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Ⅰー44.(文献篇5)ジェームズ・M・フリーマン『悲しみの心 ベトナム系アメリカ人の生活 戦争の荒廃からの14人の難民の、彼ら自身の言葉で語られた、生き生きとしたライフ・ストーリー』(1989年)

文献篇(5):ジェームス・M・フリーマン『悲しみの心 ベトナム系アメリカ人の生活 戦争の荒廃からの14人の難民の、彼ら自身の言葉で語られた、生き生きとしたライフ・ストーリー』(1989年)
JAMES M. FREEMAN, HEARTS of SORROW:Vietnamese - American Lives ; The vivid life stories - told in their own words - of fourteen refugees from the devastation of war,  STANFORD UNIVERSITY PRESS, Stanford, California, 1989.  全446ページ。

ジェームズ・M・フリーマン『悲しみの心』(1989年)

はじめに

 本書は、ベトナム戦争終結後にアメリカに難民として逃れ、アメリカでの新生活を築こうとしているベトナム系アメリカ人の話者14人への聞き取り調査をまとめたものである。
 著者のジェームズ・M・フリーマンはアメリカのサンホセ州立大学の人類学教授。1979年までインドの不可触選民の研究をしてきた(Freeman, James M. , Untouchable : An Indian Life History, Stanford, Calif : Stanford University Press, 1979 )。本書出版当時、著者はカリフォルニア州サンタクララに在住していた。
 本書は、アメリカ定住のベトナム難民に対するオーラル・ヒストリーの中で最も初期に出版されたものの一つである。おそらく最も早くに出版されたものは、1985年のアル・サントリの『いかなる重荷にも耐えるために』(Santoli,Al, To Bear Any Burden : The Vietnam War and its aftermath in the words of Americans and Southeast Asians,  New York : Dutton, 1985 )ではないだろうか。この本は1999年にインディアナ大学出版会によって改訂版が出されている。ほかには、本書と同じ年に出版された、ジョアンナ・C・スコットの『インドシナの難民 ラオス、カンボジア、ベトナムからのオーラル・ヒストリー』(Joanna C. Scott, Indochina's Refugees : Oral Histories from Laos, Cambodia and Vietnam, Jefferson, North Carolina, and London : McFarland & Company, Inc., Publishers, 1989 )がある。この本ではベトナム難民だけではなく、ラオスやカンボジアからの難民も扱われている。

アル・サントリ『いかなる重荷にも耐えるために』(1986年版)

本書の内容の紹介

 本書は7部構成になっていて、時系列的に、子ども・青年時代、ベトナム戦争期、終結直後、ベトナムからの出国、アメリカ定住後、に分けられている。14人の話者のライフ・ストリーが時系列とテーマ別に再構成されている。それでは本書の構成に従って順次、内容をかいつまんで紹介していく。

第1部:悲しみの心

 イントロダクション
  
1980年に本書のための調査を開始した。本書では、政策決定者というよ
  り普通の人々を対象とする。なぜ多くのベトナム系アメリカ人が反共的
  なのか、なぜ家族の離散はトラウマティックなのか、などを本書では探
  る。
 
 1.ベトナム人の難民経験
  
1987年までに84万7569人のインドシナ難民がアメリカに定住した。この
  うち、ベトナム人は52万9706人。ベトナム難民は出国途中で少なくても
  10%が死亡している。1980年にはベトナム難民は増加し、1980年にアメ
  リカでは難民法が制定された。
  「移民」と「難民」は異なる。難民には2つのリスクがある。①生き残
  っていくために必要なさまざまな負担、②過去の喪失。さらにベトナム
  難民固有のリスクとしては、③故国に戻りたい願望、がある。1985年ま
  でにアメリカのベトナム難民は適応の第2フェーズに入った。

 2.「悲しみの心」の創出
  
ベトナム難民は、他の移民と2つの違いがある。①ボートピープルが海
  賊から受けた蛮行。②不正義・不人気の戦争の敗者として誤解・歪曲さ
  れたイメージ。さらに3つめの特徴として、たとえアメリカで成功を収
  めていたとしても表面下では悲しみが横たわっていることである。

  ベトナム難民は1975年が第一波。第二波は1975年以降。本書はその多く
  がカリフォルニア州サンタクララに在住している40人の男女にインタビ
  ューした成果。
  この調査の特徴は4つ。①難民はインフォーマントというより参加者。
  ②参加者は語りの文字起こししたコピーを受け取る。③地域貢献のプロ
  ジェクトのため、このプロジェクトの著作物収益はベトナム難民の公益
  のために使われる。④ベトナム系アメリカ人の研究者を養成する。

