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猛暑よさらば!中山道和田宿本陣と諏訪地域を行く【和田宿・諏訪大社編】

前回の記事の続きで、こちらは後半となります。


中山道和田宿

中山道和田宿は、現在で言う小県郡長和町にあった宿場町だ。
位置としては岡谷から佐久の間にあり、そこには中山道の難所と言われた和田峠が立ちはだかっている。
かつての和田峠には茶屋もあったようで、その往来の多さを物語っていると言えよう。

現代の和田峠も道を通すには容易ではなかったようで、国道142号の旧道は狭隘な幅員でヘアピンカーブを描きながら峠を越している。
現代の中山道とも言うべき重要な道路にしては極めて貧弱な作りであったので、ここを容易に通り抜けられるようバイパス道路として新和田トンネル有料道路が建設されている。
そんな有料道路も令和4年3月31日をもって償還が完了し、現在は無料で通行することが出来るようになった。
ここで通行料金を支払って草津や軽井沢まで行っていたのが懐かしい。

道の駅和田宿ステーション

ペンションから国道142号まで降り、国道を東進して新和田トンネルを越した先にある道の駅で少しの休憩と道の確認をした。
一部が木製の大きな歩道橋で和田宿方面へ徒歩で向かうことも出来るが、真夏にそんな事をすると命に関わるので時期は考えたほうが良いだろう。

これは道の駅の案内標識なのだが、あまりにも白すぎて目を凝らさないと何が書いてあるのか分からない
いくら何でも色が落ちたとは思えないので、後で塗装でもするつもりなのだろうか。
こういうものは通常塗装されてから設置されるものだと思うのだが、詳細はよく分からない。


和田宿本陣

ここが中山道和田宿の本陣で、現存する数少ない本陣の一つだ。
本陣とは、江戸時代に大名や旗本、幕府の役人などの身分の高い者だけが利用することが出来たVIP専用宿泊施設のことを言う。
当然ながら一般の旅行者は利用できないが、VIPが引き連れている家臣や従者全てが利用できたわけではなかったので、分散して脇本陣や旅籠はたご(一般の宿泊施設)を利用していたという。

門は復元されたものであり、経緯が記されている

本陣裏手には無料の駐車場があり、駐車場には困らなかった。
むしろ裏から見る本陣もなかなかよい。


板の間(資料館区画)

本陣内は資料館でもあり、和田宿や和田峠などに関する様々な資料が展示されていた。
中でも明治になった直後くらいに撮られた和田宿や和田峠の古写真は、特に興味をそそるものがあった。
なんといっても時代劇でしか見ないような格好をした人たちや建物が克明に映されているのだ

百聞は一見に如かずという。
私の拙い文章ではこれ以上伝えることが難しいが、そうした古写真の魅力や感動というものは実際に見てみるのが一番だろう。


屋敷内部

時代劇で出てきそうな光景

不覚にも写真を撮りそこねてしまったが、職員の方から雨戸の用途について教えてもらったことが印象に残っている。
雨戸は日光や風雨を防ぐためだけにあると思っていたのだが、実は暑さ対策にも使うものなのだという。

暑い日は雨戸を全開にしたほうが風通しが良いように思えるが、雨戸を使ってあえて半開きくらいにすることで、風の通り道を狭めて強い風を発生させるというのだ。
今よりも気温が低いとは言え、エアコンどころか扇風機も無かった時代の先人たちの知恵に感心してしまった。


お手洗い

屋敷の中を見ていくと、今も昔も必要不可欠な設備が目に入った。
お食事中にこの記事を読んでいる人がいたら勘弁してほしい。

本陣などで殿様が便所を利用する際は、お付きの医者が排泄物から殿様の健康状態を確認していたという。
なお、この便所は居室棟という本陣の経営者の居住空間にあるので、殿様が利用する便所ではない。

こちらは何と手洗い場だ。
使い方としては左の陶器に入れられた水を右の柄杓で汲み、竹製の格子の上で洗う。
格子には隙間があるので、そこから外へ排水されるようになっているのだ。
江戸時代のお手洗いは面白い構造をしている。


駕籠

本陣は二階建てとなっており、ここでは4種類の駕籠が展示されていた。
江戸時代の乗り物としてお馴染みの乗り物で、駕籠かきという専門の男たちによって担がれていた。

一番左にある駕籠は、時代劇などで最も目にする形状をした武家の駕籠だ。
庶民の使う駕籠とは異なりスライドドアを完備しており、プライバシーに配慮した作りになっている

完全自動のスライドドア。ただし動力は人力(家臣)
さすがに内装は豪華

いかに武家用の上等な駕籠とはいえ、内部はかなり狭い。
人力故に振動も大きいだろうし、窮屈で乗り心地が良さそうには見えない。
駕籠のランクはファーストクラスだろうが、こんな窮屈ではエコノミークラス症候群になってしまいそうだ

