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姫鯖《ひめさば》

本編

「おお、おまんがお鶴か。ここに座りい。先の乳母より聞いておるがよ。よう姫様に使えちゅう話や。」

「ありがたいことでございます。新しい乳母様。初めまして。あたいが鶴です。土佐からの長旅お疲れ様でございました。どうぞよろしくお願いいたしまする。」

「うむ。子どもながらに立派な挨拶じゃ。かまんよ。楽にしちょってな。さっそくながよ。おまんに頼みたい仕事があるがやき。よう聞きや。」

「はい。新しい乳母様。」

「ときにお鶴。おまんはなぜにこのあてを新しい乳母様と呼ぶ?頭に『新しい』などと付けんと、すっと乳母様と呼ばんがはどういうことがやき?」

「はい。新しい乳母様。あたいは先の乳母様から大変にかわいがっていただき、また大変お世話にもなりました。両親からも先の乳母様を親と思えと言われておりまする。ですから、あたいにとりまして姫様の乳母様は土佐へ帰ってしまわれた先の乳母様が乳母様で、代わりに土佐からやってきたあなた様はどうしても新しい乳母様になるのでございます。だからこうして新しい乳母様と呼んでおりまする。」

「ふむ。先の乳母への義理立て、なかなか感心ながよ。ならばあてに『新しい』を付けるのもせんないことやもしれん。けんど乳母はこうして交代し今はあてが姫様の乳母ちや。お鶴、おまんどうしても『新しい』は外せんが?」

「はい。外せませぬ。新しい乳母様。」

「まあまあ、どうしてどうしていごっそうな子や。」

「ごっそう?」

「『いごっそう』や。おまんは『いごっそう』を知らんが?」

「知りませぬ。」

「『いごっそう』も知らぬとはなんちゅう言葉知らず。おまんは姫様のお側に使え、机ば並べちょって勉強しとったやないが?もう十ばあにもなるがやきに『いごっそう』も知らんっちゅう子に姫のお側が勤まるのかえ?先の乳母殿はいったい何を考えてこんな無知な子を雇い入れたがやろ?」

「お言葉ですが新しい乳母様。あたいも言葉なら多少は知っております。姫様と一緒にだいぶたくさん御本を読みましたから。その辺の十の子よりは物を知っておりまする。けれども『いごっそう』は知りません。それはたぶん土佐の言葉です。」

「なにをゆうが?『いごっそう』が土佐の言葉なもんかえ。あほなことゆうなや。えいか、あては一昨日江戸に到着して以来ずっと江戸言葉を話しちゅうがやき。今だってそうながよ。おまんに合わせてちゃあんと江戸の言葉で話しちゅうがよ。あてはおまんと違うて物事をようくわきまえちょる。土佐におるときは土佐の言葉を使うけんど、郷に入っては郷に従えゆうように、ここ江戸では、こうしてちゃあんと江戸の言葉を使っちゅうがやき、えいか、『いごっそう』は江戸でも『いごっそう』や。他になんちゃあゆうもんかえ。」

「新しい乳母様。あたいの推理では、『いごっそう』はどうやら江戸でいう頑固ってことと思われまする。あたいはよくおっかあから『おまえは頑固者だ』って言われましたから。たぶん新しい乳母様もあたいのことを頑固だって言いたいのだと思います。」

「頑固?頑固かえ。江戸では『いごっそう』とは言わず頑固っちゅうがか?すると『いごっそう』は土佐の言葉か?」

「はい新しい乳母様。土佐の言葉です。」

「ふむ。まあ、そんなこと、あては最初から知っとったがやき。おまんを試したがよ。」

「あと江戸では言葉にガーとかチュウとかはあまり付けません。」

「生意気ゆうなや。そんなことも当然あてには最初からわかっちゅうき。」

「あとキーも付けませぬ。」

「えいかお鶴。おまんをここへ呼んだがはおまんから江戸の言葉を教えてもらうためやない。大事な仕事を言いつけるためや。」

「はい。新しい乳母様。」

「明日。おまんは姫のお供をして浅草は浅草寺とかいうお寺へ行きお参りばあしてくるがよ。浅草寺を知っちゅうかえ?」

「もちのろんでございます!あの辺りはあたいの生まれ育ったところ。産湯をつかったのが浅草寺の境内なら、遊び場はいつも雷門ってくらいです。おかげで物心つくまで、あたいは自分の両親と風神雷神様の見分けがつかなかったほどでございます。なんど雷様をおっかあと呼んでしまったことかしれません。」