  本書のライフ・ストリーは単なる伝記ではなく、語り手と研究者・通訳
  の協働作業。アル・サントリのベトナム難民のオーラル・ヒストリー
  (1985年)と異なり、本書はベトナムでの人々の生活体験と外国での彼
  らの適応の結びつきをたどる。

『いかなる重荷にも耐えるために』(1999年版)

第2部:ベトナム:子ども時代、青年時代と性格

 イントロダクション
 3.私は侮辱を決して忘れない:1906ー1941年(話者1:年配の元南ベ
   トナム政府公務員):
1906年に南部で生まれる。父方の祖父は中国
   人。兄と最初の妻はベトミンに殺された。

 4.末娘:1914ー1934年(話者2:南ベトナム人の年配の農村女性):
   
1914年に南部農村に生まれる。英語が話せず。アメリカの食べ物、生
   活様式に慣れず。

 5.私は愛なしで成長した:1925ー1937年(話者3:北ベトナム人の中
   国系年長者):
北ベトナムに1980年までいた中国系の人。

 6.同輩と友達になる:1927ー1940年(話者4:中部ベトナム人教
   師):
1976年、共産主義体制を逃れて出国。

 7.定められた宗教的人生:1932ー1952年(話者5:北ベトナム人尼
   僧):
北ベトナム出身。5歳で仏門に入る。

 8.カトリック村で成長する:1942ー1966年(話者6:中部ベトナム人
   漁民・ビジネスマン):
中部のカトリック村で生まれる。

 9.ベトナムの北部と南部の子ども時代:1946ー1968年(話者7:北ベ
   トナム人自動車整備工:
北ベトナムのカトリック村で生まれる。1954
   年に南部に移住。南ベトナム政府の憲兵になる。

 10.ぶたないことは愛していないこと:1963ー1979年(話者8:南ベト
   ナム人の若き詩人):
1979年に16歳で単身出国。詩作をする。

第3部:ベトナム:戦争の悲しみ

 イントロダクション:1945~1980年までを扱う。
 11.飢饉:1945年(話者9:北ベトナム人のカトリック司祭):北ベト
   ナム生まれの神父。1954年に南部に移住。従軍神父をする。ベトナム
   戦争後、5年間、再教育キャンプに収容される。1981年に出国。

 12.フランス人によって投獄される:1945ー1948年(話者10:元ベトミ
   ンの労働者):
北ベトナム出身でかつてはベトミンに参加。その時の
   上司にフイン・タン・ファットがいた。その後、ベトミンに幻滅し、
   1954年に南部移住。1975年、アメリカに出国。社会主義共和国への抵
   抗運動に参加。

 13.私の夫の迫害:1946年(話者11:南ベトナム人の学校教師):1911
   年生まれ。1984年に73歳で合法出国。難民ではなく、公的援助なし。
   未亡人。夫は1946年にベトミンに殺された。本書の著者のフリーマン
   のベトナム戦争への関心は、ヒーローよりは犠牲者にあり、また老人
   のアメリカ社会への適応問題にある。

 14.ベトミンとフランス人:1945ー1956年(話者1):ベトミンとフラ
   ンスの両者によるテロ。兄と最初の妻がベトミンの暗殺対象になっ
   た。フランス人官僚とその部下のベトナム人の腐敗も証言。

 15.共産主義ハノイの記憶:1945ー1966年(話者1):ハノイ都市住民
   におこなわれた「再教育」を語る。

 16.ベトコンとアメリカ人:1956ー1969年(話者1):ベトコンはプロ
   パガンダを通して村落の支配に成功し、民族主義者は腐敗でしばしば
   失敗した。
   話者1は「ベトコン」を北と南の両方の共産主義者に対して使うが、
   アメリカ人は南部の共産主義者のみを指して使う。

 17.アメリカ人との戦争そしてその後の人生:1965ー1980年(話者
   3):
ハノイの市民はベトナム戦争中をどう生き延びてきたのか。食
   糧不足、アメリカへの憎悪をつのらせるプロパガンダ・テクニック、
   1972年のクリスマス爆撃などが主な事象として語られる。戦後、共産
   主義者による祝日・記念式では人々の熱気は下がる。