これが本当のエコノミークラス

和田宿本陣には面白い駕籠が展示されている。
和田宿本陣では合計4種類の籠が展示されていて、そのうちの一種類は上述した武家の駕籠だ。
しかし、残りの3つは武家用の駕籠ではない。
四つ手駕籠と呼ばれる庶民用の簡素な駕籠なのだ。

奥のものは不完全な状態で保管されている

武家用の駕籠も狭かったが、こちらはそれよりもさらに狭い。
屋根は一応あり、側面も畳の上敷きのようなもので隠すことが出来るようになっている。
多少はプライバシーに配慮されているようだ
竹を編んだような作りで隙間が多いが、それ故に通気性は良さそうな印象を受ける。
むしろ武家用の駕籠よりも涼しいのかもしれない。

武士用の駕籠こうした庶民用の駕籠が展示されている

ビジネスクラス

こちらの町駕籠は三方を覆われており、少し豪華なつくりになっている。
裕福な町人などが使ったのだろうか。


旧役場庁舎鬼瓦

藩政において政庁として使用されてきた城の御殿は、明治時代になり幕藩体制が終りを迎えた後もその多くが新政府の役所として転用された。
要するに看板を掛け替えたに過ぎない。
現代においても、市町村合併により消滅した自治体の村役場や町役場の庁舎が引き続き分庁舎や出張所等として利用されているのと似たようなものだ(厳密に言えば出張所や分庁舎になり規模を縮小されているが)。

そうした城の御殿と同じように、この和田宿本陣も旧和田村役場として長い期間使用されてきた。
本陣は宿泊施設ではあるが、ほぼ全て畳敷きの和室という点において城の御殿と大差はない。
ベッドやクローゼットが備え付けられている洋室とは異なり、大きな改修が不要であったのも大きいのではないか。


旅籠大黒屋

旅籠はたごとは江戸時代における宿泊施設の名称の一つであり、要するに一般的なホテルや旅館だと思っていいだろう。
本陣そのものは先述したとおり大名や幕府役人などの上級国民専用ホテルであり、一般の宿泊客は旅籠を利用していたのだ。
ここは和田宿内にある旅籠はたごで、こちらも内部が公開されている。
本陣よりもさらに観光客は少なく貸切状態だった。


本陣と大黒屋の見物を終え、少しだけ周辺を歩いて回ることにした。
今歩いている道こそが旧中山道だ。

中山道に埋め込まれた絵柄のついたマンホールだが、中山道ではなく「海道」という二文字が見える。
この時は何のことかよく分からなかったが、帰宅してからよく見てみると「木曽海道」と書いてあるようだ。
さらに調べてみたところ、「木曽海道六十九次」という歌川広重による浮世絵版画の連作のタイトルから取られたものだった。


諏訪大社

長野の神社で最も有名な神社といえば、それは恐らく諏訪大社だろう。
全国各地にある諏訪神社の総本社として名高い神社だが、いざ訪れようと思って調べてみると一瞬迷ってしまうと思う。
それもそのはず、なんと諏訪大社というのは4箇所にも分かれて立地しているのだ
これは行ったことがあるか、あるいは調べたことがある人しか知らないだろう。

赤枠は上社、青枠は下社

同一の神社が複数の場所に分散して立地していることは他の神社にもあるが、やはり4箇所というのは多い。
そんな事を考えながら伊勢神宮はどうだったかなと調べていたら、4箇所を上回り7箇所にも点在していたことが判明した
伊勢神宮は内宮と外宮の二箇所だけだと思っていたので、これもいい勉強になったとしみじみ思う。
世の中は本当に知らないことばかりだ。
伊勢神宮には内宮と外宮に各一回しか行ったことがないので、機会を捉えてまたお伊勢参りに行きたいと思っている。.