「なるばあ。浅草にゃ詳しいようやな。おまん明日浅草寺まで姫のお供をせい。」

「お安い御用でございます。」

「早とちりするなや。行くのはおまんと姫様だけがやき。姫様はお忍びで行くがよ。衣装もいつものではいかん。武家の姫様と知れんようにせんといかんちや。よって姫様にゃあ町娘の衣装ば着せる。おまんと姫様とは仲良しの幼馴染っちゅう体裁なが。わかるが?」

「新しい乳母様。どうしてそんな面倒なことをするのです。いつものようにお駕籠に乗って、お付きのお侍さんをたくさん従えて、浅草までお参りに行ったらいいじゃないですか?」

「いかん。それではお忍びにならんがよ。よいか。姫はおまんと同じく先月十になった。そろそろ世間っちゅうもんを知ってえい年頃や。けんど姫はまだお屋敷からろくに出たことがない。これではいかんがよ。もっと世間のことばあ知らんと将来どんな苦労をするかわからん。今のうちに知らにゃあならんことを知っとかにゃあいかんがよ。そこでまず、あてが考えたば、姫様はおまん一人を従えて江戸の町へ出てみるっちゅうことがやき。きっと見るもの聞くもの初めてのことばかりがよ。そりゃあもうえい勉強になる。おまんと二人、町娘のなりをしてその雷門っちゅうところから仲見世ゆうたかな、有名な長い参道があるがやき、そこを歩き浅草様にお参りばあしてまた参道を歩いて帰ってくるがよ。えいか?聞くところによると、浅草寺っちゅうとこはいっつも人がこじゃんと賑わっちゅうそうや。だとすると姫様もこじゃんと勉強できるっちゅうもんや。どうなが?」

「浅草寺なら『こじゃんと』と勉強できること請け合いです。浅草ってのはそういうところです。それこそ大『こじゃんと』でございます。ところで新しい乳母様、その『こじゃんと』ってなんです?』

「『こじゃんと』も江戸の言葉ではないがかえ?」

「はい土佐の言葉と思われまする。」

「『たくさん』っちゅう意味やき。おまん、知らぬ思うてあてを騙しちゅうやないが?『こじゃんと』が江戸で通用せんばあ、あてにはどうも信じられん。江戸では『こじゃんと』とは言わんちや?」

「こじゃんと聞いたことがございませぬ。」


 翌日。

「お鶴。本日はこれを持って行くがよい。」

「はい新しい乳母様。はっ!こ、これは?」

「お金がよ。必要となろう。これが今日のお忍びの軍資金やき。大事に使うがよ。姫様がお腹空いたと言えばこれで何か買うんやぞ。その時はおまんもこれでご相伴にあずかってかまんがよ。おいお鶴。聞いとるが?何を浮かれちゅう?」

「はい新しい乳母様。よおく聞いておりまする。こんなにたくさんのお金をあたい持ったことがありません。それを姫様(しめさま)と二人自由に使っていいだなんて、浮かれるなと言われたって浮かれてしまいます。それに新しい乳母様、あたいにとっても今日は久しぶりのお出かけ。それも仲良しの姫様(しめさま)と二人で浅草寺の仲見世をお買い物でございます。どうしたって浮かれてしまいまする。」

「お鶴、しめさまとはなんじゃ?」

「何をおっしゃいます?姫様(しめさま)は姫様(しめさま)ではありませんか?」

「ひめさま。」

「しめさま。」

「おまんは人のことをなまっちゅうと馬鹿にするけんど、おまんもなまっちゅうやないが。姫様を姫様と言えんがか?姫様。ゆうてみい。」

「しめさま。」

「姫様。」

「しめさま。」

「もう良い。お鶴、浮かれちょる場合やないがよ。これからあてが言うことをよお聞きや。もしも、もしもよ、これから浅草で万が一にも姫様の身に何かあったとする、そん時おまんはどうするが?」

「どうするって。何がどうするのです?姫様に浅草でいったい何が起こるというのです?楽しくお買い物してお参りするだけではございませんか?」

「なるばあ。やはり全然わかっちょらんな。えいか。よう聞きや。おまんと違い姫様は高貴なお方がやき。そういうお方は常に身の危険ちゅうもんにさらされちょる。いつなんどき金目当ての暴漢に襲われるやもしれん。それに土佐藩は有力大名やき敵もこじゃんとおるがよ。姫様を誘拐しようっちゅう不届きもんもおる。そういう時にゃあおまんが身を挺して姫様をお守りせんといかんがよ。それだけやない、姫様にとっては今日が初めてのお忍びちゅうことでこじゃんと興奮ばあしておられる。そんなときにゃあ突然体調を崩されることもありがちや。そん時おまんはどうするが?迷子になってしまわれるやもしれんし、『もうお屋敷に戻る』と泣きだすやもしれん。そんなことばあ起こったら、おまんはどうするがよ?」