 18.私の家族の死者数:1945ー1975年(話者2):親族が共産主義側と
   民族主義側に分裂。その結果、彼女の家族は何人も殺されるはめにな
   った。

ジョアンナ・C・スコット『インドシナ難民 
ラオス、カンボジア、ベトナムからのオーラル・ヒストリー』
(1989年)

第4部:ベトナム:解放の悲しみ

 イントロダクション:100万人以上、人口の2%近くが出国。ベトナム史
  上で初めてのこのような規模でのエクソダス。裏切られた感覚、人権と
  自由が侵害されたとの感覚をもって、一部の特権階層だけではなく広範
  な人々が出国した。

 19.サイゴン陥落:1975年(話者12:元南ベトナム軍大佐):1927年に
  ラオスで生まれる。ハノイで大学教育を受ける。バンコクでのビジネス
  経験もある。1953~56年はフランス軍、1956年からサイゴン軍に所属。
  1963年、ジェム政権打倒に加わる。1975年6月から北部と中部の再教育
  キャンプに6年間監禁され、過酷な扱いを受ける。釈放後、不法出国を
  試みて捕まり、約1年間投獄される。6度目に出国成功。

 20.裁判なき囚人:1975ー1976年(話者12):再教育キャンプに収容さ
  れた最初の年について語る。囚人のように扱われた。
 21.死ぬために北部に送られる:1976ー1979年(話者12):北部の再教
  育キャンプに送られた。
 22.最も過酷な監禁:1979ー1981年(話者12):再教育キャンプ内で最
  悪の試練を迎え、二度の自殺を図る。

 23.10日間のインドシナの日:1975ー1978年(話者13:元南ベトナム軍
   大尉):
15歳の時、ハノイから南部に移住。ベトナム戦争後、再教育
   キャンプに約3年間いた。1980年にボートピープルとしてアメリカに
   渡る。

 24.共産主義下の仏教:1975ー1978年(話者5):尼僧。共産主義は宗
   教、社会的自由を制限したと証言。

 25.バンメトートから逃れる:1975ー1978年(話者6):共産主義下の
   生活状況とベトナムから出国した理由を述べる。

 26.男子生徒たちの共産主義者威嚇:1975ー1979年(話者8):生徒た
   ちの地下出版物による共産主義への抵抗。

 27.再教育キャンプ訪問:1975ー1981年(話者11):夫はフランス軍に
   殺害され、息子は再教育キャンプに収容される。再教育キャンプ訪問
   の記憶を語る。

第5部:自由へのフライト

 イントロダクション:1954年の南部への移住と1975年以降の出国。ボート
   ピープルの受けた惨禍と難民キャンプの生活。

 28.難民キャンプでの絶望:1975年(話者2):グアムの難民キャンプ

 29.残るより海で死んだ方がいい:1975ー1976年(話者4):出国した
   理由とその準備について。フィリピンの難民キャンプ。

 30.最悪の人々:1978ー1979年(話者5):尼僧の経験した難民キャン
   プ。

 31.危険な旅:1979年(話者14):14歳の時、家族を残して出国。26日
   間の海上での様子を語る。

 32.ビエンホア監獄:1981年(話者12):出国しようとして失敗し、収
   監された話。
 33.タイ難民キャンプの野蛮性:1982年(話者12):タイの難民キャン
   プでのひどい扱いにショックを受ける。

比較的最近に出版された、ベトナム難民のオーラル・ヒストリー。
ロン・T・ブイ『戦争の報い 南ベトナムと難民の記憶の代償』
(2018年)

第6部:アメリカ:成功の下の心痛

 イントロダクション:1975年に第一波の難民が到着。難民は18~80歳で、
   アメリカでの経験はさまざま。最も適応困難だったのは、年配の女
   性。

 34.私は孤独に見捨てられて死ぬ:1975ー1985年(話者1):家族の揉
   め事の種は多くはベトナムにおいて既にあり、それがアメリカにおい
   て増幅した。

 35.私は英語を学ぶことができない:1975ー1985年(話者2):多くの
   年配のベトナム人女性が経験したアメリカでの適応の問題。特に英語
   力不足。故国に帰る希望をもっている。

 36.私たちは近所を歩けない:1976ー1982年(話者4):アメリカの生
   活様式に適応するのに多くの困難。英語力、閉じこもりと孤独、低賃
   金・低地位の仕事など。近所を歩くと若い人に嫌がらせを受ける。

