想像と理解とゆるすこと⑭
人に、心底甘えられない。
今日、私の体調不良を心配した、カウンセラーの師匠からメールをいただいた。
「いつでもあなたのことを、思ってるよ」という一文を読んだ瞬間、私は幼子のように声を出して泣いた。
みっともない。
泣くんじゃない。
母ならきっとそう言うだろう。
「あなたのことを、いつでも思ってるよ。」なんて、一度として言わなかった人だから。
「お母さん(親)のことを、いつでも考えていなさい。」という人だったから。
だから私はいつでもこうやって、一人で泣いて一人で考えて一人で決めてきた。
進路も、結婚も、子育ても、仕事も。
母に相談する・自分の日常を話す、などという概念は私にはない。
母はいつでも自分の話ばかりで、子どもの話を聴くことなどなかった。
そもそも母の中に「子どもの話を聴く」という概念は存在しないのだろう。
親とは子どもに命令するもの、子どもは親の命令を黙ってきくもの。
「なぜダメなのか」を説明せず、ただ「ダメだからダメ。」を繰り返すだけで、子どもの考えなど「聞くに値しない」。
私は一度として親から「あなたはどう思う?」と聞かれたことはなかった。
自分の意見が尊重されたことも、なかった。
決断にいたる過程を訊かれたこともなかった。
そうやって育てられたから、あの時も、あの時も、あの時も、いつも私は一人で泣いてた。
一人でこうやって泣いて泣いて泣き尽くして、ボーっとする脳みそを抱えていた。
いつだってこうやって、一人で泣いてきた。
両親や夫に言葉で訴える代わりに泣きながら自分と対話し、自分の中にある言葉達が尽きるまで対話のラリーをし、そして決断し、自分で自分を満たしてきた。
私は人に上手に甘えられない。
人に甘えるのが怖いのではなく、それはもう補いようのない私の欠片であり、私の一部だ。
そう認めるしかない。
私は可愛げがない。
子どもに言われた言葉をまた思い出す。
それも私だと認めるしかない。
人に上手に甘えられる人間になろうとか、誰からも愛される可愛げのある人間になろうとか、自分の欠損から目を背けることはもうやめよう。
可愛げがなくて、人に甘えることが下手で、なんでも一人で解決したがる。
それが、私だ。
それ以上でも以下でもなくただ、それだけだ。