「ああそんなことですか。新しい乳母様はまだ江戸に来たばかりでお知りにならないのですね。なあんの問題もありませんよ。姫様のことはなんだっていつも新之助さんが解決してくれます。困ったときの新之助さんってもんです。新之助さんというのはですね。いつも姫様のお側にお仕えしている頼もしいお侍様で、なにかあるといつだってサッとやってきてササっとなんでも解決してくれるのです。」

「今日新之助はおらん。おまんが一人で姫様をお守りするがよ。」

「今日は新之助さんがいないのですか?まあ困った。そうすると今日のお供は松五郎さんになりますね。あの人は少しばかり抜けたところがあって新之助さんよりは劣りますけれど、まあいないよりはましです。姫様に何かあったらきっと松五郎さんが助けてくれます。」

「松五郎もおらん。」

「すると、今日のお供は甚右衛門さん?ああ、あの人はダメです。だってあの人は、」

「甚右衛門もおらん。お鶴、おまんは今日一日一人で姫様をお守りするがよ。」

「あたいが?あたいが一人で?それはいけません。そうだ。久兵衛おじいさんに頼んでみてはどうでしょう?あの方は年寄りではありますけれど姫様をいつもかわいがってくれます。」

「おまん一人や。」

「あたい一人。」

「そう、おまんひとり。けんど安心せい。おまんも一人では心細かろうて、ちゃあんと助っ人ば用意しておる。」

「なあんだ、新しい乳母様。嫌だわ、脅かして、意地悪なんだから。助っ人さんがいるならいるで最初から言ってくださいよ。」

「これよ。」

「どれ?」

「これがおまんの助っ人。短刀じゃ。今日はこれを懐に忍ばせておけ。いざという時には躊躇なくこれを抜き、敵を刺し、おまんの命ば懸けて姫様をお守りするがよ。」

「これで、これで、これであたいがどうするって?」

「敵を刺し殺し姫様をお守りするがよ。」

「あたいが?」

「おまんしかおらぬ。」

「あたいが姫様をお守りする。新しい乳母様。あたいはこんなもの使ったことはありませぬ。」

「今日から使うがよ。よいかお鶴。本日姫様の身の安全をお守りするがはおまんしかおらぬ。おまんがその身を投げうち姫様の無事を守り通すがよ。もしも姫様に万が一のことがあれば、」

「万が一のことがあれば?」

「おまんは死をもって償わねばならぬ。姫の着物の裾がほんの一分切れただけでも、おまんは死なねばならぬがよ。それが土佐の流儀やき。それだけやないで。姫にもしものことがあればよ、罰として死ぬのはおまん一人やない。おまんの親兄弟も残らず全部殿はみな手打ちになさるがよ。本日のお忍びはおまんにとって楽しいお買い物などやないで。えいか。おまんにとっちゃあ命を懸けた大仕事がやき。さあこの短刀を取り、死の覚悟をいたせい!この短刀は土佐打ち刃物や、岩をも切れるっちゅう代物やき、おまんの首などスッと切れてしまうがよ。大事に懐にしまっておけ。そうよ。よいか、抜くときは躊躇せず抜け。敵より早くこれを抜き、姫を守るがよ。ときにお鶴、『躊躇』は江戸の言葉かえ?」

「いいえ。新しい乳母様。土佐の言葉と思われます。」

「そうか。ならば『ざんじ』抜くがよい。お鶴。震えておるな。よいよい、覚悟が出てきた証拠や。おお姫様!ご用意が整いましたな!」

「婆や!なんだか恥ずかしいのお。このような町娘の着物は来たことがなきゆえ。」

「姫様。お似合いですぞ。あての知りゆう姫様はまだほんの小さな赤子やったゆえ、これほど立派に成長された姿を見るがは、うれしゅうてしかたないがよ。姫様は高貴なお方ゆえ町娘の衣装を着ても品の良さは隠せませぬのお。まあこれならばよほどの目利きでもなければ姫様の正体を見破ることはできなかろうて。のうお鶴。」

「…。」

「お鶴。どうじゃ?わらわの町娘姿、似合っておろう?お鶴?どうした?顔が青いぞ。具合でも悪いか?」

「姫様。お鶴はお忍びのお出かけが初めてですき、緊張しておるがです。のう、お鶴。」

「なんだお鶴。さっきは緊張などしていなかったではないか。まあわらわもお忍びは初めてじゃ。今日は二人で存分に楽しもうぞ。」

「さあさあお二人とも。のんびりしちょっては日が暮れてしまうがよ。さっそくお出かけなされ。姫様、今日は存分にお楽しみになるがよ。お鶴、くれぐれもよろしく頼みましたよ。」

