Ⅰー20. カオダイ教に対する記憶:タイニン省(前編)
ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(20)
★2011年8月18日~9月8日(ハノイ市、ハイズオン省、ホーチミン市、タイニン省)
見出し画像:タイニン省タンビエン烈士墓地(タイニン省タンビエン(Tân Biên)県タインタイ(Thạnh Tây)社)
はじめに
今回は、南ベトナムの東南部にあるタイニン省での聞き取り調査について報告させていただく。
1911年夏の訪越は、前半がハノイ市等での調査、後半はタイニン省での聞き取り調査と盛りだくさんであった。まず、前半の調査について日程のみご紹介する。
8月18日:ハノイ着
8月21日:ハノイ市フースエン県の「捕虜となった革命戦士博物館」を見学
8月23日:ホーチミン政治学院の宗教課程の教員・学院生と共に、ハイズオ
ン省チーリン市にある「平和殿」(新宗教「ホーおじさん教」の
一つ)を見学。
8月24日:前日に引き続き「平和殿」を見学し、帰途、トゥーフォン(Từ
Phong)教会、ハムロン(Hàm Long)寺を見学。
8月25日:ホーチミン政治学院のルー教授と一緒に、ハノイ市郊外の「平和
殿」の信者宅にうかがい、インタビュー。
8月26日:ルー教授と一緒に、医療省のキエン氏(平和殿の信者であり研究
者)を訪問。
8月27日:夕刻、小説『神々の時代』の作者ホアン・ミン・トゥオン氏の自
宅マンションを訪問し、夕食をご馳走になる(娘さんも一緒)。
8月28日:トゥオン氏と共にハドンにある氏の実家に伺う。トゥオン氏の親
族の法事に参加。
8月29日:ハノイからホーチミン市に移動。
さて、タイニン省であるが、観光スポットともなっているカオダイ教本山があるところとして有名である。今回の調査においてのポイントは3つある。①カオダイ教の本拠地ともいえる地方におけるベトナム戦争への影響はどのようなものであったか。②前回のビンフオック省(南部解放軍の司令部があった)と隣接するタイニン省は、ホーチミン・ルートのいわば出口であり、ベトナム労働党の南部中央局、南ベトナム民族解放戦線、南ベトナム共和国臨時革命政府の本部・基地がおかれていて、南部革命の中枢であった。③カンボジアと国境を接しており、主要な出入口の一つであった。
それではタイニン省での日程をご紹介する。
8月30日:7時前、ホーチミン市内のホテルをタクシーにて出発。9時半
頃、タイニン省タイニン市に到着。午後、同省退役軍人会事務所
に伺い、打合せ。
8月31日:午前と午後、同省退役軍人会事務所にて5人にインタビュー。
9月1日:前日同様、5人にインタビュー。
9月2日:午前、カオダイ教本山の本殿とタイニン省博物館を見学。
午後、同省人民委員会の職員2名と犬肉屋にて昼食。
9月3日:午前と午後、同省退役軍人会事務所にて5人にインタビュー。
9月4日:午前、タクシーにてトゥアハイ(Tua Hai)戦場跡、2つの烈士墓
地、南部中央局跡、南ベトナム民族解放戦線本部跡(隣接してい
る。カンボジア国境までごく僅か)を見学。
9月5日:午前と午後、同省退役軍人会事務所にて5人にインタビュー。
9月6日:午前、枯葉剤被害者のいるインタビュイーの自宅2軒を訪問。
同省退役軍人会と昼食会。
9月7日:タイニン市からタクシーでホーチミン市に戻る(3時間弱)。
9月8日:ホーチミン市より帰国。
今回のインタビュイーは20人。前回のビンフオック省では移住者が多かったが、今回は地元タイニン省出身者が10人。他の南出身者が5人、北の出身者が5人とビンフオック省と比べると地元性が強い。北の出身者は1人を除いて「戦争移住者」、つまり戦争中に赴任地・戦場として当地に来た縁で移住した人たちである。例外の1人は、タイニン省と友好関係を結んでいた(結義していた)ハバック省(現バクニン省)出身者で、その関係により党幹部として赴任・移住した人である。インタビュイーは男性が18人ですべて退役軍人。女性は2人で、元青年突撃隊員と革命協力者である。タイニン省出身者のうち、2人は1954年のジュネーブ協定後に北に「集結」したことがある。最高齢者は1929年生まれ、最年少者は1957年生まれである。
