大宅太郎光国《おおやたろうみつくに》
枕
日本は知られざる姫の国です。歴史を遡りますと、優れた功績を残し、人々をあっと言わせるほどの大活躍をしたお姫様たちが、私たちの国には大変大勢おりました。彼女たちは、名だたる武将など足元にも及ばないほど勇猛果敢で、その上豊かな才能と本当の意味の美貌を兼ね備えておりました。ところがその事実は、女性だからというただそれだけの理由で歴史からはほぼ完全に無視されております。そのため彼女たちの存在を知る人は今でもほとんどおりません。非常に残念なことです。まことに男尊女卑ほど間抜けな思想は他にないといえましょう。
平安時代に生きた滝夜叉姫(たきやしゃひめ)もまたそんな傑出したお姫様の一人でした。その昔、関東平野にあった下総国猿島郡、今の千葉県の最北端と茨城県の西の末端との県境、そこに広がる広大な大平原の真ん中の、とりわけ何もない寂しいススキ野に、滝夜叉姫は生まれ、育ち、若くして亡くなるまで暮らしました。姫の父親は有名な平将門公です。朝廷へ謀反を働いた罪で討ち取られ、京の河原に首を晒されました。姫はそんな父の無念を晴らすため、わざわざ筑波の山へ出掛けて行き蝦蟇仙人(がませんにん)から妖術を習い、その妖術でもって墓場から甦らせた死者の骸骨を手下にして、地元で父が本拠を置いていた御屋敷「相馬の古内裏」で立ち上がります。が、これまた朝廷により派遣された美貌の若武者、大宅太郎光国(おおやたろうみつくに)により討ち取られ、儚くも短い生涯を終えることになります。
この場面、すなわち滝夜叉姫と骸骨、それに大宅太郎光国がお屋敷で壮絶な戦いを演ずる場面は、江戸時代になって絵師、歌川国芳が浮世絵『相馬の古内裏』で描き、大変な人気を博しました。
さて、これからお話しするこの物語の主人公の一人はその滝夜叉姫です。けれども、出てまいりますのは平安時代に生きた「人間」の方の滝夜叉姫ではございません。この物語に登場いたしますのは江戸時代に地獄から甦ってきた「亡霊」の方の滝夜叉姫です。それは江戸天保年間の頃、関東平野の真ん中で手下の巨大な骸骨と共に甦り、再び父の無念を晴らすべく地獄の底から這い上がってきた可憐な乙女の「亡霊」の方の滝夜叉姫です。
平安時代に初代の大宅太郎光国が苦労の末にようやく討ち取った滝夜叉姫が、どうしてまた江戸時代になって骸骨と共に甦ってしまったのかと申しますと、それは先ほどご紹介いたしました歌川国芳の描いた有名な浮世絵『相馬の古内裏』に関わりがあります。この絵には、人々の魂を圧倒する鬼気迫る迫力があり、また絵に描かれた滝夜叉姫があまりにも美しく、また骸骨があまりにもおどろおどろしかったために、江戸の人たちはこの絵を大いに賞賛し、熱狂し、また手元に所有することを狂わんばかりに熱望したがため、滝夜叉姫は骸骨と共に地獄からこの世へと再登場することにあいなりました。江戸庶民の莫大なる熱狂と称賛の「祈り」が、渦を巻いて地獄へと降りてきて、地獄の炎で数百年に渡り焼かれていた滝夜叉姫と骸骨の霊を救い出し、再び地上へと導いてしまったのです。
死者が甦るなんて「そんなことあるわけがない」と科学全盛の現代ではお怒りになる方もおるやと思います。いや、当然おりましょう。ところが、死者は甦ります。だからこそ世の中は不思議なのです。どなたも祈りの力をみくびってはいけません。祈りには人智を越えた力があります。これもまた、残念なことにあまり知る人のない真実であります。
本編
「農夫。これ、そこの農夫。お前や。どこぞを向いておる?わてが呼んでおるのや。ちとお前に尋ねたいことがあるんや。こっちへこんかい。これ農夫。」
「せがれよ。あれはなんだべ?妙な格好をした奴が、おらたちの方を見てノーフ、ノーフって叫んどるけどよ。あんなふざけた奴、このあたりじゃあ見たことねえな。」
「おっとー。おらは知っとるだよ。」
「なに?親父のおらが知らねえで、ガキのおめえが何を知っとると言うだ?」
「だっておら、あいつのことを国芳どんの錦絵で見たもの。あいつは『相馬の古内裏』に出てくるお侍だあ。あれとおんなじ格好をしとるだよ。おら、あの錦絵を何度も見たからわかるだ。間違えねえだよ。あいつは『相馬の古内裏』のお侍だ。」
「そうかあ?おらもまああの絵は随分と見たがよ。お侍はよく見てなかったな。姫と骸骨ばっか見てただ。あの二人に比べると、侍の方はまんずつまんねえ奴らだでな。まあこうしてよく見ると、あの野郎、確かにお侍の格好をしてるだな。あーあ、なんてえこった。それもこれも滝夜叉姫が地獄から出てきなすったせいだべ。おかげでとうとうあんなお調子者まで現れちまっただべよ。だども、せがれよ。おらもずいぶん国芳どんの絵は見たもんだがよ、おらの目にはあいつがあの錦絵に出てくる侍とはどうしたって見えねえな。まんず、あそこの野郎はまだ若過ぎるだで。それに錦絵の侍はもっと強いように見えるだど。あいつはやけに痩せて弱そうだ。やっぱり違うようだぞ。あいつはただの間抜け男だ。」
「だどもおっとー。あいつの顔をよく見てみろよ。とんでもねえ色男だべ。それにあの着物だ。あんな派手で立派な着物をおら見たことがねえだよ。あれはお侍の中でも鬼や悪党を退治する若武者ってもんが着るもんだ。おら錦絵が大好きだからわかるだ。」
「そうかあ?ああ、ようく見てみっと、そうかもしれねえな。おらもおめえに言われてだんだんあの野郎が若武者に見えてきたぞ。ああ、確かに確かに、あそこにいるのが着とるのは若武者の着物だ。それにおらもあんな色男は見たことがねえよ。だどもせがれよ。よく聞け。あいつはやっぱり若武者じゃねえ。いいか、侍っつうもんはな、顔で戦うもんじゃねえんだ。いくら顔がよくったってな。顔じゃあバケモンは倒せねえだよ。」
「だどもおっとー、あいつは立派な太刀を持ってるだよ。」
「ああそうだ。それがどした?いいか、せがれよ、若武者ってもんはな、でっけえ太刀持って、格好だけ若武者になってみてもダメだ。バケモンを倒すにゃあそれだけじゃ全然足りねえんだ。いいか、バケモン倒すにゃあな、まんず腕と度胸がねえといけねえ。こんな遠くから見たって、あいつはその両方とも持ってねえだよ。おらにはわかる。いいだか。あの野郎があんな間抜けな格好して、呑気な顔してあそこにつっ立ってるとこを見るとだ、どうやらあの野郎、みんなが姫にぶっ殺されとることをまだ知らねえんだな。そんでもって遊び半分であんな錦絵の格好をして、この相馬の村まで遊びにきただよ。馬鹿な野郎よ。地獄から甦った滝夜叉姫と、これまた地獄から甦った骸骨と、てめえが一緒になってあの錦絵の芝居でもやらかそうって魂胆だ。てめえがぶっ殺されるってことを知らねえんだ。とんでもねえふざけた野郎よ。一つ説教してやらねえとな。せがれ。ついて来い。」
「おお農夫。ようやく来はったな。わてをあまり待たせるやないで。ゆうてもわて、これから大事な仕事をせないかんでな。さて農夫、お前に一つ尋ねたいことがあるんや。」
「まんずお侍の格好をした人よ、おらたちはノーフじゃねえ。馬鹿にしねえでくんろ。」
「お前たちが農夫やないんなら、何や?」
「爺さんの代からここで畑を耕しとる百姓だべ。」
「アホ。それを農夫というんや。まあええ、わては忙しいんや。おい農夫。ここは下総の国は猿島郡、相馬の村でしかと相違ないな?」
「ああ間違えねえ。ここは下総の国猿島郡相馬の村の入り口だな。」
「ふむ。ほな相馬の古内裏はこの先やな?」
「せがれよ、おらの心配した通りだっぺよ。このお侍の格好をした人は滝夜叉姫に殺されに行く気だ。」
「誰が殺されるんや、アホ。わてこそ滝夜叉姫とその下僕、骸骨を成敗する者。世にも気高き武将の正統な後継者、八世大宅太郎光国、その人やぞ。」
「おっとー!おらの言ったとおりだっぺよ!こいつは錦絵から出てきたんだ!滝夜叉と骸骨を倒しにあの世から来てくれたんだっぺよ!」
「せがれよ。いいかよく聞くだよ。おめえの鼻の穴はお月様みてえにでっけえが、目は針の穴みてえに小せえ。だからよく見えねえんだ。こいつをよく見ろ。錦絵とはだいぶ違うぞ。」
「そうだっぺ?確かにこいつはだいぶ弱く見えるだども、背格好は錦絵の若武者そっくりだべ。それに顔も錦絵から出てきたみてえに色男だっぺ。」
「せがれよ。それにおめえは人の話をよく聞かねえ癖があるだよ。いけねえ癖だ。このお侍の格好をした人はな、さっきてめえの名前の前に何を付けてた?」
「なんだ?」
「八世って言っただよ。つまり八代目よ、初代じゃねえ。言ってみりゃあ本物じゃねえってことだべ。」
「農夫よ。わては正統な後継者や。そやさかい滝夜叉姫とその下僕、骸骨が甦ったと陳情をお受けになられた帝様が、こうしてこのわてをお遣わしになったんや。何しろわては正統な後継者やさかいな。ここに初代から伝わる由緒正しき太刀も持っとる。正統な後継者の証や。おかげで、京の都からこんな野蛮な土地までやって来る羽目になったっちゅうわけや。それをなんや、さっきから黙って聞いとったら、いい気になってゴチャゴチャと言いたい放題言いよってからに。滝夜叉姫の首を取る前に、お前たちの首をこの刀で取ってやってもええんやで。」
「気を悪くしただらなら謝るだよ。お侍の格好をした人よ。おめえ様は確かに錦絵に描かれた何とかっていう侍の本当の子孫かも知れねえ。だどもよ、どこからどうみてもだ。おめえ様自体は本当のお侍じゃねえだね。」
「どうしてわかる?」
「そりゃあわかるっぺよ。おめえさんの腕ときたら小枝みてえに細くて、今にも折れちまいそうだ。太刀なんぞ振ったことねえんだろ?どうだ?」
「そうや。確かにわては侍やおまへん。尊い貴族や。初代の大宅太郎光国様の頃はまだ荒々しい武士やったけどな、帝様は滝夜叉姫を退治したご褒美に初代を貴族にしてくれはったんや。まあ下級ではおましたが文句はあらへん。貴族は貴族や。おかげで八代くだったわてはもう立派な貴族になった。普段はわて、お花のお師匠さんなんやで。弟子も十人はおる。少なく見積もってや。もっとおるかもわからん。そやさかい刀なんて持ったこともあらへん。ハサミを握るだけで大忙しや。」
「せがれよ、おらの言ったとおりだったべ?こいつは侍じゃねえだ。これからはおめえも心を入れ替えて親父の言うことをよく聞くん、」
「おっとー。お花のお師匠ってなんだ?」
「おめえは本当に何も知らねえな。花の師匠と言ったらよ、あれよ、あれしかねえ。」
「なんだ?」
「花によ、教える人だよ。」
「花に何を教えるだ?」
「そんなもん、決まっとるだよ。花が知りてえことと言ったら、ほれ、あれだ、あれしかねえ。咲き方とか、咲く頃合いとか、どんな色で咲いたらいいとか、そんなもんだよ。馬鹿が。」