「はあ。」

「お鶴!」

「はい!」

「よいか。先ほどの話、けっして忘れるでないがよ。」

「はい。新しい乳母様。このお鶴。一命を投げうちましても自分のため、家族のため、姫様のご無事必ずやお守りいたします。」

「まあお鶴ったら、大げさね。さあ行きましょう。」

「行ってらっしゃいまし。」

「行ってきます。」

「行ってまいります。」

「…。」

「…。」

「どうぞお気をつけて、行ってらっしゃいまし。」

「うむ。婆や、行ってきます。」

「はい。新しい乳母様行ってまいります。」

「…。」

「…。」

「二人とも、はよ行かんかえ。」

「行ってくるぞよ。」

「では行ってまいります。」

「…。」

「…。」

「行ってくるゆうて、姫様もお鶴も行かんがはどういうことちや?」

「婆や。駕籠が来ないでは出かけたくとも出かけようがないではないか。」

「姫、駕籠は来ませぬ。」

「駕籠がない?では馬で行くのかえ?」

「馬もありませぬ。」

「ではどうして浅草まで行くのかえ?」

「歩くがよ。」

「歩く!わらわは外を歩いたことなどないぞよ。」

「だからこそ歩くのです。これも勉強でございます。さあお鶴。姫様を連れて行きなさい。夕方までには帰ってくるがよ。頼んだがよ。」

「はい。新しい乳母様。さあ姫様参りましょう。」

「歩く。歩く。歩く。わらわに歩くことなどできるであろうか?」

「姫様、お屋敷の廊下を歩くのと同じことです。右足を前に出したら、次に左足をその前の土の上に出す。それだけのいたって簡単なことでございます。」

「こうか?お鶴。ちっとも前へ進まぬぞ。」」

「ああ違います。右足の次にまた右足を出そうとなさるから前へ進めないのです。試しに左足を前へ一歩出してごらんなさい。そうです。前へ進めそうな気がしてきたでしょう?次は右の足です。違います!左の次に左を出したらまた前へ進めないではありませんか。交互です。交互に足を出してください。左足の次は右足。そうです。次は左。前へ進んでいるじゃありませんか。右、左、右、左、上手上手。姫様。できていますよ。ちゃんと歩いております。右、左、右、左、その調子です。姫様、それが歩くということでございます。」

「お鶴。わらわは歩けておるのか?」

「はい姫様。しっかりと歩いておいでです。」

「さあ二人とも行ってらっしゃい。」

「婆や!行ってくるぞよ。わらわは歩いていってくるぞよ。右、左、右、うん。次は左だな。なんとも歩くとは簡単なことよ。右。左。右、右、あ、間違えた。」


「お鶴!」

「なんです姫様。」

「歩くというものは実に楽しいものよの。これほど楽しいものならもっと早く歩いておけばよかったぞよ。」

「それはよかったです、姫様。けれどあたいは歩くよりもお駕籠の方が楽しいと思います。そうだ。今度良かったら交代してみましょう。姫様が歩いて、代わりにあたいがお駕籠に乗りまする。」

「お鶴!」

「はい姫様。」

「お前は、歩くというものがこれほど楽しいと知っておったのか?知っていてわらわに教えなかったのかえ?」

「あたいは生まれてからずっと歩いてきたので歩くのが楽しいなんて思ったことは一度もありませぬ。」

「お鶴!」

「はい姫様。」

「お前はさっきからキョロキョロと辺りを見回して、まったくもって落ち着きがないではないか。それが正しい歩き方なのかえ?」

「姫様。鶴には姫を守るという大事な任務がござりまするゆえ辺りを見張っておりまする。姫様のようなご身分の高い方にとって江戸の町は危険がいっぱいでございます。ですから警戒を怠ってはいけないのでございます。できましたら姫様も楽しく歩いてばかりいないで少しはあたいと一緒に周囲を警戒してください。とにかく大勢人がいるのですから。あたい一人では手に余りまする。ご覧なさい!ダメです!見てはいけませぬ!目が合ったらことです。見ないように見るのです。あの辻に立っている虚無僧を見ないように見てください。あいつは実に怪しい。おそらく盗賊の類でございましょう。見てはいけません!しかしご安心ください。たとえあいつが襲ってきても、あたいが姫を守りますゆえどうぞご安心を。ええ、ええ、守りますとも。あたいが返り討ちにしてくれます。姫様!あそこの町人をご覧ください。見てはいけません!さりげなく見るのです。あいつも怪しいったらないわ。あれは絶対に詐欺師ですよ。あの目、あたいたちが持っている莫大なお小遣いをだまし取ろうと企んでいる目です。ああ嫌だ。どこを向いても敵ばかり。姫様、あれ?姫様、どうして立ち止まっておられるのです?」