(1)カオダイ教に対する解放軍兵士の記憶
タイニン省はカオダイ教本山がある所として有名である。2023年8月14日付け『労働と社会(Lao động & xã hội)』紙(電子版)(http://laodongxahoi.net/tin-do-hoi-thanh-cao-dai-tay-ninh-cung-tham-gia-phong-chong-dich-1321510.html)によれば、同省の人口の110万人余りのうち、カオダイ教徒は56万人いるという。同省の約半分はカダイ教徒ということになる。ホン(女、1947年生まれ、ロンアン省出身、元青年突撃隊)の地元のタイニン市タンビン(Tân Bình)社タンフオック(Tân Phước)邑にはカオダイ教徒はいないとのことだが、ホアタイン(Hòa Thành)県の退役軍人会では80%がカオダイ教徒であるという。カオダイ教と解放勢力との関係やいかに?、ということで以下にみていく。
①抗仏期
カオダイ教についての最も古い記憶を語ってくれたのは、インタビュイー最高齢のクアイ(男、1929年生まれ、タイニン省、大尉)であった。彼は第二次世界大戦中にタイニンに進駐してきた日本軍を目撃したことがあり、当地の残留日本兵がベトミンに武器を提供したり、軍事訓練をしてくれたという。抗仏期、当地にはカオダイ軍は多勢で、重要な拠点をおさえていた。カオダイ軍は、日本製武器を多くはないがもっており、2人で1丁ぐらいだった。それでもベトミン軍よりましだった。クアイの属していたチャンバン(Trảng Bàng)地方部隊は、抗仏期、しばしばカオダイ軍に敗北を喫していた。兵が少なく、武器で劣っていたからである。小団規模にまとまってはじめて勝てたが、当時のクアイの部隊は中隊レベルで主に活動・戦闘していた。カオダイ軍は抗仏というより、ベトミンに対抗していた。そのため解放勢力側の地方軍は抗仏が方針ではあるが、実際にはカオダイ軍との戦いが主だった。
ギア(男、1940年生まれ、タイニン省、上佐)の故郷のズオン・ミン・チャウ(Dương Minh Châu)県では当時、ギアの家族のようにベトミンに従う人は抗戦地区に行き、カオダイ教に従う人は「周囲(Chu vi)」と呼ばれる所に集められた。「周囲」は戦略村に似ていて、木の柵で囲われて出入口があり見張り番がいた。「周囲」に入っても生活は普通に営まれていた。そのなかに市場や学校はなかった。
ギアによれば、抗戦区にいた時、フランス軍やカオダイ軍による来襲があった。カオダイ軍はベトミンと対立しており、武器はフランス軍からのものであった。ギアは1954年のジュネーブ協定後に北に「集結」するが、その時点ではタイニンにおいてカオダイ軍はまだ健在であった。
タム(男、1944年生まれ、タイニン省、元兵士)によれば、カオダイ教との対立が最も激しかったのは1947~1948年頃だったという。その頃は凄惨な殺し合いがあった。そのためグエン・ビン(Nguyễn Bình)将軍が派遣された。(筆者注:グエン・ビン[1908-1951]は、1948年に最初の中将に任命された。その時、ヴォー・グエン・ザップが大将となり、それに次ぐ最高位。南部の指導にあたった)
②1950年代後半
上述のギアによれば、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権は最初にビンスエン勢力を鎮圧し、1958年にはカオダイ軍を平定し、カオダイ軍のチン・ミン・テー(Trình Minh Thế)将軍を殺害した。これによりカオダイ軍は勢力を失った。
③1960年代
上述のタムによれば、1960年末に南ベトナム民族解放戦線が成立すると、カオダイ教徒を解放勢力側に取り込むことができるようになった。カオダイ軍のなかには、フイン・タイン・ムン(Huỳnh Thanh Mừng)少佐のように、カオダイ教を離れて抗戦区のジャングルに入ってきた人もいた。60年代は以前と異なり、相互理解が進んだ。地方部隊には多数のカオダイ教徒が入隊するようになったという。
