権である「自管委員会」が成立したが、スタッフは主席、副主席、事務員一人のみで、すべてはゲリラによって担われていたという。チョン自身、社の「自管委員会」主席とゲリラの社隊長を兼任していた。以上に見られるように、解放戦線や臨時革命政府の機構は存在していたものの、その独自色は希薄で、実態は当地の武装勢力や共産党支部によって兼任され、担われていたと思われる。

元「少年勇士」ビエン
ビエン(1952年生まれ)は、13歳で部隊(県隊)に入り、15歳で戦闘に加わり、複数の米兵を待ち伏せて殺害し、ティエンフオック県最初の「アメリカを殲滅した勇士」と「少年勇士」の称号を受けた。グエン・チー・ファンの小説『ツバメ飛ぶ』(加藤栄訳、てらいんく、2002年)は子ども革命戦士の話であるが、まさにそれを彷彿させる。ビエンはご褒美として、北部で勉学する機会が与えられ、68年8月、チュオンソン山脈の道を3か月歩いてクアンビンに着き、そこから車でハノイに向かった。ハノイではホー・チ・ミンと面会する栄誉もえている。

ビエンは南部生徒用の高校、軍事大学と進学したが、大学を途中でやめて、75年5月に帰郷した。帰郷後は優遇されてさまざまなポストに就くがどれも長続きせず、90年には財政管理の過ちで共産党を除名される憂き目にあっている。2006年に党籍をなんとか回復した。
ビエンには「少年勇士」の称号が重くのしかかり、その後の人生を生きにくくしてしまったように思えた。

電子版新聞「ベトナム・プラス」の記事によれば、1954~1975年の21年間、南部の幹部・戦士・同胞の子弟3万2000人以上が北部に送られて、教育を受けた。合計で28の南部生徒学校がこの時期に設立され、そのなかには少数民族の子弟のための学校一つと中国系ベトナム人の子弟のための学校が一つあった。
(https://www.vietnamplus.vn/Utilities/Print.aspx?contentid=611933)

27日にビエンの自宅でインタビューしたのだが、彼は一人だと自信がなく不安ということで、自宅近くの中学校の校長先生と副校長先生を同席させた。昼食をビエン宅で一緒に食べた後、この二人の先生とダイ氏と私は2台のオートバイに分乗して、クアンナム省が生んだ偉人、20世紀初頭の代表的な民族運動家ファン・チャウ・チンの生家を訪ねた。オートバイで1時間15分ほどかかり到着したが、こんな辺鄙な田舎から第一級の知識人が出てきたことに感慨をおぼえた。なお、当日は水曜日であり、二人の先生方は中学校のお仕事は大丈夫だったのだろうか?

ファン・チャウ・チン生家からの帰りに副校長の家に寄り、夕食をご馳走になった。夕食後、副校長の奥さんも含めてみんなで近くのカラオケ屋に繰り出した。面子はほぼベトナム戦中世代であり、歌う曲といえば「チュオンソンの歌」(つまり軍歌)である。私が何を歌ったのかは、とんと覚えていない。

ティエンフオック県での宿は同県祖国戦線事務所のゲスト・ハウスであった。ゲスト・ハウスとはいっても、物置部屋みたいな手狭な部屋の一室にダイ氏と相部屋で、さらに借りたオートバイも部屋に押し込んだ。寝床は古竹を敷いたベッドで体の重みに耐えられるのか不安になった。テレビも何もないので早く寝るしかない。翌早朝、隣の家の鶏の甲高い鳴き声でたたき起こされた。

12月28日にダナン市に戻り、同市のホテルに投宿。翌日、ホーチミン市に移動し、30日に帰国。

クアンナムでの聞き取り調査を次の拙稿にまとめてあるので、ご覧いただければ幸いです。拙稿「ベトナム中部クアンナム・ダナン在住退役軍人の戦争の記憶」『東京外国語大学論集』第75号(repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/37558/1/acs075016.pdf)





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