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Ⅰー26. 旧南ベトナム大統領官邸に最初に突入した戦車と兵士とは?:東北部トゥエンクアン省(後編)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(26)
★2013年11月16日~11月23日

見出し画像:1945年八月革命直前に「国民大会」が開催されたタンチャオの亭(ディン)

(10)トン(1950年生まれ):ソ連の軍事顧問と一緒に戦った中越戦争

現在、ソンズオン県在住。トゥエンクアン省出身。17歳で中学校を卒業してすぐに1969年入隊。1か月余り訓練して、南部出征命令を受ける。ゲアン省経由でラオスのシエンクアンへ。第316師団に補充され、シエンクアンを攻撃。敵はなかなか手ごわかった(筆者注:敵とはヴァン・パオ率いるモン族の軍か?)。1971年末に北に戻り、1972年2月に南部に出征。パリ和平交渉が進行中の時であった。新たに部隊が編制され312Bと名付けられ、各大隊の党員比率が80%以上に引き上げれらた。クアンチまで徒歩で行軍し、和平交渉を有利に進めるためフエ攻撃の準備をしたが、1973年1月27日に和平協定が締結されたので、フエ攻撃は中止になった。北に戻り、1974年12月まで「補習」の勉学をした(筆者注:士官の昇進のため、相応の学歴をつけさせるための補習)。「補習」終了後、再び南部のクアンチに向かった。さらに南下してダナンに着いた時、戦勝の知らせを聞いた。

ベトナム戦争終結後、ニンビン省の第308師団に配属され、中越戦争が勃発すると第2軍区の第168砲兵旅団(1978年8月設立)へ異動した。1984年、ハトゥエン(Hà Tuyên)戦線では強力な攻撃をおこなった。砲はすべて130mmと152mmだった。その時、ソ連の軍事顧問が大隊クラスまでいて(大隊・小団はごく短期、旅団は長期)、ソ連の軍事顧問たちは砲を牽引するKRAが橋を渡れないのを恐れた。中越戦争では、1991年にハザン(Hà Giang)の小団が最後に撤退した。トンは2000年に退役。

(11)タイン(1950年生まれ):物資・食糧に恵まれた戦場にいた衛生兵

現在、ソンズオン県在住。トゥエンクアン省出身。9年生の途中で1968年に第304師団に入隊。タインの入隊時、同じ社からは7人の入隊者がいて、「総動員体制」だったので、30台なかばの人が3人いた。そのうちの一人、サックさんには6人の子どもがいた。タイグエン省で訓練してすぐに南部に出征。1969年に南部入りし、フエ西方の山間部アサウ、アルオイに駐屯。「北の飯、南の敵」で食糧事情は悪くなかった。国道1号線沿いなら食糧不足に陥るところだった。アサウの基地は敵の来襲はなく、爆撃をうけただけであったが、周辺一帯に枯葉剤が散布された。地元のパコ族は部隊をよく助けてくれた。薬品と医療器具はすべて北から運ばれた。ホーチミン・ルートは自動車道路もできていた。衣料、砂糖、ミルクなども十分あった。缶詰と豚をパコ族の人と交換したこともあった。

クアンチでの1971・72年の作戦を経験。ただ、この時は559病院の衛生兵(y tá)だったので、戦闘には参加しなかった。1972年、クアンビン省で医学を学んでいた時、B52の空爆で負傷した。559病院は559団部隊のためだけではなく、チュオンソンの部隊全体のための病院だった。1973年にはじめて女性のスタッフが派遣されてきた。

タインホア出身の妻も兵士だった。1973年にクアンチで全員が女性の兵士を乗せた車が転倒し、それに乗っていた彼女は負傷した。彼女の入院治療中に二人は知り合った。タインは1976年1月に除隊し、クアンチから帰郷した。同年、結婚。1979~82年にハトゥエン省(当時)の党学校で学び、1982年から農林学校で教鞭をとった。1989年、退職。枯葉剤の影響か、子どもはできなかった。

(12)ザン(1950年生まれ):ラオスとコントゥム省に駐屯した工兵

現在、イエンソン県在住。トゥエンクアン省出身。中学校(民族寄宿学校)を卒業して、1968年に入隊。タイグエン省で1か月訓練して、下士官学校へ。同校を修了前に南部へ出征。ハティン省経由でラオス領内に入った。1971年3月までラオスにいて、それから中部高原のコントゥム省ダックトー県に移る。工兵部隊所属だったので、戦闘には参加していなかったが、1972年春の作戦で負傷。足を切断し、カンボジアで治療。1974年に北に送られた。治療後、トゥエンクアン省人民委員会に勤務。1994年に退職した。1975年の静養中に結婚。妻は静養所のスタッフだった。当時、負傷兵はもてた。コントゥム省駐屯中に入党。

自宅でのグエン・ヴァン・キー夫妻

(13)キー(1953年生まれ):旧南ベトナム大統領官邸に最初に突撃した戦車の砲手

現在、トゥエンクアン市在住。トゥエンクアン省出身。1971年12月に入隊。歩兵の訓練を15日間だけうけた後、小団ごと戦車・装甲車の兵種に転換し、1972年3月までヴィンフック(Vĩnh Phúc)省で訓練。訓練後、クアンチの戦場へと戦車と一緒に向かった。ヴィンまで汽車、ヴィンから海路でクアンビンまで、クアンビンからは陸路であった。クアンチでの戦いの後、タックハン川北側、アイトゥー(Ái Tử)飛行場区域にとどまった。