フオック(男、1942年生まれ、ロンスエン省、大尉)は、1962年にタンビエン(Tân Biên)県の部隊に入り、南部中央局の防衛にあたっていたが、カオダイ軍との戦闘はもはやなかったという。
④現在
タイニン省党学校の教員であるターイ(男、1954年生まれ、ハバック省、元兵士)は、党学校のみなさんが共産党入党や退役軍人会入会の際には宗教に参加しないのが現状になっているが、それは間違いだとしている。共産党の党条例や「党員がしてはならない19条」にはそのような規定はないという。(筆者注:現行の19条のなかには、非公認の宗教に参加してはいけないとはあるが、公認宗教が駄目とはされていない)。ターイは、もし党員・退役軍人が宗教から離れれば、大衆を掌握できないと主張する。
以上をまとめると以下のようになる。
抗仏期、タイニンでは、ベトミン、カオダイ軍、サイゴン政府軍の三つ巴の状況にあった。1940年代後半、ベトミンとカオダイ軍は激しく対立した。1950年代後半、ゴ・ディン・ジェム政権によりカオダイ軍は鎮圧され、大きく力を削がれていった。1960年の南ベトナム民族解放戦線の成立により、カオダイ軍の一部は同戦線内に取り込まれていった。
(2)タイニンでの武装蜂起の始まり
①戦略村の暮らし
農村への解放勢力の浸透を防ぐため、南ベトナム政権は1959年から農民の囲い込みを始めた。稠密区(1959年 khu trù mật)⇒戦略村(1963年 ấp chiến lược)⇒刷新村(1964年 ấp đời mới)⇒新生村(1965年 ấp tân sinh)と名称は変更になっているが、ここでは便宜上、戦略村と統一しておく。
ザー(女、1950年生まれ、タイニン省、革命協力者)は、戦略村に暮らしながら、密かに解放勢力側に協力していた。戦略村の周囲には土塁と有刺鉄線のフェンス、さらには竹と掘割が張りめぐらされ、幾つかのトーチカがあり、見張りの兵士がいた。村の出入口は見張り番のいる門以外はできず。朝5時から夕方5時の間に限られていた。村内はごちゃごちゃしていて、指定された土地に自前で家を建てた。井戸も自前で掘り、何の支給もなかった。学校や市場も村内にあった。ザーは1967年~1974年まで戦略村で暮らしながら、情報を伝えるなど協力者として活動を続けた。彼女によれば、1975年以前に解放された戦略村もあるが、大きな所は75年にようやく自己解体したという。
ファット(男、1957年生まれ、タイニン省、中士)は、1973年に16歳で社のゲリラになるまで、戦略村で暮らした。状況はザーの語ったものとほぼ同じであるが、ファットの所では市場は外にあった。夜間に病人が出た場合は、松明を燃やして出かけなければならなかった。
ジア(男、1938年生まれ、タイニン省、元兵士)によれば、戦略村の破壊工作は地元の人を主にして、武装勢力がそれを支援したが、犠牲は大きかったという。ただ、戦略村によって敵は農民を解放勢力側から切り離そうとしたが、地元の人脈により、解放勢力側はその内部に浸透することができたという。
②タイニンの武装蜂起
(a)クアイ(男、1929年生まれ、タイニン省、大尉)
クアイは、1945年八月革命の時、地元のチャンバン県の青年先鋒隊に参加した。武器は竹槍などで銃はなかった。当地にはまだベトミンがなく、青年先鋒隊が中核であった。
1946年に県の部隊に入隊。武器は政権から奪ったもので、主には歩兵銃。時に日本軍の歩兵銃だった。
1950年に正式なチャンバン地方部隊となった。部隊には制服はなく自前。
1954年にクアイは北部に「集結」した。
(b)ジア(男、1938年生まれ、タイニン省、元兵士)
ジアは、抗仏戦争期に地元のゲリラに参加した。1957年の青年団組織に加わり、秘密活動に従事した(この時期、ゲリラなし)。1960年1月26日のトゥア・ハイ(Tua Hai)の戦いでタイニン省第14小団が成立し、入隊。タイニンでの武装闘争はこの戦いから始まる(筆者注:ベンチェーの一斉蜂起の7日後)。