「だども花はそんなこと教わらんでも知っとるべ。」
「こいつらは一体何を言っとるんや?華道も知らぬ田舎者やないか。ああ嫌や嫌や。はよ京へ帰りたい。」
「おっとー、その花の先生がどうやって滝夜叉と骸骨をぶっ倒すだ?」
「ノーフの息子、よう聞きや。わてはな、滝夜叉姫とその下僕、骸骨だったな、何だってええ、そいつらの首をこの太刀で一刀両断に斬ってしまうんや。ついでにお前の首も斬ったろか?」
「お侍の格好をした花の先生よ、おめえ様は一体全体滝夜叉姫と骸骨をなんと聞いてここまでやって来なすっただ?」
「そんなもん決まっとるやないか。錦絵の通りや。女と巨大な骸骨の妖怪が地獄から這い上がってきて、村人を困らせとるゆう話や。そやさかい、わては初代大宅太郎光国とおんなじことをやりにきたのや。正統な子孫として、帝様の命によりな。」
「滝夜叉姫と骸骨はえらく強えとは聞かなかったか?」
「強いんか?強い?ああ。そんなもん。もちろん知っとるがな。」
「初めて聞いたみてえな顔しとるだよ。だとすっと、おめえ様はまだ滝夜叉姫と骸骨がもう何十人てえ野郎どもをぶっ殺しとるって話は聞いてねえだね?」
「な、なに?人が死んどるんか?」
「やっぱりだっぺ。おめえ遊び半分でやってきただな。ええか。あのバケモン連中はな、錦絵ごっこするために地獄の底からこんなところまでわざわざ這い上がってきたんじゃねえだよ。親父の恨みを晴らすため、日本中の野郎どもをぶっ殺しにやってきただよ。」
「おっとー、何十人じゃ足りねえだよ。今数えてみたけどよ。こないだ銚子から来たヤクザもんどももぶっ殺されたから、死んだのはとうとう百三人になっただ。」
「百三人?百三人がなんやて?」
「姫と骸骨にぶっ殺された人間の数だ。」
「ほんまか?」
「せがれ、お前は黙っとれ。お侍の格好をしたお花の先生よ。おめえの言うほんまっちゅうのが本当ってことなら、ああ、ほんまだ。」
「すると実際に人が死んどるゆうんは真実なんやな?」
「真実っちゅうのが本当ってことなら、ああ真実だ。嘘はつかねえ。もうたくさんの野郎どもが姫と骸骨に殺されて死んどる。その証拠に、これからおめえ、この村を抜けて古内裏まで行ってみろ、道中、道の脇に数えきれねえくれえ、たくさんの死んだ奴が埋まってっから。おや?おめえ顔が青いぞ。」
「農夫よ。一つ聞くが、ゆうても相手は錦絵の亡霊、刀をちょちょっと形だけ振れば、紙切れが破れるように相手は消えてまう。という話を聞いたことはないか?大宅太郎光国が現れたら、亡霊はサッと消えてまうさかい、これは儀式のようなもんや、とは聞いておらんか?」
「おめえ、騙されただよ。そんな話はどこを探しても聞いたこたあねえ。まんずおらの耳はそんなこと一度も聞いたこたあねえし、それよっか実際にしかとこの目が見たのはよ、滝夜叉と骸骨にぶっ殺された男どもの死体だ。ええか、お侍の格好をしたお花の先生よ、滝夜叉と骸骨にぶっ殺されたのはな、みんな本物の男だっただよ。おめえ様とは似ても似つかねえくれえに体もでけえ、腕にも覚えのある猛者ばかりだ。姫と骸骨をぶっ倒して名を上げようってここまでやってきたはいいが、みんな網にかかったイワシみてえにいともやすやすとぶっ殺されちまっただ。悪いことは言わねえ。とてもじゃねえがおめえのようなやさ男にやられるほどかわいい姫様じゃねえんだ。帰った方がいい。このまま引っ返して京の都へ戻ったほうがええだ。」
「アホ!アホか。関東の田舎侍とこのわてを一緒にしくさってからに、不愉快な。女のバケモンの首くらい斬れんで、京の男がつとまるかい!ええか、この腰の太刀はな、そんじょそこらの刀と思うたら大間違いやで。あの初代大宅太郎光国が滝夜叉姫を倒し、地獄へ突き落とした由緒正しい刀や。これさえあれば、怖いものなどなんもあらへん。」
「おっとー。」
「なんだせがれ。袖を引っ張るな。おっとーは今この人と話をしとるだよ。」
「だどもおっとー。こいつ足が。」
「ああわかっとる。今にもしょんべんちびりそうなほど震えとる。」
「ええい!どこまでも無礼な奴や!滝夜叉姫の前にまずお前らを景気付けに斬ったるわ!」
八代目大宅太郎光国、ガッと刀の柄に手をかけたところまではよいのですが、足だけではなく実は手も震えていたので刀が上手く抜けません。力を入れて左手でグイッと鞘を持ち上げると、今度は大小の刀を腰に結んでいた紐がするりと解け、二本の刀が鞘ごと音を立てて地面に落っこちてしまいました。
「ぎゃははは!」
「こら!せがれ!笑うんじゃねえ!」
親父に怒鳴られ、せがれは脱兎の如く村の方へと逃げて行きました。
「お侍の格好をしたお花の先生よ、許しておくんなせえ。せがれにも悪気はねえだよ。どうもわしら田舎モンは礼儀ってのがわかってねえだ。まったくよ、もうすぐ死ぬって人にゃあやさしくしねえといけねえって何度も教えたのに、せがれの野郎、親父の話なんざ聞いちゃいねえ。まったくあのざまでさあ。親として恥ずかしいだよ。おや?先生、ダメだな。そんなところに刀を差しちゃあ。また落っこちっぞ。その奥の紐に通さねえと。ちげえ!そこじゃねえ!袴の紐だ。その奥。だからそこじゃねえって言ってんだろが!その奥の紐だって。こっちだ。そら、おらがおめえの指さ取って掛けてやる。これだ。そう。ここに刀を挟めば、さっきみてえに簡単にゃあ落ちねえ。何してる?紐を結べ。刀は腰に差して終わりじゃねえぞ。鞘に付いた紐を袴に結ばねえと、またズロっと落っこちるべ。おらは侍じゃねえ。百姓だ。百姓だから腰に刀なんぞ差したことはねえ。だども物事には道理っつうもんがある。いいか、花の先生よ。紐っつうもんはな結ぶためにあるんだ。ただぶら下げてりゃあいいってもんじゃねえだ。さあ結んでみろ。いやあ、こりゃあ参ったっぺ。おめえ、紐も結べねえのか。自分で自分の刀の紐も結べねえときてるぞ。それでどうやって滝夜叉姫と骸骨の首をぶった斬ろうってんだ?たいした度胸だべ。だからちげえ!そうじゃねえ!そんな結び方じゃあ、また刀が落っこちるぞ。」
「やかましいわ!お前がやいのやいのと言うからできひんのや!黙れっちゅうに。こっちは今腰に刀を付けるのに忙しいんや。」
「なにも怒鳴ることねえだよ。ああ、おらはもう何も言わねえよ。おらもう何も言わねえから、おめえ一人で腰に刀を付けてみな。おらもう金輪際何も言わねえ。」
「そうや。最初から黙っておればええんや。お前が黙ってさえおれば、こんなもの、すぐに、痛!爪が引っかかった。ああ!解けてもうた。ダメや。結べん。やい農夫!」
「おらはもう何も言わねえよ。」
「何も言わんでええ。言わんでええからこれを結べ。」
「おらに頼んどるだか?」」
「そんなわけあるかい。わては貴族や。高貴な者や。高貴な者が農夫に頼み事などせん。わては命じとるんや。」
「ほんじゃあ紐はてめえで結ぶんだな。それが気に入らねえっつうならおらをぶった斬るがいいだ。だいたいさっきから何度も言っとるがよ、おらはノーフなんかじゃねえ。権兵衛って立派な名前があるだよ。」
「ふん。腰の紐くらい自分で結べるわ。わては高貴な人間や。紐くらい。なんやこんなもん。わかったわかった。わての負けや。ゴベ、手伝どうてくれ。わては自分で自分の刀の紐を結んだことがないんや。この旅でもずっと道中宿を出る時、女将に結んでもろうとったんや。」
「ゴベって誰だ?おらは権兵衛だ。まあいい、最初からそう言やあええだ。紐くらいおらはいつだって結べるだからよ。造作もねえことだ。どれ、こっちゃ来い。貸してみろ。いいか、おめえも自分で自分の刀くらい付けれるようにならねえといけねえぞ。これから何十人って野郎をぶっ殺した恐ろしい姫様と、バカでけえ骸骨のバケモンと戦うだからな。いちいち刀を落っことしてちゃあ命がいくらあっても足りねえってもんだ。ここで、こうやって、輪を作って、もう片方の紐をここに、通すだ。な。簡単だべ。こうすりゃあ、ちょっとやそっと引っ張ったってもう刀は落ちやしねえ。そっちの紐を貸せ。今度はもう一本の刀を付けてやる。こっちはちと骨だぞ。やけにでっけえ太刀だからな。ところで、花の先生よ、おめえおかみさんはいるか?」
「嫁のことか?おらん。」
「そうか。結婚する年にゃあまだ早えか。だで、故郷にゃあお袋さんが待っとるか?」
「待っとるに決まっとるやないか。死に別れでもせんかったら誰かておかんはおるんや。おかんがおらんで生まれる者など世に一人もおらへんさかいな。そやかてそないなこと、お前に関係あらへんがな。」
「ああ関係ねえよ。おめえ様とおらはなーんも関係がねえ。だどもおめえ、おめえのおっかさんはひどく悲しんだろうと思ってな。おめえみてえなひよっこを恐ろしいバケモン退治に送りだすなんざ、親だったら悲しくて胸が張り裂けるだよ。なんつったって実の子を死ににやるようなもんだでな。さっき逃げちまったおらのあんなせがれだって、おらにゃあかわいいもの。だいたいよ、頼りねえ息子ほど母親にとってかわいいもんはねえって言うだ。おめえのお袋が今頃京の都でどんな気持ちでいるかと思うとよ、胸が痛むべ。毎日毎日神様仏様に手を合わせて、おめえの無事を祈ってるんじゃねえかなあ。目ば真っ赤に泣き腫らしてさ。」
「よ、余計なことや!口の減らぬ田舎者め。ひ、紐は結べたんか。」
「待ってろ。もうすぐだ。そらできた。これでもう刀が腰から落っこちることはねえ。お花の先生よ、余計なことかもしれんがよ、やっぱりおめえ、引き返した方がいいだ。今ならまだ間に合うだよ。」
「わ、わては八世大宅太郎光国やぞ。」
「それがどうした?そんな名前誰も知らねえよ。滝夜叉姫と骸骨は江戸でも大人気だ。だどもあの錦絵に出てくる二人の侍の名前なんぞ誰も知らねえ。人気がねえんだ。おらだって、せがれだって、おめえ様に名前を言われて、ああ、あの絵にゃあそんな人もおったっけなあって思い出したほどだ。もう一人の侍なんてもっと知らねえよ。二人とも人気がねえんだ。それでもおめえ、おめえの初代は確かに偉い人だったかしれねえよ。あの滝夜叉姫とバケモンをぶっ倒しただからな、人気はなくったってぶったまげるほど強かったかもしれねえ。だどもよ、おめえはどうだ?花に物事を説いて教えているような人間が、バケモンよりも強えとは、おらにはどうしても思えねえんだ。どうしたっておめえがあのバケモンどもにぶっ殺されているとこしか、おらには思い浮かべらんねえな。」
「農夫よ、お前とはもう口をきかん。相馬の古内裏へはこの道を行けばええんやな。」