「お鶴。実に不思議じゃ。つい今しがたまで歩くのがとても楽しかったのに、急に足が重くなったのじゃ。」

「痛いのですか?」

「痛くはない。」

「重いだけ?」

「そう、重いのじゃ。」

「姫様。それはおそらく疲れというものでございます。」

「疲れ?これが疲れというものか?どうしたらなくなる?」

「そうですねえ。困りましたね。そうだ。こうしてみたらどうでしょう?楽しいことをお考えになってみては?楽しいことを考えたら疲れもきっと消えてくれまする。あたいもお屋敷で嫌なことがあるといつも楽しいことを考えてみるのです。そうすると少しだけ嫌なことを忘れることができますから。」

「ふむ。楽しいことか。お鶴、わらわにも何か楽しいことを教えておくれ。」

「楽しいことですねえ。難しいなあ。あまり楽しいことってのもそんなにはないですからねえ。そうだ。これから行く浅草なんてところはとても楽しいところでございますよ。雷門から本殿まで続く仲見世には何百何千と店が並んでいて、姫様が見たことも食べたこともないようなおいしいものをたくさん売っておりまする。」

「わらわが食べたことのないものなどこの世にあるのかえ?」

「それはもう『こじゃんと』ございます。」

「こじゃんと?ふふ。お鶴も土佐の言葉を使うようになったか。新しい婆やに影響されたな。」

「ええもう浅草寺の仲見世はたいへんなこじゃんとです。」

「それは楽しみじゃ。お鶴!足が軽くなってきたぞ。」

「さあ先を急ぎましょう。浅草はまだ先でございます。姫様!あいつ、あの浪人をご覧なさい。風車を売っている浪人。見てはいけませぬ!あの目、いやらしい目をしておりまする。伊予の刺客やもしれませぬぞ。」


「ここが雷門かえ?」

「そうです。立派なものでしょう?」

「こじゃんと人がおるのお。」

「ええ、浅草は何もかもがこじゃんとです。」

「さあ!お鶴!行こうぞよ。おいしいものをこじゃんと食べるぞ!」

「お待ちください姫様。」

「今度はなんじゃお鶴?お前はさっきから通りがかりの者を指さしてはあいつが怪しい、あれはどうも様子がおかしいなどと警戒しておったが、結局我らを襲ってくる者など一人もいなかったではないか。もういいかげん安心いたすがよい。江戸にはわれらへ危害を加える者などいやしないぞよ。」

「そうではありません。油断大敵であります。よいですか姫様。ここからがいよいよ本番です。くれぐれも江戸を見くびってはいけません。もしも姫様に万が一のことがあれば、あたいにだって万が一のことが起こるし、あたいのおとっつあんとおっかさんにも万が一のことが起こってしまうのです。それほど江戸の町と新しい乳母様は恐ろしいのでございますよ。よいですか。ここから先は人と人がぴったりくっ付いておりますゆえ、これまで以上に誰にも姫様が姫様とわからないようにしなければいけません。姫様とばれてしまったらそれはもうお忍びではなくなってしまいますから。そうなるとそれはそれはどんな恐ろしいことが待っているやもしれませぬ。だから姫様はもっと姫様でないようにしなければいけません。」

「お鶴。何を言っておる?わらわにこれ以上どうしろと言うのじゃ?」

「それがいけませぬ。先ほどから姫様は姫様のような話し方をしておられまするが、ここから先はあたいと同じ町人の喋り方でお願いします。話し方で姫様とわからぬようしていただきます。」

「わかったぞよ。ではどうすればよい?」

「はい。姫様はまずご自分のことを『わらわ』とは言ってはいけませぬ。」

「ではなんと呼べばよい?」

「はい。姫様もご自分のことを呼びたくなったらあたいと同じ、『あたい』と言ってください。」

「承知した。これからはわらわはわらわではなくあたいじゃ。」

「ありがとうございます。それと、これはとても言いにくいのですけれど、ここから先はあたいはもう姫様を姫様と呼ぶことはできませぬ。あたいが姫様のことを姫様と呼んでしまったら元の木阿。せっかく姫様がご自分のことをあたいと言っても、あたいが姫様を姫様と呼んでしまっては誰が聞いても姫様とわかってしまいますから。」

