見出し画像

Ⅰー4.青年突撃隊の元女性隊員の悲哀 

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(4)
★2006年8月28日~9月9日:ハノイ市、旧ハタイ省、タインホア省

 青年突撃隊とは何かご存知でしょうか? 正規の軍隊ではないけれども、武器・食糧の輸送や道路・橋梁の建設、不発弾処理などに従事する準軍事組織のことです。北ベトナムでは抗仏戦争期の1950年に創設され、ベトナム戦争期も存在していました。1950~1957年は貧雇農出身の青年男子を隊員としていました。空白期(1957~1965年)を経て、ベトナム戦争期の1965年に復活し、入隊には階級的出自があまり問われなくなりました。また、女性も隊員に動員されるようになり、ベトナム戦争期の青年突撃隊はむしろ女性が隊員の多数を占めるようになりました。ベトナム戦争終結後もボランティア組織として存続しています。今回は、ハノイ市、旧ハタイ省(現ハノイ市)、タインホア省の元青年突撃隊隊員だった28人にインタビューした結果をご報告いたします。

①ハノイ市ザーラム県イエントゥオン社イエンケー村(8月30日・31日)
 ここはハノイ市街の東側の郊外にあり、見出し画像はこの村の入口の門です。投宿先のホテルからタクシーで1時間足らずの距離で、二日間通いました。ブイ・ティエン・ホアさんのお宅をベース・キャンプにして、昼ご飯も同宅でご馳走になりました。この村では二日間にわたって6人(男性3人、女性3人)に自宅に伺ってインタビューしました。
 ホアさんの奥さんの話では、ベトナム戦争当時はみんな喜んで軍隊や青年突撃隊に参加したものだという。しかし、戦後、イエンケー村の元女性隊員は後妻に入っている人が多いとのこと。インタビューした元女性隊員の一人ルイさんによると、復員した元女性隊員が普通の結婚をしにくかったのは、青年突撃隊での勤め(通常は1期3年だが、今回インタビューした男性9人の平均が4年、女性19人が約3.5年であった)を終えて帰ってきた時には、当時の平均的結婚年齢と比べて高くなっていること、2つにマラリアなどの病気に罹っているケースが多かったこと、3つに青年突撃隊の女性隊員は「風紀が乱れているのではないか」という風評・偏見があったことによるという。

 ベトナム戦争期の北ベトナムの代表的な女性運動に「3つの担当(生産、家事、戦闘)」運動がありましたが、戦後の青年突撃隊の元女性隊員に対しては、「3つの担当」をもじって「3つの喪失(家をもてない、夫をもてない、子どもをもてない)」と巷で皮肉をいわれるようになりました。

②旧ハタイ省ハドン市キエンフオン社マウルオン村(9月2日)
 マウルオン村はハノイ中心部からオートバイイで30分ほど南西に行った所にあります。相棒のダイ氏の戦友が同村に在住しており、その人に元隊員3人(男性1人、女性2人)を紹介していただき、インタビューしました。
 このうちの一人の男性ホンさんは、肌の色がベトナム人にしては黒かったので、いぶかしく思ってダイ氏に尋ねると、ホンさんは抗仏戦争中にフランスの黒人兵とベトナム人の母親との間にできた子どもでした。彼が正規の軍隊ではなく、青年突撃隊に入ったのは、混血児であったからだという。混血児が正規の軍隊に入れなかった点は、本シリーズ第2回で紹介した呉連義氏の息子のケースと同様です。

③タインホア省クアンスオン県クアンティン社(9月5日)
 早朝4時にハノイ市のホテルをハイヤーで出発し、7時頃タインホア省タインホア市に着きました。省の人民委員会に挨拶した後、クアンティン社の人民委員会へ。タインホア省は青年突撃隊のいわば牙城で、全国で最も多くの隊員がいます。クアンティン社では6人の元隊員(男性3人、女性3人)にグループ・インタビューしました。グループ・インタビューは一人一人にはじっくり話を聞けないが、インタビューされている人たちの相互のクロス・チェックがあるので、いいかげんな話ができないという利点があります。男性3人のうち2人は徴兵検査不合格者でした。
この日はタインホア省のゲスト・ハウスに宿泊しました。