「またノーフって言いやがったな。ああ、そうだ。ここを真っ直ぐ行け。するとすぐに相馬の村に入る。村を抜けてまたしばらく行くと、突き当たりが古内裏だ。」
「さよか。ほなさいなら。」
「お花の先生、ちょっと待てや。」
「なんや。まだわてに用があるんか?」
「おめえによ、もしものことがあったらよ、まあねえとは願いてえが、万が一、もしものことがあったときにゃあよ。どうするだ?」
「どうもしやせん。わてにもしものことなどありはせんのやさかい。このまま無事に姫の首を取り、京へ帰るだけや。」
「そんでもよ、おめえが、そのう、何かの間違いで滝夜叉の姫様にぶっ殺されたとしようね。まあ、怒るな。最後まで聞け。万が一の話をしてるだよ。まさかお袋さんになあんにも言わねえであの世へ行っちまうわけにはいかねえだよ。誰がおめえのお袋さんにおめえが死んだってことを伝えることになっとるだ?」
「わては死なんゆうとるがな!」
「わかった。おらが伝えてやろう。京の都は遠いだども、おめえだってそんな遠くからわざわざこんなところまで来てくれたんだ。おらたちもそんくらい行ってやるのが筋ってもんだ。言ってみろ。さあ、お袋に言い残してえことをおらに言え。さあ。おめえにもおっかさんに言いてえことがあるだろ?言え。言ってみろ。おらが伝えてやる。」
権兵衛の言葉を聞き、大宅太郎光国はたじろぎました。権兵衛の言葉は張りつめていた大宅太郎光国の心にずぶりと突き刺さりました。喉の奥に切なさの塊が込み上げてきて目頭を熱くします。胸には懐かしい母の面影が鮮明に現れてきました。何もかも投げ捨てて暖かい母の元へ戻りたい。大宅太郎光国は心の中で何度も叫びました。『母上!母上!母上!母上に伝えてや。このわての想いを。母上!さて何を伝えよう?』。そこで八世大宅太郎光国、ようやく冷静さを取り戻します。『アホか。誰がこんな田舎者にわての一番大切な気持ちを告げられる?冗談もたいがいにせいや。危ない危ない。こんなアホに、なんか言ってまうとこやった。言わんでよかったで。恥ずかしい』。
大宅太郎光国は懐から銅貨を一枚取り出すと、指でパチンと弾いて権兵衛へ放り投げました。銅貨は権兵衛の胸に当たり、チャリンチャリンと音を立てて地面に転がります。
「紐を結んでくれた礼や。取っとけ。」
八代目大宅太郎光国がさらに歩みを進めると、やがて道の先に素朴な家々が見えてきました。
「ふん。あれが相馬の村やな。みすぼらしい村や。お、あの手前にあるのは茶店や。どれ、バケモン退治の前に一つ茶でも飲んでいくか。」
茶店を目指し歩いていくと、自分の店へやってくる若武者姿を見た店の主人らしき爺さんは、口を大きく開けて驚き、大慌てで店先の床几をドタバタと中にしまい入れ、軒にかかった暖簾を乱暴にむしり取り取ると、ちょうど入り口までやってきた大宅太郎光国の鼻先で戸板をバタンと閉じてしまいました。
「なんや。この茶店は。客が来てやったとゆうにいきなり店を閉めよった。ん?中で親父と女将が何ぞ言い争うておるやないか。」
「あんた!頭がおかしくなっただか?まだ陽は高けえのに、なんだってもう店を閉めちまっただよ。」
「しー。静かにしろ。今外に縁起の悪いのが来ただよ。権兵衛のホラ吹き息子の話は珍しく本当だったっぺ。京の都からおっちょこちょいが一人、バケモンに殺されにノコノコやって来ただよ。」
「なんだいそりゃあ?おったまげたね。おめえ、そんなのと関わり合うんじゃねえよ。うちでお茶を飲んだなんてことが滝夜叉姫の耳にでも入ったら、どんなとばっちりを食うかわかんねえだからね。下手すっとあたしらまでぶっ殺されちまうだから。」
「だから慌てて店を閉めただよ。」
「そいつは一体どんな奴だったっぺ?」
「よくは見てねえだよ。何しろ慌ててたからよ。権兵衛のせがれの話じゃあ、とんでもねえ色男だっていうだ。だども笹の葉みてえにペラペラだとよ。」
「あのゴベの息子、ほんまのアホやな。顔のことばかり喋りくさりよってからに。わてが滝夜叉姫の首を取る正統な血筋やゆうことを言うの忘れとるがな。大事なことを言わんと、アホなことばかり言いふらしよるから、こいつ逃げてしまいよったんや。ええわい。誰がこんなとこで茶なんぞ飲むか。こんなとこの茶なんぞ飲んだら、そっちの方が縁起悪いわ。」
気を取り直し、大宅太郎光国がさらに村の中心へと歩みを進めると、その姿を見た村人たちは皆大慌てで家の中へと駆け込み、
ドタン!バタン!ドカン!
固く戸を閉ざしてしまいました。呆気に取られながら大宅太郎光国があたりを見回すと、村には茶店の他に道具屋や鍛冶屋、団子屋や煙草屋などがあるようでしたが、どの店の者も皆、太郎光国の姿を見かけただけで、キャッと悲鳴を上げ、手にしていた仕事道具を放り投げて家の中へと逃げ込んでしまいます。
「おーい!権兵衛の息子の話は本当だったぞー。」
どこかで誰かが叫ぶ声が聞こえたと思うと、あとは水を打ったように村全体がシーンと静まり返ってしまいました。
ひゅううう。
ただ風の音だけが大宅太郎光国の耳に聞こえます。
田舎は噂の回りが速い。わずかな時間に権兵衛の息子は若武者の来訪を村中に伝えたようです。その話を村人は最初信じていませんでしたが、自分の目で大宅太郎光国の若武者姿を見てようやく信じました。誰もかれも、村人は全員家の中へと隠れ、あっという間に通りには誰一人としていなくなりました。犬も猫もいません。逃げてしまいました。動物だって滝夜叉姫の祟りが怖いのです。大宅太郎光国はたった一人、寂しい村の真ん中でポツンと取り残されてしまいました。
「どうしようもない村や。ええ?こんなことがあるんかいな?さっきのアホ息子はわてをなんと言うて伝えたんや。わては八世大宅太郎光国やで。ご先祖様と同じく、帝様の命により村を困らせとるバケモンを退治しに来たんやないか。わての姿を見たら、村中のもんが集まってきて、平伏し、大歓迎するのが当たり前や。恩人やで、わては。まあ大恩人の子孫やけどな、同じことや。それがどうや、このアホどもはどいつもこいつも滝夜叉姫の祟りを恐れとるのか知らんが、家の中に逃げ込んで隠れてしまいよった。恩知らずとはこのことや。やい!村人ども!聞け!お前らが自分で自分の妖怪退治もできんボンクラやさかい、わてがわざわざ京の都からこんなとこまで来てやったんやで!」
「あれが大宅太郎光国かい?」
あたりがあまりにも静かになってしまったので、家の中からコソコソと話す声が大宅太郎光国の耳にも聞こえてきました。
「あんなのがか?」
「なんや?こいつら家の中からわてのことを見てごちゃごちゃ言うとるんか。それにしても田舎者ちゅうのはガサツなもんや。ひそひそ話の声が大きゅうてこっちまで丸聞こえや。戸の隙間からわてのことを見て、初めて見る京の男に夢中になっとるんやな。ふん。存分に見るがええ。ほんまの雅っちゅうもんをしっかり見とけや。もう一生見れへんやろうからな。」
「ずいぶん細い腕だっぺ。」
「あれじゃあ鶏も殺せん。」
「あれは鶏に殺される腕だべ。」
「ぎゃはは。」
「ふう。もうため息しか出んわ。こいつらほんまもんのアホや。こんな村、さっさと通り抜けよ。」
「見なよ。タメさん、ちょっといい男だべ。」
「ふむ。声からすると若い女やな。こんな鄙びた土地でも女子いうもんは見る目のあるもんや。」
「どこに?どこにそんな男がいるだ?おめえの目は馬鹿だな。こんなもん、ただのガキじゃねえか。つまらねえ男だ。あたしはねえ、こいつの顔より着物がいいね。死んだら、あの着物はあたしがもらうよ。」
「タメさんよ。馬鹿はおめえの方だ。あいつはこれから姫と骸骨にズタズタにされるだよ。そうなりゃ着物だってボロボロの血だらけだ。そんなもん、だれがいるかよ。だからタメさんよ、今のうちによく見ておきなよ。きれいないい顔をしてるだよ。青白くてさ。」
「ふん。アホどもが。」
「長老、長老。この穴から見てみろ。大宅太郎光国がうちの前を通るだよ。」
「ほう。この家ん中には村の長老がおるんやな。」
「長老、こいつが死んだらどうするだ?」
「なんもしねえ。」
「だども偉そうななりしてるだで、お奉行に届け出ねえとあとが面倒じゃねえだ?」
「茂作よ、よく聞け。わしらは何も見てねえ。大宅太郎光国なんて奴はこの村を通りはしなかっただ。」
「なるほど。さすがはわしらの長老だ。わしらは何も見てねえっつうことなら、お咎めも受けねえってわけだ。」
「死人に口なしじゃ。」
「だども長老、こいつ死んだら祟るんじゃねえかな?わしらの誰もこいつを助けなかっただから。」
「そうだ。だからわしはさっきから手を合わしておる。ナンマイダ、ナンマイダ。茂作よ、おめえも手を合わせろ。村に化けて出ねえようにな、しっかりお経を唱えろ。そうだ茂作、おめえ裏から回って、皆にも手を合わせるように伝えるだよ。皆でこいつがぶっ殺されても化けて出ねえようお経を唱えろと、村の衆みんなにも伝えてこい。ナンマイダ、ナンマイダ。」
「おい!長老!そこにいるのはわかっとるんや。全部こっちまで丸聞こえや。ええか!わては死なん。生きて帰ってきてお前らを全員成敗したるさかいに覚悟しときや。お前ら全員や。みんな酷い目に合わしてくれるわ。ふざけたことを抜かしよってからに。ほんま不愉快や。」
「ナンマイダ、ナンマイダ、」
「お経を止めい!あかん。こんなとこおったらバケモンと戦う前にほんまに死んでまうわ。早よ村の外へ出んといかん。ん?なんや?なんや?あっちからも、こっちからも、お経が聞こえてきたで。小さい村ゆうんは話がすぐに伝わるっちゅうんはほんまやで。あかん。あっちの家からも、こっちの家からも、中からお経が聞こえよる。お経の大合唱や。まるで村中が家の中で葬式をやっとるみたいや。ああ気味が悪い。これみんなわてのためにお経を上げとるんや。わてまだ生きとるのに、こいつらわてがこれから死ぬっちゅうんでお経をあげとるんや。」
「ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、」
「おい!お前ら!お経を止めい!止めるんや!」
「・・・」
「お、止まりよった。お前ら!よう聞きや!わては八世大宅太郎光国!その昔お前らの先祖のために滝夜叉姫の首を取った者の由緒正しき血を継ぐ者や!それをなんや!誰一人出迎えんと、家ん中にこもりよって。よりによってお経なんぞ唱えよってからに!この村はどないなってんのや!ええか、わては大宅太郎光国やぞ!確かにわては初代とは違ごうて武者やない。お花のお師匠や!誰や!今笑ったんは!ああそうや!わては刀なんぞ持ったことはない。けどな、立派な血と名前を継いどるんや!笑うな!もう我慢ならん!いいか!よく聞け!わてはこれからひとっ走り古内裏まで行って、滝夜叉姫と骸骨を退治してくる!その後や!ええか!バケモンを退治したその後、今度はお前らを退治してくれる!初代から受け継いだこの刀で、お前ら全員の首を斬って斬って斬りまくってやるからそう思え!皆殺しや!」
「ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、」
「またお経を始めよった。ええい気味が悪い。止めい!お経を止めい!」
「ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、ナンマイダ、」
「もうアカン。もうこの村にはおれへん。えいか!お前ら!わては本気やで!首を洗ろうて待っとれや!」
捨て台詞を吐くと、大宅太郎光国は逃げるように村を後にしました。
「ふう。やっと家のないところまで来たわ。まったくなんちゅう村や。誰があいつらのためにバケモンを退治しに来た思うてはりまんのや。わてやで。わてが命を懸けて戦う言うとるのに、なんやあの態度は。ああ嫌や。これだから田舎者は嫌いや。しっかし、このあたりはほんまに寂しい所やの。家がのうなった思うたら、ホンマになあんもなくなってもうたわ。見渡す限りのススキ野や。何もあらへん。あるものと言えば、わての歩くこの細長い一本道だけや。そうか、この先に滝夜叉姫と骸骨の住む古内裏があるんやな。この緩い上り坂のてっぺんまで行ったら、その向こうに内裏は見えるんやろうか。古内裏が見えたら。バケモンも見えるんやろか。バケモン見えたら。そうや、わてはこの腰の刀で、この刀でもって、一刀両断。バケモノどもを斬って、斬って、斬りまくりや。と、いきたいところやけんど、わてにできるやろか?刀で誰かの首を斬る。首を、斬る。ふう。あかん。無理や。わてにはできひん。生まれてから今日まで喧嘩と呼べるものかて兄弟喧嘩一つしたことあらへんのに、いきなりバケモンと戦うなんて、わてには無理に決まっとる。そうなると、わて、どうなるんやろう?わて、死ぬんやろか?あかんあかん、そんなこと考えたらあかん。ああ、なんて気味の悪い所や。ススキが風に吹かれてあっちゃこっちゃと揺れとるで。まるで生きとるみたいや。このススキどももバケモンなのかもしれんな。この広い荒地につっ立って、みんなでわてを殺そうとしとるのかもしれん。ふん。ススキに殺されるようなわてやないで。せいぜい風に吹かれて揺れてろや。まったく関東っちゅうところは辛気臭いとこや。さっさと姫の首を取って京へ帰ろう。うわあ!びっくりさせんなや。人がおるのかと思うたで。何がつっ立ってんねん?木か?いや、ちゃう。刀や。錆びた刀が土に突き刺してあるんや。その下の土が盛り上がっておるんはどうしたことや?そうかわかったで。これが墓や。あの農夫が言うとったんはほんまやったんや。この土の中にバケモンどもに殺された人が埋まっておるんやな。おや?よく見るとここだけやない。あそこにも、あっちにもある。うわあ!気がつきひんかったけど、ぎょうさんあるやんか!刀やら槍やら鍬やらが土に突き刺さっておるやないか!ここは墓だらけや!何十、いや何百という人がこの辺りに埋まっとるんや。そうか、これみんな滝夜叉姫と骸骨に殺された人たちや。バケモンに殺された人たちが、みんなこの土の下に埋められとるんや。殺されすぎて墓石なんぞ間に合わへんかったんやな。代わりにそいつの持ち物を立てとるゆうわけや。そうか。そうゆうことか。みんな、みんな、滝夜叉姫の古内裏へ、この細い道を行った者たちや。ほんで、二度と帰られへんかった。なるほど。そういうことや。」
八代目大宅太郎光国の足が止まりました。
「そうやな。死ぬな。わてがこの一本道を行って、あの坂を越えたら、うん、それがわての最期や。戻ってきて、わてがもう一度ここを歩くことは、ないな。わては勝てん。負ける。わてが死んだら、みんなどう思うやろか?母上は悲しむやろう。父上はがっかりするやろうな。『やっぱりあいつには無理やったんや』と友達ん中には嘲笑う奴もおるやろう。悔しいな。ふん。そんな奴には化けて出たる。あーあ、死ぬってなんなんやろな。この墓が死ぬってことなのやろか?だとすると寂しいわな。一体全体わてがこの世からおらんようになるっちゅうのはどういうことなんやろ?こうやってごちゃごちゃ考えることももうないなるんやろか?わてが全部消えてまうなんてこと、ほんまにあるんかいな?この道を行って、もう帰ってこないとしたら、わては一体どこへ行ってまうんや?死んでもうて、もうどこへも行かれへんなるちゅうことは、一体どこへ行くことになるんやろ?天国とか地獄とか、みんなよう言うけど、わてそんなもん見たことないで。ここでわては消えてなくなるんか?わてが消えるってなんや?わては今確かにここにおるんやで。それが消える?訳わからんようになってきたわ。」
カア、カア、カア。
カラスが鳴きました。遠い西の雲には少し赤みも差してきています。
「あかん。日が暮れてまう。こんなところにいつまもでもおれへんがな。先を急がんと。とにかく行ってみようや。もうあんな啖呵切ってきたんやさかい村へは戻れへんし。前へ進むしかあらへんがな。死ぬことはもう考えんようにしよう。死ぬと決まったら、改めて考えたらええやん。死ぬと決まってから考えても遅くはないはずや。最悪、死んでから考えたってええんやないか?下手すりゃあ、死んでからかて生きる方法、考えられるかもしれへんしな。花かて首を切られた後も水に差しとけばしばらくは生きとるさかいに、わてかておんなじや。誰も死んだ後のことは知らんのやし、わからへんがな。そうや。わてがこの世から消えてまうなんて、どう考えても考えられへん。さあ、前へ進もう。あれ?変やな。足が動かん。足を前へ出そうとしとるのに、前へ出てくれへんやないか。こっちの足はどうや?あかん、こっちも前へ出てくれへん。どうしたんやろ?足が動かんようになってもうた。おい、足、前へ動け、こら!そら!えいや!ダメや。わてが『前へ進め』言うとるのに、足がちいとも言うことを聞いてくれへん。こら!足!動け!歩くんや!前へ進め!バケモンの首を取って京へ帰るんや!だめや。動かん。これは困ったぞ。こんな何もない原っぱの真ん中で、ちいとも動かれへんようになってもうた。いや困った。わて、つっ立ったまま動かれへんようになってもうたで。どないしたんやろか?待てよ。もしかしたらこれは。そうか、そういうことか。わて、もう死んでもうたんかもしれん。これが死ぬ、ゆうことかもしれん。動かれへんゆうことは、そういうことや。」
一方同じ頃、同じ道の反対側から相馬の村へ向かい、急ぎ足で歩いている職人の男がありました。
「ふう!命拾いしたぜ。さっきのオンボロ屋敷、あれは間違いなく相馬の古内裏だったな。ああ、そうにちげえねえ。だってよ、馬鹿でっけえ骸骨が庭先でイビキかいて寝てたんだぜ。そんな屋敷が相馬の古内裏の他にあるかってんだよ。『八五郎!絶対に道を間違えて、相馬の古内裏なんぞへ行くんじゃねえぞ!』。霞ヶ浦の親方は口を酸っぱくして言ってくれたっけな。『八五郎!ここをずっと行くとな、道が二股に分かれる所へ出る。いいか、そこが思案のしどころだぞ。よく頭を使えってんだ。おめえは頭を使わねえ癖があるから心配だ。いいか、そこで道を間違えたらおめえの命はねえんだぞ。耳の穴かっぽじってよく聞け。江戸へ帰る道は右だ。聞けってんだ!そっぽを向くな!いいか!右だ!箸を持つ方の手だ。左じゃねえぞ!何があってもぜってえ左へは行くなよ。左へ行ったら最期だぞ!命はねえとそう思え。いいか、じゃあ聞く、八五郎、おめえ、この道をずっと行って二股へ出たら、どっちへ行く?』。俺が冗談で『左』って答えた時の親方の顔ったらなかったな。『馬鹿野郎!』なんて顔を真っ赤にしちまってさ。ふふ。あの親方もすぐカッとなるたちだから長生きはできねえな。『八五郎!俺は冗談を言ってるんじゃねえんだ!おめえを遊び半分で脅かしてるわけでもねえ!いいか、おめえは恐ろしく間抜けだから俺は心配をしているんだ。もう一度言うぞ。道が二股になったら、おめえはそこで一つ深呼吸をしなきゃいけねえ。深く息を吸って立ち止まり、よおく頭を使うんだ。頭を使って、どっちが右かよく考えろ。てめえがどっちの手で箸を持っているかよく考えるんだ。それから、うん。こっちが右だ。間違いねえとわかってから先へ進め。いいか右だぞ!箸を持つ手だ。ぜってえ左なんかに行くなよ。まかり間違って左へ行っちまうとな、まっすぐ滝夜叉姫の古内裏へ行っちまうんだ。よく覚えておけ。古内裏ってのはな、バケモンの巣窟だ!もう何百人て男が命を落としているんだ!死ぬんだぞ!八!わかってんのかこの野郎!生きて江戸へ帰りたかったらよ、絶対に右へ行け!箸を持つ方だ!』って散々親方がうるさく言うからよ。俺もついムキになっちまって『親方!馬鹿を言うなってんだ!こちとら江戸っ子でえ!右と左を間違うような、この辺のボンクラと一緒にするんじゃねえや!』と啖呵を切って出てきたところまではいいが、まあ間違ったんだね。あの二股で左へ行っちまったんだね。しかたがねえ。なんといっても俺は左利きだ。親方が『箸を持つ手だ!』なんて怒鳴るからさ、まっすぐ相馬の古内裏へ行っちまったぜ。だいたいあの親方は話が回りくどいから何が言いてえのかわからねえんだよ。おかげで迷わず左へ行っちまったじゃねえか。ああ、そうよ。あのオンボロ屋敷は確かに相馬の古内裏よ。あれは国芳さんの描いた骸骨そのものだったぜ。抜き足差し足忍び足、バケモンを起こさねえように気を付けて横を通ったから、なんとかかんとか無事にここまでたどり着けたってわけだ。さすが俺じゃねえか。ええ?罷り間違ってあいつを起こしてでもしてみろよ。ふう。親方の言う通り、命はなかったぜ。」
江戸は神田浅利町の左官職人、八五郎は下総国霞ケ浦で頼まれた仕事を無事に済ませた江戸への帰り、道を間違えて相馬の古内裏の前を通り、なんとか殺されずに村へ向けて歩いておりました。