「お鶴。お前はいったい何を言いたいのだ?」

「はい姫様、あたいは姫様を別のお名前で呼ばねばなりませぬ。」

「そうかえ?ではお鶴、お前はわらわを何と呼ぶのだ?」

「わらわはいけませぬ。」

「あたい。」

「そうです。ご覧なさい姫様!見てはいけませぬ!あのぼてふりはどうもこちらの様子をうかがっているようでございますよ。も少し小さな声で話しましょう。」

「見てと言ったり見るなと言ったり、お鶴、お前はどうかしておるぞ。わかった。わらわもわらわのことをあたいと言う。あたい、これでよいか?」

「けっこうでございます。さてこれが重要なのですけれども、あたいも姫様のことを姫様とは呼びませぬ。」

「それはもうさっき聞いた。お前はいったいわらわ、いやあたいを何と呼ぶのか?」

「大変失礼とは存じます。それにこんなことを新しい乳母様に知られたらそれこそ打ち首にされるかもしれません。けれども、あたいは絶対に姫様をお守りしなければいけません。そのためにはこの仲見世で姫様が姫様だとわかっては絶対にいけないのです。」

「それもさっき聞いた。前置きは良い。だからお鶴、お前はあたいを何と呼ぶのか?」

「はい。姫様、姫様のお名前は千歳(ちとせ)様であらせられますから、そのお名前から一字をいただき、恐れながらかしこみかしこみ申し上げますると、『ちいちゃん』と呼ばせていただければ、いろいろ面倒に巻き込まれずに済むかと思いまする。」

「お前はわらわをちいちゃんと呼ぶのか?」

「はい。わらわではなくあたいでお願いします。しかたなくでございます。」

「わらわ、いや、あたいはこれまで誰にもちいちゃんなどと呼ばれたことはないぞよ。」

「はい、わかっております。わかっておりますけれども、ここは姫様の身の安全のためでございます。なにしろあたいたちはここでは幼馴染ということですので、本当に心苦しいのですけれどどうぞあたいが姫様のことを『ちいちゃん』と呼ぶことをお許しくださいまし。それが姫様のためでございます。」

「そうか、わかった。ならばかまわん。お前がそこまで言うのなら、わらわ、いやあたいは許すぞ。存分に『ちいちゃん』と呼ぶがよい。」

「良いのですか?ありがとうございます。ただ、もうひとつだけお願いがございます。」

「まだあるのか。あたいは早く仲見世へ入りたいのだ。さっさと申せ。」

「はい。できれば、できればでございますけれど、あたいのこともお前と呼ぶのはよしていただけると助かります。そうした方がもっと普通の友達のように見えまする。あたいたち女の友達同士が片方をお前と呼ぶのはどうにも変ですから。」

「そうか。ではなんと呼ぶ?」

「できれば『お鶴ちゃん』と呼んでください。」

「わかったぞよ。お鶴ちゃんと呼べばよいのだな。」

「はい。ではどうぞ。」

「どうぞとはなんだ?」

「練習でございます。あたいのことをお鶴ちゃんと呼んでみてください。」

「ふむ。では呼ぶぞ。よいか。」

「はい。」

「お、お鶴ちゃん。」

「はい。ではこちらも失礼して、あたいも姫様を呼ばせていただきます。ち、ち、ちいちゃん。」

「お鶴ちゃん。」

「ちいちゃん。」

「お鶴ちゃん。」

「ちいちゃん。」

「なんだか楽しくなってきたのお。」

「少し恥ずかしい気もしますねえ。ちいちゃん。」

「そうだの。お鶴ちゃん。こうやって呼び合うとわらわ、いや、あたいたちは本当の朋輩のようじゃの。」

「朋輩、土佐の言葉ですね。そうですあたいたちは朋輩です。本当の朋輩です。」

「さあ行こう、お鶴ちゃん。」

「行きましょう。ちいちゃん。」


 こうして二人の少女は笑いながら人でごった返す浅草寺は仲見世の中へと飛び込んでいきました。お姫様にとりましたら初めての自由。ずらりと立ち並ぶ仲見世の商店はどれをとっても初めて見るものばかり。もう高まる好奇心を抑えられません。仲見世は宝石箱をひっくり返したように何もかもが輝いて見えます。一方のお鶴にとっては馴染みの光景ではありますけれども、今日は今までとはまったく違います。最初はお姫様をお守りしなければと緊張しておりましたが、なにしろ懐には二人では使えきれないほどのお小遣いを婆やさんからもらっているものですから「好きなものを買える」と思うとこちらも興奮を抑えきれなくなってきます。貧乏のために今まで買えなかったもの、欲しいけれどぐっと我慢していたものを今日は好きなだけ買うことができるのです。お姫様に教えてあげるという名目で、お鶴は次から次へと店を渡り歩きどんどん買っていきます。やがてお姫様をお守りするという役目をすっかり忘れてしまいました。