お伊勢さんの話に逸れてしまったが、諏訪大社は大きく上社かみしゃの二社と下社しもしゃの二社に分かれている。
諏訪湖を挟んで北側に位置するのが春宮秋宮と呼ばれる下社で、対して南側に位置するのが前宮本宮と呼ばれる上社だ。
このうち拝殿や本殿などの建造物は、上社前宮を除きいずれも重要文化財として指定を受けている。

諏訪大社下社 春宮

右に曲がってしばらくすると旧中山道へ合流する

和田宿から国道142号を使って諏訪市へ向かうと、最も近い位置にあるのが下社の春宮だ。
旧中山道の直ぐ側にあり、江戸時代から多くの参拝者が居たのだろう。

正面に見えるのは神楽殿
拝殿(重要文化財)

ここは春宮から南へ延びる参道なのだが、よく分からない屋根付き橋が道路の真ん中に居座っている
詳細を知らない人でも、この光景を目にすれば真ん中の橋について気にせずにはいられないだろう。

さて、この時は私も詳しく調べていなかったので知らなかったのだが、帰宅してから調べてみるとかなり凄いものであることが判明した。
屋根付き橋の名前は下馬橋と言い、なんと室町時代に作られたものだったのだ
これは諏訪大社における建造物では最古のものだという。

そんな貴重なものがしれっと道路の真ん中にあるのは奇跡のように思える。
そして何より、これほどの建造物を写真一枚撮影しただけで済ませてしまったことに今さら後悔してしまった
もっとも諏訪程度なら日帰りも可能な範囲なので、近くを通ることがあれば是非再訪したいところだ。


諏訪大社下社 秋宮

旧中山道沿いに面している春宮と同じく、春宮から旧中山道を少し南下したところに鎮座しているのが下社秋宮だ。
下社がある地域は下諏訪宿という旧中山道及び甲州街道の宿場町にあたるが、この秋宮の辺りがまさに甲州街道の終点となっていたようだ。

拝殿(重要文化財)

峠の釜めし(荻野屋諏訪店)

横川名物の駅弁として有名な峠の釜めしは、群馬県のみならず長野県でも複数の店舗を構えている。
その一つが荻野屋諏訪店で、諏訪でお昼を食べる時は大抵ここでお昼を食べているのだ。

釜飯はもちろん、付属する香の物も非常においしい
峠の釜めしといえば群馬、群馬といえば頭文字D
独創的な顔はめパネル

諏訪大社上社 前宮

峠の釜めしでお腹が満たされたところで、いよいよ次は諏訪大社の上社へ向かった。
荻野屋諏訪店は中央道諏訪ICの直ぐ近くに立地しているが、実は諏訪大社の上社も近い距離にある。
基本的には引き返す必要が無いような経路で目的地を設定する方が旅はしやすい。

赤枠はおぎのや諏訪店で、西側の青枠が上社本宮、南側が前宮だ
前宮一之御柱とある
本殿

本殿などはいずれも昭和初期に再建されたものなので、重要文化財等の指定を受けているものはないようだ。

前宮ニ之御柱
水質の優れた湧き水だそうだ

駐車場は無料のものが複数ある。
一番低い場所にある平面駐車場でもよいが、本殿や社務所に近い所に駐車したければ、私が駐車した少し上の方にある駐車場を使うといいだろう。


諏訪大社上社 本宮

最後に訪れたのは上社本宮だ。
諏訪大社の四社の中でも最も建造物が残っているそうで、本宮という名前からしてもここが一番主たる神社なのかと思える。
詳しくは分からないが、どこが格上とかいう序列は無さそうだ。

入口御門 布橋(重要文化財)

こちらの象は雷電為右衛門という江戸時代の力士の銅像だ。
番付は当時最高位の大関だったという。
何がそれほど凄いのか分からなかったので調べてみたところ、なんと歴代一位勝率96.2%という圧倒的な強さを持った力士だった。

ここ最近の力士で言うと横綱白鵬が82.6%で歴代15位だそうで、その強さは尋常ではなかったようだ。
江戸時代の日本人は今よりも小柄で身長も低かったはずだが、そんな中で197センチもの巨漢だったという。

高島社
本宮一之御柱
勅願殿(重要文化財)
参拝所

元禄赤穂事件で討ち取られたことで有名な吉良上野介の孫の吉良義周の墓があった。
義周は改易になった後に諏訪高島藩預かりとなり、高島城で幽閉されている間に病死したのだという。

諏訪大社の上社と下社の全てを参拝することを四社まいりというそうで、これをすると小銭入れをいただくことが出来る。
神社での参拝には小銭が欠かせないので、実に神社らしい実用的なお返しだ。


これにて2日間の長野旅行は終了だ。
たった2日だが、様々な文化財などを見学すること出来たので、かなり充実した旅になっていたと思う。
また避暑と観光を兼ねて訪れたい。

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