想像と理解とゆるすこと⑬
熱中症になった。
我ながら自分の体力の無さに嫌気が差す。
グラグラと揺れる天井を睨み付けることもできずに、ただただ目を瞑ることしかできない自分が情けない。
怖い。虚弱体質で所謂「普通の子」のように通学できなかった幼少期に戻るようで怖い。
あの時も、今と同じように高熱でくらくらと揺れる天井をぼんやりと眺めることしかできなかった。
外に遊びに行きたくても、体を起こす事すらままならない。
ただじっと布団の上に横たわりながら、高熱で膨張する脳を頭蓋骨にかかえる。
時々目を開けて部屋に差し込む日の明るさと角度から、今が朝なのか昼なのか夜なのかを判断する。
自分が生きているのか死んでいるのかよくわからない時間軸の中で一日一日が終わっていく。
妹や弟の「いってきます」の声、近所の子どもたちの賑やかなおしゃべりでウトウトしていた意識が少し戻る。「あ~朝なのか。」
それが過ぎるとまた周囲は静かになり、私の意識も眠りにつく。
「ただいまぁ。」という声と共にまた少しだけ意識が引き戻される。
階下からうっすらと聞こえる妹や弟の高い声。そして母の「お姉ちゃん、また熱出してるから静かにして。」というため息混じりの低い声。
どうして私は妹や弟みたいに学校に行ったり外に遊びに行ったりできないんだろう。
どうして私だけできないんだろう…。
思考はそこで停止し、沸騰した脳は私を再び眠りに引きずりこむ。
まるで「そんなこと考えても答えは出ないよ、考えるだけムダだよ。だってお前にはできないんだから。」とでも言うように。
母はよく「なんでアンタだけこんなに体が弱いんだろう。」「お母さんが弱く産んじゃったのかしら。」と私の枕元で嘆き、神様に祈っていた。
「神様どうかこの子をお救いください。」
私だって丈夫な体が欲しかった。
他の子みたいに普通に学校に行って、夏休みにはお祭りに行ってプールで遊んで、部活の合宿に行って枕投げがしたかった。
なによりも、誰よりも、私自身が自分の体にホトホト嫌気が差していた。
でも仕方ない、どうしようもできないものは誰が何をしようとどうしようもできないんだから。
誰だかよくわからない、存在するのかどうかもわからない何かに祈ったところで、その存在が直接この体に何かをしてくれるわけでもない。
だから私にできること、ただただ目を瞑り、家族の声を遠くに聞きながら、部屋に差し込む日差しで時間を計り、ウトウトと眠りながら時を過ごすこと。
これを繰り返せば、沸騰した脳は徐々に静まり、やがて意識が戻ってくる。
幼い頃からそういうことを繰り返しているうちに、私の中に「どうしようもないことは何をしてもどうしようもない。」という思考が染み付いてしまったのだろう。
私はだいぶ諦めの早い人間になってしまった。
できないものはできない、仕方のないことは仕方がない。
努力や根性などという不確かなものではどうにもならない、明確な医学的根本的治療もない、ただじっと、そしてウトウトと、時を過ごすことでしか生き延びれないものが、この世界には存在する。
だからこそ人は、目に見えない何かに縋るのだということも、同時に理解できる。
目に見えるものには限界があるから。
この世界に存在する形あるものには限界があるから。
だが私はそれにも懐疑的だ。
今の私があるのは、あの時の私ができる精一杯のことをやったからだ、という思いがある。
目に見えない何かが私に何かを与えてくれたのではなく、過去のあの時の私が、できる事をしたからだ、と。
こうやって思考は巡るのに、また体が動かない。
仕方ない、情けないけど今はウトウトと時を過ごすしかない。
今までもそうやって、生き延びてきたじゃないか。