「それにしても不気味な所じゃねえか。ええ?ひでえススキ野だ。あちこちに刀やら槍やら地面に突き刺さっていやがる。墓標の代わりだな。みんな滝夜叉姫と骸骨のバケモンに殺された連中だ。まんざら親方の話も大袈裟じゃなかったってことだな。するってえと何かい?俺が死んだら、さながら左官のコテが墓標になるってことかい?こんもりした土の上にポツンと小さなコテが乗っているんじゃあ、サマにならねえな。こういうとき武士ってのはうらやましいね。折れて血糊のこびりついた刀が、ああやってブスッと地面に刺さっている様子なんて粋だよ。あーあ、左官になんかなるんじゃなかったな。コテが墓石代わりじゃみっともねえよ。それにしてもやけにたくさん死んでるね。あっちにも、こっちにも、数えきれねえくらいの刀だの槍だのが地面に突き刺さっているぜ。ススキの数と墓の数とどっちが多いかわからねえってくらいだ。これ全部滝夜叉姫と骸骨が殺したんだな。まったく迷惑な話よ。それもこれも国芳さんの描いた絵が江戸で大人気になったせいだな。その人気に便乗しようってんで、どこぞの霊媒ババアが一儲けを企み、地獄から滝夜叉姫と骸骨を甦らせたって聞いたぜ。馬鹿なことをやりやがったよ。聞くと霊媒ババアは姫と骸骨を浅草へ連れて行って、見世物にして一山当てようとしてたそうじゃねえかよ。欲の皮の引っ張ったババアだぜ。だけどいくら何でもそいつは無理な話ってもんだ。だってよ。相手は地獄の怨霊だぜ。おとなしく浅草で見せ物に収まるような玉じゃねえってんだ。お空の雲だっててめえの敵だと思い込んでるような怒り狂った女よ。カッとなった女ってのはな、生きていようが死んでいようが関係ねえ、そうなるともう手に負えねえんだ。放っておくのが一番なのよ。ああそうよ。俺だったら放っておくね。ほとぼりが冷めるまで俺はどこか遠くで隠れているよ。それを地獄から叩き起こしたんだから馬鹿な真似をしたもんだぜ。何を考えてたんだろうね。ババアのくせに知らなかったんだね。なんでもその霊媒ババア、ここまでやって来て地獄から姫と骸骨を呼び起こしたまではいいが、『なぜあたしを起こしたー!』って怒り狂った姫にその場で殺されちまったっていうじゃねえかよ。そりゃあそうだ。当然よ。相手は怨念を固めて女の形したような姫様よ。地獄そのものが出てきちまったようなもんだ。ただでさえ馬鹿みてえに恐ろしいだけの女がよ、あろうことか寝起きでぐずっているときた日にゃあ目も当てられねえぜ。こうなりゃもう鬼に金棒だ。天の神様だって近くでボケっとつっ立ってたら、顎をぶん殴られるぜ。干からびた霊媒のババアなんて、そりゃあひとたまりもなかったろうな。そうだよ。さっき俺が見た馬鹿でけえ骸骨を見せ物にしようなんざ、正気の沙汰じゃねえ。それこそ狂気の沙汰よ。滝夜叉姫も骸骨も、絵に収まっているのを眺めるくらいがちょうどよかったんだよ。だけどよ、考えてみたら滝夜叉姫ってのも可哀そうな姫様だな。元をたどれば親の仇を打ちたい、親父の無念を晴らしたいのその一心で頑張ってきたのにさ。何も地獄へ叩き落とすことなんてなかったんだよ。それでもせっかく地獄で寝ているところをさ、無理矢理に叩き起こされたと思ったらどうよ。毎日毎日こうやって、迷惑にも姫を退治しよう、姫の首を取って一旗揚げようって間抜けな連中が次から次へと襲いかかってくるんだからよ。大変な苦労だろうな。骸骨だって疲れて眠くもなるぜ。今はよ、まだ関東の田舎侍が相手だから大したこたあねえよ。『わー』って間抜けな声を上げて来た田舎者を箒で掃くようにして殺しちゃえばいいんだからさ。姫と骸骨だって楽だろうよ。だけどよ、日本は広いんだ。信じられねえくれえ腕の立つ剣士がわんさといるんだぜ。あの絵に出てくるなんとかって人気のねえ奴みてえな腕の立つ若武者でもやって来てみろや、哀れ滝夜叉姫と骸骨は再び首を斬られ、またぞろ地獄への道を真っ逆さま。思えば気の毒な話じゃねえか。何だって国芳さんはあんな絵を描いたんだろうねえ。罪な絵師だねえ。まあいいや。こんなところで考えたって解決できる話じゃねえ。日が暮れちまう。先を急ごう。この調子なら何とか暗くなる前に相馬の村までたどり着けるはずだ。おや?あれはなんだ?道の真ん中に一本、細い墓があるかと思ったら、よく見るとあれは人間だ。派手な若武者姿の人間が一本、道の真ん中につっ立っていやがる。」
八五郎が近づいてみると、それは先ほどから動けなくなっている大宅太郎光国でした。八五郎が目の前に来ると、バタン、大宅太郎光国は前へ倒れました。
「し、死ぬ。」
慌てて駆け寄る八五郎。
「お侍。しっかりしなせえ。」
「し、死ぬ。わてはもう死ぬ。」
「そうなのかい?どうも死ぬようには見えねえけどな。体にはどこも傷はねえようだし。立派な刀だって鞘に収まったままだ。」
「わては死ぬ言うてまんのや!」
「おや?大阪の言葉だね。」
「アホ!大阪やない。わては京の者や。大阪なんぞ品のない所と一緒にせんといてや。」
「どこでもいいや。さあお侍、村はもうすぐなはずだ。連れて行ってやろう。」
「お前は人間か?」
「こう見えて人間だ。」
「そのようやな。生きておるんか?」
「ああまだ死んじゃいねえ。さっきあの屋敷の前を通った時にゃあ、生きた心地がしなかったがな。」
「見たんか!相馬の古内裏をお前は見たんか!」
「ああ見たぜ。間違いねえ。あんな馬鹿でけえ骸骨を飼ってる屋敷は滅多にねえからな。国芳の絵そのもんの骸骨だ。あんたなんぞ蟻の子を潰すみてえにやられちまうぜ。」
「し、死ぬ。」
「また死に出しやがった。」
「・・・」
「おいお侍!おめえ本当に死ぬのか?」
「お前、名をなんと申す?」
「俺か?俺は江戸の左官、八五郎ってんだ。」
「早口でよう聞こえん。シャクハチ?」
「誰が尺八だよ。よく聞け、俺は江戸の左官、八五郎だ。」
「シャカン?ハッチョロ?妙な名前やな。まあ何でもええ。わてはもう死ぬんや。死ぬ前にお前に是非とも頼みたいことがある。よう聞きや。」
「なんでえ?言ってみろ。」
「わての名は、八世大宅太郎光国。平安の頃、滝夜叉姫とその骸骨を退治した偉大な武者の八代目だ。」
「道理で派手な格好をしているわけだ。確かにあの絵に出てくる人気のねえ何とかって奴と同じ格好だ。」
「黙って聞きや。滝夜叉姫が地獄から甦ったとの報を聞き、こうしてご先祖様の刀を携え、京の都からはるばるここ関東の果てまでやってきたものの、この有様や、敵を目前にしてわては間も無く死なねばならぬ。」
「滝夜叉姫と戦う前にか?」
「実に無念。」
「まだ骸骨とも戦ってねえな。」
「まさに断腸の思いや。」
「まあいい。とにかく村へ連れて行ってやる。村でこれからどうするか、じっくり考えるんだな。」
「あかん!村へは行かぬ。ゆえあってあの村へはもう行けぬのや。わてはここで死ぬ。死ぬより他はないんや。頼む。わての頼みを聞いとくれ。哀れな男の最期の頼みを、どうか聞いておくれやす。」
「だからなんでえ?言ってみろって言ってるんだ。」
「わての代わりに相馬の古内裏へ行ってくれへんか。」
「断る。」
「即答するなや。タダでとは言わん。さあ、この刀を受けとれ。」
「馬鹿野郎!いらねえよ、そんなもん。刀の問題じゃねえんだ。生き死にの問題だ。悪いがまだ死ぬ気はねえんでね。刀なんぞいらねえ。いらねえって言ってるのに。おい、やけに素早く器用に刀を外すじゃねえか。おい!そんなもん貰ったって誰があんな所へ行くもんか。おいちょっと待ちやがれ。俺はそんなもんはいらねえって言ってるんだぜ。俺の腰に刀を付けるな。ああ付けちまいやがった。」
「さあ、こっちの小刀も付けたる。不思議やな。実に不思議や。死ぬとなると指がよう動くわ。紐も結べるで。さっきの農夫の前ではできひんやったんにな。いざとなるとできるもんやさかい不思議や。さあ、一本よりは二本。向こうさんも姫と骸骨と二人おるんやさかい。刀は二本あった方がええ。」
「おうおう!いらねえって言ってるじゃねえか。俺の帯に刀なんぞ差すんじゃねえよ。やめろ!俺はまだ死にたくねえんだ。ああまた付けちまいやがった。」
「さあ脚絆に手絆も付けたる。これも初代から伝わったものやさかい、少しばかり古いが、まあ大丈夫や。わてが付けたる。死ぬとなると人間秘めた力が出るもんやな。こっちも上手に結べたで。さっきの農夫に見せてやりたいくらいや。さあ、これがあればお前も手足をバケモンどもにもがれんで済むで。」
「この野郎。死にかけのくせに俺の手足にそんなもんくっつけやがって。俺は行かねえぞ!」
「これだけやってもまだ足りひんか?欲の深い奴や。ええい!わかった!これもやる。カネや!この巾着にはわての旅の資金がみんな入っとる。これも全部お前にやるさかいに、わての代わりに行っとくれ。相馬の古内裏へ行っとくれ。頼む。この通りや。」
「カネなんぞいるかってんだ!カネなんぞいくら貰ったって死んじまったら何にもならねえじゃねえか!」
「百両はあるんや。これだけあれば死んだってええやろ?さあ、懐に入れてやる。これで、このカネは全部お前のもんや。さあ行けや。古内裏へ行ってバケモンどもを退治してこい。」
「ふざけるな!どうせてめえは死ぬんだから、てめえがあっちへ行ってバケモンと戦って死ねばいいじゃねえか!こんなもん!なんだ?俺の手を押さえやがって。すげえ力だな。てめえ本当に死ぬのか?」
「死ぬ死ぬ。死ぬに決まっとるがな。まったくなんちゅう強欲や。これだけのカネをやってもまだ動かん言うんか。おまさん、大阪へ行ったらええ商売人になるで。なに?どうしても行かんか?わかった。わてはもう死ぬんやさかい、しゃあない。これをやる。これをやってもうたらもう最後や。わてにはもうなんも残らへん。これがのうなってしまったらな、わてはもう生まれたての丸裸や。」
「これっつったっておめえ、手にはもう何にも持ってねえじゃねえか。おめえの着物なんぞいらねえぜ。」
「着物やない。もっとええもんや。わてがお前にやるのはな、名前や。わての名前をお前にやる。」
「名前だあ?そんなもん貰ってどうする?名前なんぞ貰って俺が死にに行くかよ。馬鹿言うなってんだ。」
「よいか。今の今からお前は、大宅太郎光国や。」
「なに?」
「お前はもうただのしがない職人なんかやない。侍や。ついにお前は九代目の大宅太郎光国になったんや!あの有名な錦絵の偉大な主人公や!」
「俺が?」
「そうや。かつて滝夜叉姫と骸骨を退治した若武者の正統な後継者、大宅太郎光国の九代目や。」
「俺が?俺がそんなもんになっていいのか?」
「八代目のわてがお前を認めたのや。こうして刀を渡し、正式に襲名したんや。」
「そうか。そうだったか。やはりこの俺は只者じゃねえと思っていたぜ。小せえ頃から何て言うかこう、特別だと思ってたんだ。ずっとわかっていたぜ。他の奴らと比べても俺はどこか他の連中とは違うと思ってたんだよなあ。ああそうだ。これで合点がいった。やはり俺は主人公だったんだよ。立派な殿様だったんだ。控えよろう!ここにおわしますのは、ただのどこにでもいる八五郎なんかじゃねえ!気安く呼ぶんじゃねえってんだ!いいか、俺様の名前を聞いて驚くなよ。俺は、俺は、ええと、何だっけ?」