キーが最初に乗った戦車はT34で5人乗りだった。その後、4人乗りのT54第843号に替わった。T54第843号はソ連製で、後述のT59第390号は中国製だった。

1975年3月24日、南部深くに進攻する命令を受け、クアンチを出発。国道1号線を直進した。ファンラン、ファンティエット。行く先々が次々と解放されていった。4月27日にロンタイン、4月29日朝にはサイゴン橋のたもとまで来た。キーの大隊は7両の戦車を擁し、大隊長はブイ・クアン・タン(Bùi Quang Thận)だった。キーの大隊はサイゴン中心部の攻撃と南ベトナム大統領官邸に旗を掲揚する命令を受けた。T54第843号には、大隊長のブイ・クアン・タン、ルー・ヴァン・ホア(Lữ Văn Hỏa)、タイ・バー・ミン(Thái Bá Minh)とキーの4人が乗り込んだ。キーは第2砲手だった。

大統領官邸にいち早く辿り着いたのはT54第843号とT59第390号の2両の戦車であった。2両とも第2軍団・第203戦車旅団・第1小団・第4大隊に属していた。一番早く門に辿り着いたのはT54第843号であったが、門(正門ではない)に引っかかってしまい、立ち往生した。それで大隊長のタンが戦車から降りて旗を持ち、大統領官邸内に入っていった。キーは、大隊長のタンを警護するため、AKを携帯して同行した。最初に大統領官邸内に入ったのはタンで、次いでキーだった(筆者注:フイ・ドゥック著・中野亜里訳『ベトナム:勝利の裏側』44~45ページでは、タン単独で入ったことになっている)。一方、T59第390号は正門から突破した最初の戦車となった。

キーは、大統領官邸の後、サイゴン軍港、ロンビン大倉庫に行った。その後、ビンフオック、タイニンに行き、FULRO(被抑圧民族闘争統一戦線)を鎮圧した。それからカンボジアのシハヌークビル港に行き、北に戻った。1977年に除隊。

※ どの戦車が最初に南ベトナム大統領官邸に突入したのかには、後日談がある。このへんのことについては、フイ・ドゥック前掲書の512~514ページに詳述されている。ベトナム戦争終結後20年もの間、大統領官邸に最初に突入した戦車は、解放戦線旗を官邸に掲げたタンの乗っていたT54第843号だと思われていた(2023年12月7日時点での独立宮殿・音声ガイドによると、官邸に掲げられた旗は臨時革命政府旗だとしている)。ところが1995年になって、フランスの女性写真家が大統領官邸突入の場面を撮影しており、T59第390号が最初に突入した戦車であることが判明した。これによりT54第390号の乗員4人の顕彰がおこなわれ、実業家のなかには4人に対して手厚い支援をする人も現れた。

VN EXPRESS 電子版の2015年4月20日付けの記事によると、2012年にT59第390号とT54第843号の2両とも「国家宝物」に認定されている。現在、第390号はハノイの戦車博物館に、第843号はハノイの軍事歴史博物館に陳列されている。この記事には、グエン・ヴァン・キーの名前も出てくる。

この記事の最後には、大統領官邸突入場面の動画がある。第390号の兵士は顕彰・優遇されているのに対し、タン大隊長以外の第843号の兵士の境遇は見劣りする。

独立宮殿(旧南ベトナム大統領官邸)敷地内に展示されている2両の戦車(本物ではなく、同じ型のもの)(2023年12月7日撮影)
独立宮殿の展示の説明および音声ガイドではどちらの戦車が先に突入したのかを明言していない。展望階にある説明板には2両の戦車の乗員リストがあり、キーの名前もある。

おわりに

以上の聞き取りから、以下のような点が読み取れる。
◆トゥエンクアンは新開地ということもあり、飢饉、戦乱、新経済区などでやってきた人がいる。また地理的位置から、ラオスに赴任した人が比較的多い。
◆抗仏戦争期は徴兵の選抜はゆるやかだったが、1958年からの「軍事義務」の施行から数年間は選抜が厳格であった。1960年代なかばの「総動員体制」以降、選抜は緩やかになり、30台の男性も徴兵されるようになった。また訓練期間も短縮化する傾向にあった。1970年代初めには学徒兵の動員も始まった。
◆中ソの軍事顧問の存在が窺える。抗仏期の砲兵学校の中国人教員、抗米期の空軍へのソ連軍事顧問、中越戦争時のソ連軍事顧問の存在などである。
◆軍隊での入党が促進された。「履歴」に問題があっても軍隊であればクリアーされ、入党試験期間も短縮された。トン(10)が言うような、大隊の党員比率80%以上というのは数字が多すぎる気がするが、なんらかのノルマは課せられていたのかも知れない。入党という「ニンジン」は士気向上、規律維持に大いに役立ったものと思われる。
◆テト攻勢とその直後の犠牲の多さ。ニャン(9)の郷里の戦没者の約半分が1968・69年だという。またこの時期の戦闘での部隊損耗率の高さも何人から語られていた。戦闘死ばかりでなく、マラリアによる死亡、餓死もあった。
◆「平定期」(1969~1971年)の後、解放軍の武器・物資の状況が改善された。
 (後編 了)


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