(c)ギア(男、1940年、タイニン省、上佐)
ギアは、トゥア・ハイの戦い(1960年)の後、秘密活動に入り、同年12月、ズオン・ミン・チャウ県の部隊に入隊した。この部隊は当初は小隊レベルだったが次第に大きくなり、最大時は大隊レベル、約150人くらいになった。武器はトゥア・ハイの戦いで鹵獲したもので米軍の銃であった(トムソン銃、M1ガーランド)。1961年、タイニン省隊に移る。
(d)ソン(男、1942年生まれ、タイニン省、中佐)
1961年にチャウタイン(Châu Thành)県の県隊に入り、訓練を受ける。訓練時、本当の銃は2・3丁であとは木製の銃であった。服装は普段着で集団給食。自分のハンモックで寝て、サンダルのない人は裸足だった。特に何も支給はなかった。県隊では最後まで制服はなかった。訓練後、ソンは県隊の秘書兼財務係となった。
(e)フオック(男、1942年、ロンスエン省、大尉)
1960年、兵役の年になり誘われてタイニン省タンチャウ(Tân Châu)県タンフン(Tân Hưng)社のゲリラになった。最初は戦闘はなく、文書を運ぶだけ。1962年3月、タンビエン県の県隊に入隊した。その頃、銃は敵から奪ったもので、トゥア・ハイの戦いの後、十分にそろうようになった。フオックの属する大隊は南部中央局の防衛が任務であった。戦闘は1964年から激しくなった。
(f)クアン(男、1943年生まれ、ティエンザン省、上士)
1960年に革命が起き(筆者注:一斉蜂起のことか)、クアンは革命側に従い、1963年7月にティエンザン省の第514小団に入隊した。同年1月のアプバックの戦いには間接的に参加した。その後、南部解放軍司令部基地で3か月学んだ後、タイニンにある南部中央局防衛の任務に就いた(タイニン省隊・第14小団)。
(g)タム(男、1944年生まれ、タイニン省、元兵士)
タムは1960年から地元のゲリラに参加し、1961年にジャングルに入り、県の部隊に入隊した。当時、「ベトミン」という言葉を使わず「脱退したカオダイ」という言葉を使い、トゥア・ハイの戦いでも「脱退したカオダイがトゥア・ハイを解放した」と宣伝した(筆者注:武装闘争広くが認められていない段階で、誤解を避けるために、そのような「偽装」をしたのではないか)。
トゥア・ハイの戦い後、タムの属する大隊は十分な武器をそろえていた。すべて米国製の銃で、この時の同大隊は強力であった。服、帽子、サンダル、蚊帳、ハンモックは自前であった。ジャングルでは人民が食事をつくってくれた。そうでない時は、支給された玄米を兵站が精米したものを自炊した。
(h)クオック(男、1947年、タイニン省、専業上尉)
クオックの郷里チャンバン県では、ジュネーブ協定後に北部に「集結」した人がいたが、残った人も多かった。1960年に一斉蜂起運動が起きると、それらの人が学校に宣伝に来た。クオックは社の診療所で1962年から1964年まで看護師として働いた後、1964年からチャンバン県隊に入隊した。その時、県隊には2個大隊あった。武器は十分あり、M1カービンもあった。服は自前。ジャングルにいる時以外は、人民の家に宿泊した。同部隊は地方部隊なので戦い方は主にゲリラ式であった。つまり勝てると思ったら戦い、そうでなければ避ける。
以上をまとめると以下のようになる。
1960年初のベンチェー省での一斉蜂起の動きをうけて、タイニンでは7日後にトゥア・ハイの戦いが起き、これにより武装蜂起が顕在化し、地方部隊の成立が促された。南部の武装闘争は当初、南の人々を中心におこなわれた。武器は敵から奪ったものが主だった。県隊などの地方部隊には制服はなく、兵士に給料はなく、兵士の衣食住は支持人民の庇護に大きく依存していた。
北部や中部と違い、兵士・青年突撃隊隊員の食糧事情は概してよかった。主力部隊よりは基礎の部隊やゲリラの方が食糧を入手しやすかった。メコンデルタの豊かさと何よりもカンボジアから食糧を調達できたからである。ただ、リエンとギアによれば、1973年のパリ協定調印後、一時、地方部隊も食糧不足に陥ることがあった。
(前編終わり)