「大宅太郎光国。」
「オオヤタロウ!えっと。」
「光国。」
「ミツクニ!三代目だ!」
「九代目。」
「九代目だ!」
「行ってくれるか?」
「先代の頼みとあれば行くよりほかは、あ、あるめえ〜よ〜。」
「行け!九世大宅太郎光国!わての意志を継ぎ、憎っくき滝夜叉姫を退治してくるんや!」
「さらば八代目!今生の別れ。御免!」
「ふう。ようやっと行きよった。単純な男や。そやけどだいぶ手間を取らせたで。わてのもん全部持っていきよったわ。まったく死ぬふりするのも楽やないで。ともかく、これでわての命は助かったわけや。あとは足がまた動くようになるのを待つだけや。あーあ、安心したらどっと疲れが出てきよった。長い長い旅やったさかいな。こんなアホな所まで来てもうたわ。そうか。わかったで。足が動かんのは疲れたからや。疲れて足が動かんようになってもうたんや。わてに必要なんは休息や。またこれから京へ帰らんといかんのやさかいな。やれやれしんどい話よ。」
「オオヤタロウミツクニ、オオヤタロウミツクニ、長い名前だから繰り返してねえと忘れちまうな。これが偉い人物の名前ってやつよ。偉い奴ってのは名前が長えんだ。オオヤタロウミツクニ、有名な錦絵の主人公様だ。滝夜叉姫と骸骨をぶっ倒す大人物よ。それが俺様、この九代目のオオヤタロウミツクニ様よ。左官の八五郎はもう昔の名前、もう死んじまった。今の俺はオオヤタロウミツクニ。よくおっかあが言ってたっけなあ。『お前は将来立派な男になるよ。あたいの子だからね。お前はそのへんのガキたあ訳が違うんだ』。いってえ何が違うのか俺にはわからなかったけどよ、お袋にはわかってたんだなあ。なんてったって今じゃ腰に二本の刀を差した立派なお侍よ。おっかあ!あの世で見てるか!俺は侍になったぜ。おっかあの言う通り、立派な男になったんだ。おっかあは正しかったぜ。何にも間違えちゃいなかった。見てるか!おっかあ!この点親父の野郎はまったくわかってなかったな。酒ばかり飲みやがって、馬鹿な野郎だったぜ。大事なことは何にもわかっちゃいなかった。『こんなガキ!さっさと売っちまえ!』なんて言いやがってよ。本当に俺を左官の家に売り飛ばしやがった。おい親父!今てめえがどこにいるのか知らねえけどよ、本当にてめえは馬鹿な野郎だったぜ!てめえが売ったのはな、いいか、教えてやる。金の卵だったんだ。てめえは馬鹿だから、金の卵を酒代にもならねえ二束三文で売っちまったのよ。今の俺を見ろ!見てみやがれってんだ!俺はオオヤタロウミツクニ。九代目の立派なお侍だ!てめえなんざ斬って捨てたって何のお咎めもねえんだ!いかんいかん、静かにしねえと。つい大声を出しちまった。ここはもう古内裏だ。こっちが刀を抜く前に庭で寝ている骸骨を起こしたら面倒だからな。いたいた。骸骨のくせに呑気に寝ていやがる。でっけえ鼻提灯だなあ。さあ刀を抜くぜ。どうだ!おおう。錦絵にある通りの見事な刀だ。これがありゃあバケモンだろうが幽霊だろうが真っ二つだぜ。やい!骸骨!起きやがれ!」
「誰だあ〜?俺の足を蹴飛ばすのは〜?」
「目を覚ましたな骸骨。いいかよく聞け。今から口上を述べるぞ。やあやあ!我こそは!」
「おや?何だこいつ?妙な太刀を持ってやがる。おーい、姫ー、庭に変な奴が来てるぞー。おーい、姫ー、出て来てくれー。」
「おーい骸骨ー。俺の話を聞けー。」
そこへ障子が開き、見目麗しい滝夜叉姫が縁側に現れました。
「何だい?大声を出して。誰が来たっていいじゃないのさ。お前が食っておしまいよ。」
「だけど姫、こいつの刀が気になるんだよ。」
「何だって?」
「おお!お前が滝夜叉姫だな。そっちから庭先まで出向いてくれるたあ、手間が省けたぜ。おや?だけど、それにしても、なんてえ綺麗なお顔だ。姫様ってのはみんなおめえみてえに綺麗なのかい?いかんいかん。お役目お役目。綺麗な女だってかまうもんか。斬っちまう他ねえんだ。なんてったって俺はオオヤタロウミツクニだぜ。やい!いいかてめえらよく聞け。只今より口上を述べる。やあやあ!我こそは!」
「お!骸骨!あの太刀は!」
「そうだ姫。あいつの太刀だよ。忘れもしねえ。俺たちの首を斬って地獄へ落としたあの太刀だ。」
「おい!おまえら!まず俺の口上を聞けってんだ!話はそれからにしろい。」
「おい男!あたしたちを殺したその憎っくき太刀を持つお前は、一体どこの誰なんだい?」
「だからそれを今言おうとしてたんじゃねえか。二人とも少しばかりでいいから静かにしていてくれねえかな。いくぜ!やあやあ我こそは!」
「姫ー。こいつは大宅太郎光国の野郎じゃねえと思うな。」
「そうだね骸骨。あの男はこんな醜男じゃなかったよ。すごい色男だったんだから。」
「おうおう。言ってくれるじゃねえか。ええ?聞いて驚くなよご両人。俺こそその男。つい今しがた無事九代目を襲名いたしましたオオヤタロウミツクニ様、その人だ!」
「馬鹿馬鹿しい。こんな偽者に付き合ってなんていられないよ。あたしは中でもう少し寝ることにする。」
「おい姫!信じてねえな。俺がそのオオヤタロウミツクニなんだよ。こっちへ来い。戦おうぜ。あの錦絵みたいに派手にやり合おうじゃねえか。」
「骸骨、好きにおし。」
「ちょ待てよ。姫!行くな!おい骸骨、ちくしょう!デカい手で俺を掴むんじゃねえ!離せってんだ!動けねえじゃねえか!これじゃあ刀が振れねえ!おいてめえ、俺を食う気だな!わかった!わかったからいったん離せ。話をしよう。待て!まさかおめえ!本気で俺を食う気じゃ!やめろ!口を開けるな!俺なんか食ったっておいしくも何ともねえぞ!離せ!やめろ!わー!助けてくれー!姫―!親方―!八代目―!」
一方、こちらは八代目の大宅太郎光国。
「ハックション!あかんあかん。道の真ん中ですっかり眠りこけてもうたわ。風邪を引いてまうとこや。自分が死なずに済んださかい、わてすっかり気が楽になってもうて、うっかりこんなところで寝てもうたんやな。おやおや、だいぶ長い時間寝てもうたようや。あたりはすっかり夜になってもうたで。そういえばあの男、滝夜叉姫と骸骨を退治してくれたやろか?どれどれ道の向こうは?あかん、もう暗くて何も見えへん。まあ無理やろうな。あの男にバケモン退治ができるとはどうにも思えんよってからに、今頃はもうこの辺りの墓の一つになってるかもわからんな。さ、わては京へ帰ろう。こんなアホな土地にはもう一刻たりともいとうない。京へ戻るんや。あ。あかん。そうや。思い出したで。わて、無一文や。アホなことしたなあ。あいつにカネ全部やってもうたわ。刀だけにしとくんやったな。カネまで渡すことなかったんや。がめつい男やさかいに、あいつ全部わての財産持って行きよった。カネがないと京までどうやって帰ったらええんや。飲まず食わずで長い道中帰られへんがな。そうや。あいつ、今頃古内裏の庭先で死んどるさかいに、渡したもん全部返してもろうたらええんや。さっきの長老も言っとったが死人に口無しっちゅうことや。抜足差し足、音を立てんよう近づいたら、バケモンどもも気付きやせん。そうしまひょ。そうや、カネと、ついで刀も返してもらうことにしまひょ。なんてわて頭ええ、ハックション!おお寒い。こんなところにおったら風邪引いてまうで。せっかく生き残ったんに風邪引いて死んでもうたらアホや。おお!足も動くやないか!さっきはなんで動かんかったんやろう?快調快調。さ、土産話に古内裏をちょっとばかり覗きに行ってみましょうか。そうや!あの男、江戸から来た言うてはりましたな。帰りにあの男の家へ寄って、ついでに嫁さんにいくらかでも渡したろう。わてなんてええ男なんやろう。親切にも程があるで。はて?あいつ結婚してましたやろか?まあええ。誰かおるやろ。なに家はすぐに見つかるはずや。なんと言うても珍しい名前やったさかいな。いくら江戸が広い言うたかて、シャカンハッチョロなんて名前の男、そうはおれへんがな。シャカンハッチョロさんのお家はどこでっしゃろ?とその辺歩いとる江戸の人に聞けば、誰でもすぐにわかるはずや。すぐに家も見つかるやろ。」
八代目の大宅太郎光国は夜道を古内裏へと向けて歩き出しました。
「これや。これが相馬の古内裏やな。恐ろしい屋敷やなあ。地獄の怨霊が住むに相応しいボロ屋敷や。真っ黒くて、何かが腐ったような嫌な匂いもするで。どこかこのあたりに、シャカンハッチョロの死体が転がっとるとええのやけんど、暗くてよう見えん。あんまり奥には行きとうないで。バケモンどもに見つかったら大ゴトやからな。こんなところで死んだら、大事な名前を譲ってまで生き残った甲斐がおまへんがな。ええと、シャカン、シャカン、シャカンハッチョロの死体はどこかいなっと。痛!誰や!こんなとこに壁を置きよって!頭をぶつけてもうたやないか。」
「ふがあ。」
「きゃあああ!」
「誰だあ!」
「チュウチュウチュウ。」
「なんだ?ネズミか。俺の眠りを邪魔しおって。ぐう。」
「骸骨や、骸骨や、骸骨や。でっかい骸骨が庭先で寝ておったで。ネズミのふりしてなんとかごまかしよってからに、静かに、静かに、静かに、抜き足差し足忍び足、ゆっくり離れるんや。バケモンを起こさんようにな。ふう。危ない危ない。」
「キャハハハ。」
「うふふふふ。」
「なんや?楽しげな笑い声が屋敷の中から聞こえよるで?おや?中には明かりも灯っておるやないか。なんやろ?気になるな。」
「さあ滝夜叉、もう一杯。いい呑みっぷりだ。さすがに地獄を見た女は酒の飲み方も違うね。」
「いやだ、九代目ったらそんなことを言って。さあ、あんたもお呑みよ。あたしだけ呑ませるんじゃずるいよ。」
「おおう!滝夜叉!おめえそんなところに手を置くなよ。男がそんなところを触られるとどうなるのか、知っての狼藉かってんだ。ええ?酒どころじゃなくなっちまうぜ。あはっ。滝夜叉あ。かわいいやつだな。お、お、俺を一体どうしようってんだい?ええ?」
「やだよ九代目。そんなこと、女の口から言わせる気かい?」
「滝夜叉あ、おめえは本当に悪い女だぜ。さあ、もそっとこっちに寄れ。おめえ、あったけえなあ。地獄ってのは熱いとは聞いていたが、おめえの体もやけに熱いぜ。ええ?寒い冬にはぴったりだ。それによう、おめえはなんてえ柔らけえ体をしてやがるんだ。こんなに柔くて、地獄の炎で餅みてえにとろけちまったんだな。地獄の業火に炙られて、ほどよくとろけてしまいましたってんだな。さあ俺の体もとろかしてくれ。こうしておめえの体をピッタリとくっつけてな、おおう、もうとろけちまいそうだ。滝夜叉、最後だ。最後にもう一杯だけ注いでくれ。この盃を呑み干したらな、酒はひとまず休憩だ。」