 37.神は私を勤勉者にした:1978ー1983年(話者6):他の話者と異な
   り、アメリカ社会への適応の成功例。

 38.彼らは私が厄介者だと言った:1979ー1984年(話者5):尼僧が語
   る適応へのジレンマ。彼女はベトナム文化の安息所を提供。

 39.私はトラブルなしで生きたい:1980ー1984年(話者3):中国系ベ
   トナム人に対する共産主義者の迫害。

 40.若い不良の突き刺しの犠牲者:1981ー1982年(話者8):「国に帰
   れ」と言われたことへの反応。孤独を表明した詩。

 41.私の娘は私を無視する:1984年(話者11):アメリカに来てすぐに
   幻滅。

第7部:解釈

 42.伝記の意味合い
   ベトナム難民のアメリカ社会への適応と彼らの逆境への反応を理解す
   る鍵は、彼らが生活を通して発展させ作り上げてきた文化的・個人的
   価値観を検証することである。彼らの適応の多様さと、しばしば相矛
   盾する考え方は、ベトナム人の考え方と性格について性急に決めつけ
   るべきではないと我々に思い起こさせてくれる。

   認識論的意味合い
   伝記研究の中心となる4つの認識論的問題がある。 
   ①語られたライフ・ストリーをまとめ上げるのは、話者の元々の証言
    の生データを再編集することにならざるをえない。ライフ・ストリ
    ーは、話者、調査者・通訳者、自分自身の協働の結果。調査者はポ
    ートレートを撮る写真家のようなもの。
   ②話者と調査者の関係は、研究主題の一部である。インタビューはデ
    ータの新たな創出である。
   ③話者と調査者を含む協働的伝記(collaborative biographics)の研究
    は、社会科学の客観性についての議論を呼び起こす。協働的伝記
    は、調査者と被調査者の関係が分離できるとする見方から、その関
    係は内容と不可分だとする見方にシフトしたことを示す。
   ④協働的伝記は、現象を適切に描くために、複雑性を縮小するよりは
    拡大させる。調査者の役割は、データへの干渉ではなく、その統合
    的一部となり、データそのものになることである。

  道徳的意味合い
   話者たちはニュートラルではない。全員がメッセージをもっている。
   さらに話者と私の関係は、道徳的意味合いをもっている。
   本書は参加型調査の例。多くのベトナム系アメリカ人の生活体験を彼
   ら自らの見方を表現できるような協働的伝記プロジェクトを計画し
   た。この参加型調査のスタイルは、◆普通の人の生活を記録、◆コミ
   ュニティーの人々に利益をもたらす、◆救済民族誌(salvage
   ethnography)、である。

  文化的対話と批判への意味合い
   しばしば難民の研究は、アメリカの生活にいかにニューカマーが適応
   するのかという一方的な見方に偏っていた。本書はベトナムとアメリ
   カの「多声的な見方」をしている。つまり、アメリカ人はベトナム系
   アメリカ人の見方を考えること、そしてベトナム系アメリカ人はかつ
   ての自分の考え方を見直し、アメリカを学ぶことである。
   ベトナム系アメリカ人は、◆アメリカ社会への適応、◆戦争、出国、
   ベトナムに残してきた親族の記憶、◆故国に戻る夢、といった重荷を
   抱えている。

ベトナム難民のボートピープル

おわりに(筆者のコメント)

◆本書は人類学者によるライフ・ストーリー研究で、厳密にはオーラル・ヒストリーによる歴史研究とは異なる。ベトナム戦争の歴史的研究に重きがあるのではなく、ベトナム系アメリカ人のアメリカ社会への適応を考えるのに必要な条件として、彼らのベトナム戦争の戦前・戦中・戦後の歴史的経験を明らかにしようとしているのであって、ベトナム戦争史そのものを研究対象としたものとはいえない。

◆インタビュイーはアメリカのカリフォルニア州在住のベトナム系アメリカ人がほとんどで、多くはベトナム戦争終結後にボートピープルとして出国したベトナム難民である。ベトナム北部出身者も含まれており、それらの人は1954年に南部に移住したか、中国系の人である。本書のインタビュイーは、共産主義体制化でのテロ、人権・自由の侵害、過酷な再教育キャンプでの監禁について主に語っており、ほぼ明確な反共的な立場を取っている。

