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一日の花を摘む

”メメント・モリ(memento mori)”という、ラテン語の言葉がある。

直訳すると「死を想う」。
意訳すると「自分がいつか必ず死ぬということを忘れるな」。

命には限りがあり、いつかこの人生には必ず終わりがやってくる。

これは太古の昔から変わることのない、紛れもない事実だ。
そしてこの思想は、時代や場所に一切左右されることがない。

私が小学生の頃、「一休さん」というテレビアニメが放送されていた。
一休さんが得意のとんちを使った楽しいアニメだったが、
私は最終回を、あれから何十年経った今も忘れることができない。

お正月のはなやいだ雰囲気に包まれた町の中を、
一休さんが髑髏(しゃれこうべ)を杖の先に付けてお経を唱えながら歩いていく。
町の人々は、正月から縁起でもないと怒り、一休さんに向かって石を投げる。
それでも、一休さんはお経を切らすことなく歩いていく……。

一休さんが人々に伝えたかったことは、
「1年経ったということは、私たちはまた一歩死に近づいたということ。
 なのになぜ、そんなに浮かれていられるのか。」
ということだった。

今までの楽しかった内容とのあまりのギャップに驚き、
同時に「死」というものの本質のようなものを
幼いながら理解したという記憶が今でも蘇ってくる。

ラテン語に”メメント・モリ”という教えがあるように、
仏教にも同じ教えがある。
時代を問わず、万国共通の教えなのである。

私は、”メメント・モリ”に続きがあることを知らなかった。

”カルぺ・ディエム(carpe diem)”

直訳は、「一日の花を摘め」であり、
意訳すると、「今この瞬間を精一杯生きよ」という。

「メメント・モリ」と「カルぺ・ディエム」は対義語のようでいて、
実はまったくの同義語である。

この言葉や一休さんは
「今という瞬間を精一杯生きよう。この命は限りあるものなのだから」
と説いている。

では、今この瞬間を大切に生きるとはどういうことか。

私は、この答えを模索しながら毎日を生きることなんじゃないかと思う。
自分のものさしをしっかりと持って、己に恥じることなく悔いなき一日を過ごす。
そして、どんな些細なことでもかまわないから、
”気づき”というインスピレーションを得て、それを命の糧として貯蔵する。
一日の終わりに、目を瞑るその瞬間に、
その日摘んだ「気づき」の花を心の花瓶にそっと一輪生ける。
それが、「今日の業を成し終える」ということであり、
「memento mori, carpe diem」なのではないかと思う。

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