「もう休憩かい?休憩してどうするつもりだい?ふふ。」
「決まってるじゃねえか。男の口から言わせるなよ。ええ?俺とおめえでさ、一戦交えようってのさ。だいたい俺は最初っからそのつもりでここへきたんだぜ。」
「あん。九代目、戦いの前に、行燈の火を消しておくれよ。」
その様子を障子の隙間から覗いた若い八世大宅太郎光国はもうたまりません。今まさに始まらんとする男と女の秘め事を目の当たりにした八代目、腹の下から湧き上がってくる怒りだかなんだか訳のわからない燃えたぎる情熱に我を失い、バン!と大きな音を立てて障子を開け、抱き合って座る滝夜叉姫と八五郎の前に仁王立ちに立ち塞がりました。
「こら!お前ら!なんやこの有様は!やいシャカン!大事な仕事を忘れよってからに!な、なんや!よりによって、お、女の、そんなところを触って!」
「おお!おめえか!生きていたんだな!」
「九代目、誰だい?この男は?」
「ああ滝夜叉、こいつはな、俺の先代でな、その名もオオヤ、」
「おお!ちゃうちゃう、ちゃうで、わては大宅太郎光国やない。滝夜叉姫を退治しに来た若武者なんかやないで。それはこいつや。この男が大宅太郎光国や。」
「ああそうだ。だからそう言ってるじゃねえか。なあ、俺が九代目でおめえが八代目。二人でオオヤタロウミツクニだ。」
「ああ言ってしまいよった。」
「するとこいつはお前と同じ大宅太郎光国なんだね。ああ道理でこいつの体からは嫌な匂いがすると思った。ずっと昔に嗅いだことのある血の匂いだ。そうだ。この匂いは、京の香りだよ。この男からは都の血の匂いがする。ちくしょう。憎い、憎い、憎い、」
「ちゃう、ちゃう、姫さん、ちょい落ち着きなはれや。まったく何を言うてまんのや。ああ確かにその通り。あんたの言う通りや、わては京の男、八世大宅太郎光国。ま、待てや姫さん、そんな牙を向かんとよろしい。もう死んでまんがな。わてはもう生きとらへん。死んでおます。」
「やっぱりか。やっぱりおめえはあそこで死んじまったか。滝夜叉、安心しろ。こいつはもう死んじまってるんだよ。」
「死んでおます。」
「そうかい?あたしにはまだ生きているようにしか見えないけどねえ。」
「いや死んでおます。やい!九代目!お前がしっかり仕事しとるかと心配で心配で、居ても立ってもおられんようなってあの世から来てみれば、なんやこの体たらく。よりによって殺さねばならぬ相手と、アホみたいにねんごろになりよってからに。こんなことや、わていつまでたっても成仏できひんやないか!」
「すまねえ八代目。いや俺も最初はこいつの首を斬ろうとやってはみたんだがな。情けねえことに、逆に骸骨に食われそうになっちまったのよ。骸骨ってのはな、外で寝ているあいつだよ。見たかい?そう。あのでっけえ奴。八代目さ、聞いてくれ。あいつがあのでけえ口で俺のことを飲み込もうとするからよ。咄嗟に『なんだっててめえらは人を殺す!』って聞いてみたんだ。『そんなに人を殺してどうする!』てな。するとこれがまた意外と話のわかる相手でさ。素直に『復讐だ』って言うじゃねえか。ええ?八代目、いじらしい話だよ。なあ、この滝夜叉姫と骸骨はよ、もう何百年も地獄の炎で焼かれた上に、こうしてまた運よくこの世に出てきたんだぜ。普通だったらよ、まだうら若え娘だ、娑婆の空気に舞い上がっちまってどこかへ遊びに行ったっていいところじゃねえか。それがこいつはよ、健気にもまた親の仇を討とうってんだ。実に親孝行な娘だよ。すっかり感心しちまったね。ええ?まったく実に立派なもんだよ。だけどな、少しばかり地獄にいたのが長すぎたね。もう平安の頃とはすっかり世の中が変わっちまったのを、この娘は知らねえんだ。もちろん外の骸骨の奴に至ってはもっと知らねえよ。あいつは馬鹿だから人を食う以外何にも考えねえからな。姫はなあ、健気にも実の父、平将門公のために再び関東一円を支配に治め、いまだに地獄でくすぶっておられる親父様にこの広い土地を献上しようと企んでおられるんだ。だから俺は聞いたよ。『やい姫、その関東一円ってとこには江戸も入ってるのか?』ってな。するとここにおわします姫様は『江戸とはなんじゃ?』というじゃねえか。ええ?まったく驚いたね。この世に江戸を知らねえ奴がいるたあ夢にも思わなかったよ。『いいかい姫、江戸ってのはな、大川が海へと注ぐところにあるでっけえ町だ。』って教えてやるとな、いや知らねえってのは恐ろしいね、『ああ、そこも関東だえ。では今からそこへ行き、歯向かう者は誰彼かまわず皆殺しにしてしまおう。』なんて呑気なことを言うんだ。だから俺は『おめえさん、大事な一生をつまらねえ皆殺しで終わる気かい?』って聞いたよ。『未来永劫のべつ幕なしに皆殺しを続ける気ですか』ってね。まったくこのお姫様は世間ってもんを知らねえんだ。『江戸にはどんだけの人がいるのかご存知ですか?』ってなもんよ。するとどうよ。『百人くらいかえ?』などと間抜けなことをぬかしやがる。まあ平安の昔はそのくらいだったかもしれねえよ。関東の人間を全部合わせたって百人に毛が生えた程度だったかもしれねえ。だけどよ。今は違うんだ。すっかり時代が変わっちまったのよ。『馬鹿を言うねえ!いいかい姫、江戸ってとこはな、百や二百の人間で収まるようなチンケな町じゃねえんだ。それどころか千でも足りねえ、万でも足りねえ、百万、いや千万の人間でも足りねえくらいの大勢の人間が所狭しとひしめいている町よ。それもおとなしいチンコロみてえな人間ばかりだったら、姫と骸骨の野郎にハハーと平伏してもくれるだろうよ。だけどそうは問屋が卸さねえんだ。江戸ってところはな、いいか、どうしてこうも日本中からこんな奴ばかりが集まってきちまったんだろうって不思議になるくらいの、喧嘩っ早い連中ばっかりがいやがるんだ。こっちが喧嘩なんぞこれっぽっちだって売ってやしねえのにさ、向こうから勝手に買ってくるような気の短え連中が、昼間っから通りの真ん中をウロチョロしているんだ。それだけじゃねえぜ。江戸ってところはな、どうした訳だか知らねえが、侍も大勢いるんだぜ。だいたい姫、おめえは鉄砲を知ってるか?』と聞いたら、八代目!聞いてるか!これまた知らねえって言うじゃねえか!こいつは鉄砲も知らねえで江戸に攻め込もうって言うんだよ。俺はもう驚いたのなんのって!どうやっておめえ、素手と口だけでもって江戸を血祭りに上げようってんだ?この可愛い女の子と骨野郎とでよ!」
「おいおい、九代目、落ち着きや。お前はさっきから何を言うてまんのや?わてはどうしてお前と姫が仲良う酒を呑んどるんか聞いとるんやで。」
「だからよ。こうして教えてやってるんじゃねえか。『江戸のことを教えてくれ』って言うからさ。『敵を倒すにはまず敵を知らねばならぬ』なんて可愛い口でそんなことを言われてみなよ。『うん。じゃあ一緒に敵を倒そうか』ってことになるじゃねえか。こんな綺麗な女に頼まれちゃあ流石の俺も断れねえからさ。『まあそこへ座りなさい』となったわけよ。そうなるとまあシラフじゃいられないよ。何かこうあったまるものが欲しいなっと言ったんだ、俺はさ。するとどうだい?これまた驚くじゃねえか。流石にそこは地獄の魔法使い様だぜ。サラサラっとこのかわいい白魚のような指を振ったと思ったら、あれよあれよという間にほら、ご覧の通りの酒や肴の大宴会。しかも全部上等ときていやがる。こうして酒が入ったらまあ、こっちのもんってやつよ。手に手を取り合いながらコンコンと江戸について説いて聞かせてやっていたってわけだ。なあ滝夜叉。あれ?滝夜叉?おい?おめえ、どこへ行きやがった?さっきは俺にピッタリくっついていたくせに、いつの間にかやけに離れたところにいるじゃねえか。やや!なんでえ!おめえ!今度は八代目とピッタリくっついていやがるな!つい今し方まで俺としっぽりやってたのは一体なんだったんだ!とんでもねえ浮気者だぜ。滝夜叉!戻ってこい!」
「うるさい男だね。醜男は黙っておいでよ。あたしはこっちの色男にいろいろ教えてもらうんだからさ。ねえ八代目。あたしも死人、お前も死人、死人同士で今夜は楽しもうじゃないかえ。」
「さっきまでこいつは臭えって言ってたのによ。あーあ、しなだれかかっちまいやがって。おい、滝夜叉、鼻は曲がらねえか?そいつは京臭えんだろ。」
「馬鹿な男だね。これは雅な香りってんだ。知らないんだねえ。ヤキモチなんて焼いちまってさ。みっともない。だから東男は嫌いだ。野暮なんだよ。それに比べてこっちは間近で見るとますますいい男だねえ。あっちの九代目とは大違い。匂いなんて気にならないよ。恨みだって忘れちまった。だってこんなにいい男だもの。それにもうこっちは死んでいるんだから殺したってしょうがないじゃないのさ。さあ、八代目、呑んでおくれ。二人で仲良くやろうよ。」
「おっとっと。酒が溢れてまう。おおきに。ああ実にうまい酒や。関東の田舎でこんなうまい酒に出会えるとは思いもよらんかったで。滝夜叉、もう一杯注いでくれや。おおきにおおきに。ああ、九代目はうるさくて、わても困っておったんや。さあ滝夜叉、返杯や。今度はわての注ぐ番や。お前も遠慮せんと一気に飲み干してや。」
「西の言葉は耳に心地いいねえ。今夜は酔っちまいそうだよ。」
「ふん。何言ってやがる。」
「おい九代目。外で骸骨と寝ておいでよ。」
「うるせえ滝夜叉、俺はどこへも行かねえぜ。ここで朝まで呑んでやるんだ。てめえの出した酒を全部呑み干してやる。だからどんどん出しやがれ。」
「なんだと!あたしに命令する気かい!」
「滝夜叉、まあええやないか。あんなゲスな男は放っておきや。あんな奴、夜の虫と思えばいないもおんなじや。さあ、盃が空やで。ほれ、わてが注いだる。今夜は二人で楽しもうやないか。」
「ふふ。」
「ふふふ。」
「ふん!」
夜もふけ、左官の八五郎改め九代目大宅太郎光国はいつの間にかその場でぐっすりと寝込んでしまいました。それでも誰かが足の裏を箸か何かで突いている感触に、ようやく少しずつ目を覚ましてきたところです。
「むにゃむにゃ。んん、やめやがれってんだ。俺の足を突かないでくれ。ぐう。」
「シャカン、シャカンハッチョロ、起きろや。声を出さずに起きるんや。静かにな。」
声をひそめ、八五郎を起こそうとしているのは八代目の大宅太郎光国。その片腕にはぐっすりと眠っている可憐な滝夜叉姫を抱いております。彼女の目を覚さないように、できるだけ体を動かさずに、できるだけ声を絞り、できるだけ小さなヒソヒソ声で、必死になって空いている方の手を伸ばし、八五郎の足の裏を箸先で突いて起こそうとしています。