「お鶴ちゃんこれはなあに?」

「ああちいちゃんそんなことも知らないのね。これはね、雷おこしって言うのよ。一つ食べてみましょう。どう?おいしいでしょう?」

「おいしい!まあ、あれもとてもかわいいわ。あっちへ行ってみましょう!とってもよい匂いがする。お鶴ちゃん、これはなあに?」

「ほんっとにちいちゃんは何も知らないのね。これはね。人形焼きっていうの。一つ食べてみましょう。」

「まあなんておいしいのでしょう!見てお鶴ちゃん!あれはあたいにもわかるわ。魚焼きでしょう。人形の形をしたのが人形焼きだから、あれは絶対魚焼きだわ。」

「もう。何を言っているのかしら。変な子ね。ちいは。あれは鯛焼きよ。」

「うそよ。あんな小さいのが鯛なわけがないわ。あたいは前に土佐で鯛を見たから知っているもの。鯛はもっと大きいのよ。あれじゃあいいとこフナ焼きよ。」

「いやねえ。ちいちゃんたら。あたいは本当の鯛は見たことがないけれど、江戸の鯛はきっとあのくらいの大きさなのよ。小さくても鯛よ。だいたいフナじゃちっともめでたくないじゃない。さああれもひとつ食べてみましょう。」

 こうしてあっちへ寄り、こっちへ寄りしながら二人は仲見世通りを進んでいきます。すると石畳の道の先に人だかりができているのを見つけました。よく見ると参道の脇に一人の行商人が座り何かを売っています。

「あら。あれは何かしら?」

「みんな我先にと買っているわ。どうも何かおいしそうなものを売っているようよ。行ってみましょう。」

 二人は人込みをかき分けようやく行商人の前までたどり着きました。

「あら嫌だ。」

 声を上げたのはお鶴です。

「嫌だって、これはなんなの?」

「鯖(サバ)寿司よ。」

 この行商の男は自家製のしめ鯖を酢飯に乗せ木型で押した寿司を、お参りに来た人がすぐ食べられるようにと一貫ずつに切って売っておりました。

「お鶴ちゃん、お寿司なら食べてみましょうよ。」

 ここに来てようやくお鶴は自分の任務、お姫様をお守りする仕事を思い出します。

「これは、よしたほうがいいと思います。」

「どうして?」

「しめ鯖だから。」

「あたいがなんだっていうの?」

「姫様(しめさま)の話ではありません。」

「あたいだから、あたいでないというのはいったいどういうこと?お鶴ちゃん、あんた何を言っているのかわからないわよ。」

「もう!しめ鯖は姫様(しめさま)が食べるようなものではないのです!」

「あたりまえじゃないの!あたいがあたいを食べるわけないでしょ!」

「姫様(しめさま)のことを言ってるんじゃないんです!」

「では何のことを言っておる!」

「しめ鯖です!」

「だからあたいがなんだというのよ!」

 お鶴は江戸っ子なのでどうしても『ひ』と『し』を区別して発音できません。そのため姫様としめ鯖を同じ『しめさま』と言ってしまいます。

「いいですか姫様(しめさま)。この寿司はしめ鯖という魚でできています。鯖という魚を酢で〆たもので、鯖は生き腐れというほど傷みやすい魚だから姫様(しめさま)はしめ鯖を食べちゃいけないんです。」

「まあ!これはあたいと同じ名の食べ物なの!そうなるとますます食べてみたくなるわ。お鶴ちゃん。一つ買ってちょうだい。」

「だから姫様(しめさま)、じゃない、ちいちゃん、あたいの話を聞いてないのですか?これはだめです。もしも、ちいちゃんにもしものことでもあれば、あたいの首が飛ぶのです。これだけはどうにもよくありません。」

「あたいがこれを食べてもお前の首が飛ぶようなことはないぞよ。約束する。だから早く買ってちょうだい。売り切れてしまう。」

「お嬢ちゃんたち、ここのしめ鯖はすごくおいしいよ。」とすぐ横にいたおばさん。

「ええい。お鶴が買わぬのならあたいが、おじさん、一つちょ、」

「姫様(しめさま)ダメです!」

「おうお嬢ちゃん!俺のしめ鯖がダメとはなんだ?俺のはこれまで一度だって当たったことはねえぜ。」

「違うんですおじさん、あたいが言っているのはしめ鯖のことじゃないんです。」

「そうだぜ。ここの親父はしめ鯖づくりの名人って呼ばれる人だ。この季節にだけこうやって浦安から来てくれるのさ。滅多に手に入らない逸品だぜ。お嬢ちゃんたち買わないなら後ろへ行ってくんな。」と後ろにいたおじさんが二人を急かします。

「さあお鶴。あたいは買うぞよ。」

「姫様(しめさま)にしめ鯖はどうにもいけないような気がいたします。鯖はよく当たる魚。あたいのおっかあだってあたいには食わせてくれなかった。それを姫様(しめさま)になんて。しめ鯖で姫様(しめさま)に万が一のことでもあれば、あたいは生きてはいけませぬ。」