◆本書の著者は、ベトナム戦争への関心としては、ベトナム人ヒーローや革命側の勝利と解放の高揚を描くのではなく、ベトナム人の犠牲者や解放の悲しみを描くことにある。

◆本書の研究目的は、ベトナム系アメリカ人のアメリカ社会への適応という多文化共生的課題に応えることである。この点では、多くのベトナム人在住者を抱えるに現代日本にとってもおおいに参考になる点がある。日本では本書のような日本在住ベトナム人から聞き取りをしたオーラル・ヒストリーの本格的な著作ははたして存在しているであろうか。

◆本書の構成は工夫されている。話者14人の語りを時系列とテーマ別に分けて配置し、それぞれに著者の解説を付している。これは<文献篇4>の『女でも戦わなければならない』や下の<付録>の『インドシナの難民』とスタイルが大きく異なっている。

◆本書のインタビューについての方法論的考察はおおいに参考になる。本書のような「協働的伝記」「参加型調査」「多声的見方」「救済的民族誌」などは歴史学における「パブリック・ヒストリー」のも通ずるところがある。私の「ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー」における聞き取り調査は「協働」とは言えないかも知れないが、ベトナムという言論空間のなかで第三者的外国人調査者だからこそ掘り起こすことのできる歴史叙述があるのではないかとの希望をもっておこなっている。

ジョアンナ・C・スコット『インドシナの難民』(1989年)

<付録>

ジョアンナ・C・スコット『インドシナの難民 ラオス、カンボジア、ベトナムからのオーラル・ヒストリー』(1989年)
Joanna C. Scott,  Indochina's Refugees  : Oral Histories from Laos, Cambodia and Vietnam,  Jefferson, North Carolina,and London : McFarland & Company, Inc., Publishers. 1989.  全312ページ。

 本書は上述の『悲しみの心』と同じ年に出版されている。本書はアメリカ人の著者が、1985年10月~1986年5月にフィリピンのバタアン(Bataan)にある難民受け入れセンターでインドシナ難民に聞き取り調査した成果である。同センターには、約1万7000人のインドシナ難民がアメリカ定住前の訓練(語学と文化の学習)を受けていた。
 本書は三部構成で、ベトナム篇(話者9人)、カンボジア篇(話者7人)、ラオス篇(話者9人)から成っている。本書の構成はとてもシンプルで、短い序文に続いて、各篇の話者の語りが掲載されている(ごく短い著者の解説が付されている)。特に本書のまとめ・結論は掲載されていない。
 ベトナム篇の話者は、非合法出国者と合法出国者の両方がいる。カンボジア篇の話者は、1979年にポル・ポト体制がベトナムによって打倒された時に出国した人たで、タイの難民キャンプを経て同センターに辿り着いた。
 本書の目次は以下の通り。

序文
ベトナム ー ボートピープルの国
・自由のために:Nguyen Van Lau;画家
・エッソ社によって救出される:Reverence Tam Minh;僧侶
・私の父は私をフレディーと呼んだ:Freddy Nguyen;アメラシアン
・ホー・チ・ミンの希望は今や崩壊した:Mr. Le;元南ベトナム政府官僚
・結局それはまったくの嘘だった:Name withheld;学生、合法出国
・彼らは、奪い殺すために来た:Thich Nu Grac Huong;尼僧
・行方不明のアメリカ人:Mr. Champamay;ラオス人の軍人
・街灯柱でさえ:Nguyen Thi Yen Nga;ベトナム航空(南ベトナム)の元客
        室乗務員
・私の国は失われた:Tran Van Xinh;元南ベトナム軍士官

カンボジア ー キリングフィールドの国
・クメールの全ての人はとてももめた:Samol Him
・私の母、私の姉妹:Him Mao
・彼らは愚鈍な人々だけを好んだ:Told by Lucy
・難民となった蛇:Heng Houn
・私を監視した眼:Meach Pok
・私の子ども達のために泣く:Told by Nina

ラオス ー セミナー・キャンプの国
・その時はそんなに素晴らしくなかった:Khamsamong Somvong
・彼らの言葉は悪いことすべてを隠した:Soukan Vignavong
・彼が私を持った10年間:Bounsy and Samly Khamphouy
・世界の人々に隠された:Khoun Phavorabouth
・彼らが死ぬまで彼らを保持する:Boukeo Phavorabouth
・ニュース・コレクター:Name withheld
・誰も彼らに対抗して話すことはできない:Saeng Praseuth and Sisouphanh
    Ravisong
・ケン・カンの監獄:VaMountrynhthong 
・カイソンの地獄:Name withheld

                              (了)




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