④タインホア省クアンスオン県クアンタン社(9月6日)
 クアンタン社はクアンティン社にほぼ隣接しています。ここでは3人の元隊員(男性2人、女性1人)にインタビューしました。実は4人目もいたのですが、きちんと聞き取り調査できませんでした。4人目のセムさん(女性、当時62歳)の自宅に伺ったのですが、その自宅はマッチ箱のような小さな一部屋しかない家で、家財道具は鍋・茶碗のほかには殆どないような極貧の生活をされていました。セムさんは独り暮らしで親が残してくれた300㎡ほどの農地でほそぼそと生計をたてています。兄弟6人のうち3人が戦死し、生き残った2人の弟も貧しく、援助する余裕はありません。私の相棒のダイ氏(彼も出征兵士だった)は、このセムさんの有様を見て、胸が詰まって涙目となり、彼女にインタビューできませんでした。セムさんにとって戦勝で得たものは何だったのでしょうか?

⑤タインホア省ティエウホア県クアンタング社(9月6日)
 同じ日、クアンスオン県からティエウホア県に移動しました。ここでは元隊員の女性たちが集団経営している乳牛農場を見学しました。ベトナム戦争終結後に多くの元隊員の女性が未婚・未就業などの窮状に陥っているのをみて、彼女らの生計の場所として当農場リーダーのフィエンさんが2000年に設立したものです。この農場(3ヘクタール)で働く52歳から61歳までの10人(全員女性)にインタビューしました。彼女らは女性だけで自立して共同生活をしています。土地をクアンタング社から借り受け、当初の経営難をなんとか乗り越え、現在、メンバーに月に30万ドンの給与を支払えるまでになんとかこぎつけたという。
 リーダーのフィエンさんに、困っている元女性隊員をなんとかしてあげたいという男気(そうではなく女気か?)を感じました。しかし、数年前、この農場は解散したという話を聞きました。親族が何も援助してあげていないみたいで「世間体が悪い」ということで、メンバーの親族がメンバーを退所させていったとのことでした。これもベトナム社会の一端です。そのほか、農場の経営上の行き詰まりなどもあったのかもしれませんが。

 戦後の元隊員の窮状、戦争に献身的に貢献したにもかかわらず報われない人たちが多数いることについては、元隊員であった女性作家ズオン・トゥー・フオンがエッセー「鴉の群れの羽ばたきの音」(拙訳、『東南アジア文学』第10号、1999年)で指摘しています。元隊員たちの未婚、シングルマザー等の社会問題は1990年代、2000年代まではよく取り上げられていましたが(たとえば、Le Thi, Single Women in Viet Nam, The Gioi Publishers, Ha Noi, 2006) 、2010年代以降、あまりきかれなくなりました。現在60台から70台の老境に入っている彼女らはどうしているのでしょうか。

◆青年突撃隊に入隊した経緯
 青年突撃隊への入隊は原則として「志願」によるものであるが、正規の兵隊として軍隊に入隊できなかった人、あるいはそれから除外されていた人たちの戦争貢献の場としてあった。具体的には、(1)青年男子で体が弱く、徴兵検査で不合格になった場合、(2)男の子がいず、家から最低一人は戦争貢献者を出すために女性が参加した場合、(3)混血児や階級成分など「履歴」上の問題があり、正規の兵士になれなかった場合、などの受け皿に青年突撃隊はなっていたのである。各家庭、各個人に対し戦争への貢献を求める社会的同調圧力が相当強くかかっていたことと、正規の兵士への同質性を求めていたことを示している。

◆総動員体制の階層性
青年突撃隊に対し「逃げた部隊」という俗言があり、これは男性隊員に対し、正規の軍隊に入隊せず「逃亡」した卑怯者とする皮肉・蔑みを込めた物言いである。戦後においても、「退役軍人」、「退役軍人会」に対して「元青年突撃隊員」、「元青年突撃隊員会」への国の待遇は異なり、後者の方が低く扱われている。

以上の聞き取り調査については、拙稿「戦場に捧げた青春 ー旧北ベトナムにおける『青年突撃隊』隊員たちのベトナム戦争ー」『クァドランテ』第9号(2007年)repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/37833/1/ifa009035.pdf
により詳しくまとめてありますので、ご参照いただければ幸いです。

9月7日にホーチミン市に移動。9月8日にビエンホアの旧南ベトナムの国立戦没者墓地を訪れる。今は人民軍隊が管理していて、おおっぴらには入れないようであるが(埋葬者の親族の墓参は認められているとのこと)、墓地前の休憩所の人に案内してもらい、少しだけ中に入った。
9月9日、帰国。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?