「お前は私の心配をしているのか?それともしめ鯖の心配をしているのか?ええいかまわぬ。おじさん!ひとつおくれ!」

「あいよ!」

 姫様、お鶴が止めるのも聞かず鯖寿司を一貫買うとパクっと口に入れてしまいました。

「ああなんと、これは実においしい。おじさん、もうひとつ!」

「あああ。」

 もうお鶴は声も出ません。こうなったら最後の手段、鯖寿司売りのおじさんを殺して自分も死のうと懐の短刀を握りしめました。けれどももちろん十歳の乙女に短刀で人を刺すことなどできやしません。哀れお鶴は目の前でパクパクとおいしそうに鯖寿司を食べる姫様の姿をただ呆然と眺めるばかり。

「姫様、姫様、しめ鯖は大丈夫ですか?」

「安心せい。あたいもしめ鯖も問題はない。」

「ああどうしよう。もし姫様が鯖に当たったら、あたしだけ無事に帰るわけにはいかない。あたいも一緒に当たらないと。おじさん!あたいにも一貫ちょうだい。いや、三貫ちょうだい!」

 こうして二人はおいしく鯖寿司を食べ、浅草寺へお参りを澄ますと無事にお屋敷へ戻りました。


「おお、お鶴。きいや。ここへ座りい。このほどのお忍び、姫様はこじゃんとお喜びやったがよ。ご苦労であった。よい仕事をしたな。褒めてつかわすがよ。」

「新しい乳母様、ありがとうございまする。」

「けんど気に入らんこともあるがよ。」

「申し訳ございません。」

「まだ何も言っちょらん。」

「鯖寿司のことでございましょう。いかに酢で〆ているとはいえ、あたいという者が付いていながら姫様に鯖のような危険な魚を食べさせてしまったこと、お鶴一生の不覚でございます。ただ不幸中の幸い、こうして姫様もあたいも無事でございます。どうかどうかあたいと親の首だけははねないくださいまし、ぐうたらな兄の首はまあ一つおはねになってもかまいませんけれど、どうかあたいたちの首だけはご容赦願いまする。」

「何を申しておる?鯖のなにが危険じゃ?」

「鯖はよく当たりますゆえ。」

「鯖が当たる!おまんはものを知らなすぎるがよ。もっと勉強せんといかん。よいか。鯖は刺身で食す。土佐の海で獲れた鯖はそれはそれは美味なるものやったがよ。江戸でも鯖を食せると姫から聞き、あても喜んでおったがよ。まあ酢で〆るがはいただけんが、万が一っちゅうこともある。まっこと姫様にはしめ鯖がよいであろう。姫様には相応しい食べ物や。けんど刺身で食せる鯖を酢で〆るとはやはり呆れたことよ。江戸の者は魚の食べ方ひとつ知らんとみゆる。」

「はあ?ではしめ鯖が大丈夫となると他に何か問題でもありましたか?」

「ふむ。人形焼きよ。姫は人形を食べたと喜んでおられた。まっこと人形を食べるとは乱暴なことではないかえ。」

「もしや新しい乳母様は人形焼きをご存じない?」

「馬鹿をゆうな。人形焼きぐらいもちろん知っちゅうがよ。」

「はい。もちろん新しい乳母様もご存じの人形焼きでございます。姫様はあのお菓子をおいしいおいしいと言ってお召し上がりになられました。」

「お菓子か。お菓子であったか。もちろん知っておったがよ。けんどそれだけやないがよ。姫は小さなフナのような鯛を食べたと言っておられたけんど、江戸では大きな鯛は手に入らんが?おめでたい席があっても江戸ではまさかフナぐらいの小さな鯛でがまんせんといかんのかえ?」

「新しい乳母様は何も知らないのですねえ。ええ、確かに江戸では土佐ほど大きな鯛は手に入らないかと思います。土佐のことはあたいも知りませんけれど、江戸より物事がなんでもこじゃんと大きいようなので鯛もきっと大きいのでしょう。その代わり、江戸では小さな鯛をお腹に甘いあんこを詰めて焼いて食べます。これはこれでおいしいのですよ。姫様も喜んでおられました。」

「鯛にあんこかえ!」

「はい。新しい乳母様にも今度おひとつお土産に買ってまいります。」

「いらんいらん。あては土佐の女やき、甘い鯛より鰹がえい。」

「鰹ならあたいも好きです。」

「そうかえ。ならば次は鰹焼きを土産にこうてきいや。けんどあての鰹にゃあ、あんこはいらん。」

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