「ぐう。こちとら寝てるんだ。ぐう。突かないでくれよ。ぐうぐう。気持ちよく寝てるんだからさ。むにゃむにゃ。」
「アホ!起きるんや。やいシャカン、早う起きろや。」
「ううん。その喋り方は八代目だな。なんでえ、なんでえ、人が気持ちよく寝てるって言うのによ。ゴチャゴチャ言いやがって。ああ起きたよ。起きましたよ。おめえがうるせえから目が覚めちまった。だいたいおめえ、死人のくせにうるせえぜ。死人てえのはな、もう少し静かにしてるもんだ。なんでえ?まだ真夜中じゃねえか。もう少し呑むか。と言っても酌をしてくれる女はなし、手酌でいかせていただきますよ。」
「シー!静かに!黙れ!姫が起きてまう。」
「ふん。起きろって言ったり、静かにしろと言ったり、おめえの言うことはわからねえよ。八代目、いってえ何をコソコソしていやがる。もっと大きな声で話せってんだ。ええ?お!おめえ女を抱いてるな。いいじゃねえか。女を起こしたくねえってか?まったくいいご身分だぜ。姫は色男の胸でぐっすりお休みだ。おう八代目、いい女をてめえの腕枕で寝かす気分はどうでえ?俺だってな、江戸へ帰りゃあ腕枕をする女の一人や二人、いねえなあ。一人もいねえ。まったく羨ましいぜ。死人のてめえがよ。ああ、それにしてもいい酒だな、これは。いくら呑んでも酔った気がしねえ。」
「ええから黙れ。刀や。刀をくれ。」
「刀ってのは、なんでえ?」
「アホ。お前にやった刀や。それや。お前のわきに置いてあるやつや。」
「ああこれか。これをどうしようってんだ?」
「わてに渡せ。」
「渡してどうする?」
「決まっとるやないか。姫の首を斬るんや。こうしてぐっすりわての腕の中で寝とるうちにさっさと斬り殺してまうんや。またとない絶好の機会やさかいに急がんと。もたもたしとったら起きてまう。さあ刀を、刀をわてに渡せ。」
「何を言っていやがる。寝ている女の首を斬るだと?恐れ入ったよ。八代目がそんな卑怯者だとは夢にも思わなかったぜ。姫の首を取りてえならな、正々堂々起きている時に取りやがれってんだ。寝首をかくような卑怯な真似をするんじゃねえ。そんなことは九代目の俺が許さねえぜ。この九代目オオヤタロウミツクニの目が黒いうちは、たとえ相手が八代目の亡霊であろうとも悪さはさせねえ。ああ、旨い酒だ。」
「ええから渡せ!早よ刀を渡すんや!姫と、外の骸骨がぐっすり寝とるうちに片をつけてしまわんと。こんな機会はもうないんや。起きとるこいつらにわてらが勝てるわけあらへん。そやさかい早よ、早よわてに刀を返せや。」
「嫌だ。」
「なんやて!こうなったら力づくでも奪ったる。姫を起こさんように。ゆっくりと腕をずらして、ゆっくり、ゆっくり、慎重に、姫の、頭を、床に、置く、と、ああ起きひんかった。助かった。さあ、シャカン、刀を渡してもらうで。」
「ふん。てめえみてえなへなちょこに俺から刀が奪えるかってんだ。」
「いいからよこしや。」
「痛!殴りやがったな!」
「お前が刀をよこさんからや!あ痛!なんでわてを殴る!母上にも殴られたことおまへんかったんに!」
「刀は渡さねえぜ!」
「絶対に奪い取ったる!」
ドタン、バタン、ガッシャーン。八代目と九代目、二人の大宅太郎光国の取っ組み合いが始まりました。本来であれば体力に勝る九代目、すなわち八五郎の方が勝つに決まっている喧嘩ですけれども、今夜ばかりは違います。くんずほぐれつ、お互い互角の取っ組み合いとなりました。と申しますのも八五郎、呑みなれないいい酒を長時間に渡って飲みすぎてもうフラフラです。その上寝起きであまり動けないときているところへもってきて、一方、先代の八代目の方といえば実は酒なんて呑んではいない。呑んだふりをして、その実必死になって滝夜叉姫に酒を注ぎ、酔い潰してしまおうと必死に頑張っておりました。そうやってようやく訪れた絶好の機会に、目なんてもう殺気でギラギラと血走っております。これこそ一生に一度あるかないかの千載一遇のまたとない大好機。逃してなるものかと火事場の馬鹿力でもって八五郎から刀を奪おうと襲いかかります。が、そこは生まれながらの貴族の細腕。それでようやく互角の喧嘩。おかげで相馬の古内裏の中はドタンバタンの大騒ぎです。
「ううん。うるさいねえ。何を騒いでいるんだい?あら大変!八代目と九代目が取っ組み合いの大喧嘩をしているじゃないさ。あたしを巡って男同士が取り合いをしているんだね。いい女ってのはつらいね。いやだわ。このままではただでさえ古い大事な内裏を余計に壊されてしまうよ。早く喧嘩を止めないと。これ。二人とも止めなさい。これ。」
ところが二人とも夢中になって喧嘩をしているので、滝夜叉姫の起きたことなどまったく気がつきません。
「だめだ。あたしじゃ埒があかない。これ!骸骨!骸骨!起きておくれ!ちょっと中まで来ておくれ!」
「がおーっ!」
さあ姫のただならぬ叫び声を聞き、『すわ一大事!』と庭で寝ていた巨大な骸骨が屋敷の柱をなぎ倒し、障子を踏み壊して中へ乱入してまいりました。
こうなると流石の九代目大宅太郎光国つまり八五郎も姫と骸骨を起こしてしまったことに気が付きます。一方、必死の八代目大宅太郎光国はそれでもまだ気が付きません。自分が千載一遇の幸運の真っ只中にいると頭から思い込んでしまっているものですから、状況が一変し、危機的になってしまったことに気が付く余裕がないのです。八代目の頭の中はといえば、刀さえ自分の手に取れれば全てが解決する、刀さえあればこの命懸けの使命を無事終わりにできる、刀さえあれば自分は生きて京へ帰れるのだ、ともうカーッとなってすっかり信じ込んでしまっているので、その血走った目には畳の上に転がっている刀だけが見えていました。つまり刀だけしか見えてはいませんでした。
「しまった!」
巨大な骸骨の登場に、肝を潰したのは九代目の八五郎だけ。
「よく来てくれた骸骨。大宅太郎光国を食っておしまい!」
「なに?おい姫!俺たちを殺す気か!ひでえじゃねえか!」
九代目が大声で叫んでも、それでもまだ八代目つまり本物の大宅太郎光国の方は気が付かない。自分が生き残る唯一の方法『早く刀を手にしなければ』のもうそれだけしか頭にないものですから、姫と八五郎のやりとりなど、その耳にはこれっぽっちも入ってはきません。ただ八五郎が姫の言葉にひるんだ一瞬の隙を見て、『今だ!』と素早く刀に飛びつき、『よっしゃ!』と一声上げて、取り上げると、力強く片手の手で鞘を放り投げ、もう片方の手でもってギラリと光る長い刀身を天へと突き上げて、八世大宅太郎光国、一世一代の見せ所とばかりに、その偉大な太刀を頭の上に堂々と大きく振りかぶりました。
「どうやシャカン!これで一件落着や!」
勇ましく見栄を切り、胸を張った若武者、大宅太郎光国の足元には悔しげに歯軋りをする男、八五郎。その脇には呆然と立ちすくむ滝夜叉姫、そして正面には、今まさに屋敷を破壊し、牙を剥き敵に襲い掛からんとする巨大な骸骨。
まさしく歌川国芳の名画『相馬の古内裏』に描かれたそのものの光景が、ここにきてようやく再現されたのであります。
そしてそこに至ってようやく、八代目の大宅太郎光国もまた周囲の状況をことごとく理解いたしました。
「あかん。みんな起きとる。」
「どっちの大宅太郎光国だあ?」
骸骨が首を傾げると、
「そっちだよ!」
滝夜叉姫が叫びます。
「だからどっちだ?」
「俺だ!俺がオオヤタロウミツクニだ!」
八五郎が骸骨に胸を張ります。
「ああこっちか。」
骸骨は頷くと、刀を振りかぶっている方の大宅太郎光国つまり京都からやってきた八代目をむんずと掴みました。
「わあ!やめい!わては、わては、」
「違う!違う!そっちじゃない!」。姫が叫びます。
「そうだ骸骨!姫の言う通りだ!俺が本物のオオヤタロウだ!おい骸骨!そっちは死んだ先代だ!今は俺がオオヤタロウミツクニだ!食うなら俺を食え!」
「わあああ!」
哀れ八世大宅太郎光国は刀ごと骸骨に丸呑みにされてしまいました。
「あーあ。食っちまいやがった。」と姫。
「やい姫!ひでえじゃねえか!」
「何がさ?」
「おめえが骸骨に俺たちを食っちまえって言ったからだろ。八代目、食われちまったじゃねえか!」
「そうかい?」
「そうかい?やけに冷てえなあ。はっ!そういえばおめえ、さっき『そっちじゃない』って叫んでたな。まさかおめえ、食えって言ったのは俺の方で。骸骨に俺を食わせて、その後おめえはあの若え色男と二人っきりでよろしくやろうとしてたんじゃあるめえな。」
「まさか。あたしがそんなこと言うわけないじゃないさ。あたしは骸骨に食うなって叫んだんだよ。お前さん、聞き間違えたのさ。だいたいひどいよ。そうさ。ひどいのはお前さんの方さ。」
「俺のどこがひでえってんだ?」
「だってさ。お前さん、そんなふうに聞こえったってことはさ、あたしをそんな女だと思ってるってことだろ?あたしはさ、お前に惚れている女なんだよ。悔しいじゃないか。ええ?お前さんにはあたしがそんなひどいことを言うような女に見えるのかい?」
「見えるかって言われりゃあ、まあ見えるけどよ。まあしかし、見れば見るほどいい女だな、おめえはよ。」
「さあ、呑み直しましょう。夜はまだ長いよ。」
「あーあ。好きにやってくれ。今日はもう随分人を食って腹一杯になったし、俺はまた外で寝るよ。」と骸骨は外へ出ていきました。
「まったく男と女が食ったり食われたり。ここは吉原みてえだな。」
「おや?江戸にもそんなところがあるのかい?」
「あああるぜ。」
「まあ怖い。」
「おめえさんは地獄しか知らねえからわからねえかもしれねえがな、天国ってとこも案外恐ろしいところかもわからねえぜ。」
「ふん。どっちだってかまいやしないよ。あたしにはどこへ行ったって地獄だからさ。だけど惜しいことをしたねえ、あいつ、いい男だったもの。それを骸骨の奴、一飲みにしやがってさ。もったいないことをしたよ。」
「おい滝夜叉、俺にヤキモチを焼かせようってんだな。どこまでも憎い女だぜ。だけどいいことを教えてやる。八代目の色男はほっときゃまた出てくるぜ。ああ本当だ。さっきだって死んでたくせに出てきやがったんだからよ。今度だっておめえの顔見たさにまた出てくるに決まってらあな。だからよ、あいつがまた現れるまでは二人でしっぽり呑もうじゃねえか。さあ、その旨い酒を俺に注いでくれ。なに心配するこたあねえ、八代目のオオヤタロウミツクニはよ、遅くとも明日の朝にゃあまたひょっこりと顔を出すぜ。骸骨のケツの穴からな。」
「うん。お前さんみたいにね。」
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