龍郷柄のルーツを探す
龍郷柄のルーツをめぐって
龍郷柄の起源を技術的な面から辿っていきます。
大島紬が生産されたころは手括りでの絣作りであったため、小柄しか生産されていなかったのです。大正5年頃に鹿児島の人で笠利(喜瀬)の人を妻にしていた得冨勘四郎氏が「交代締め」の発明し、それまでの小柄から大柄作りが成されるようになりました。初期のころは「交代締め」に挑戦する人がいましたが失敗する人が多く、なかなかうまくその技術を使いこなせなかったようです。
当初は経絣のみにしか締め機は利用されなかったようです、つまり手括りとの併用で紬作りがなされていたようです。
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この点について私は締め杼を置く「締め箱」の考案によるところが大きいと思います、失敗した人達の記録によりますと「交代締め」の杼は30から50本を使います、それを順番に締めて行かなければならず一本でも順番が狂うと後の作業に支障をきたすのです、その原因は「締め箱」の構造にあったのです、それまでは一斗缶に杼を入れていたのです、その工程では杼を移し替える時に順番がバラバラに成るのです、これを工夫したのが「締め箱」なんです、実際に作業をしてみるとそれが実感として解るのですが、現代の「締め機技術者」もそれを実感している人は少ないと思います。――――当たり前に存在している物ですから
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この喜瀬飛び又は赤木名飛びを原型にしてさらに発展していき現在の龍郷柄へと繋がっていったのではないかと考えられる。 私の手元に大正時代の図案がありますが、それらも概ね小柄から小中柄が多くみられ、時代を経るに従い大柄の幾何学柄へと移っていきました。 大島紬の技術変遷の中で交代締めの前に交代手括りが富山実秀氏により考案されています、それをヒントにして交代締めが考案されたのではないかと考えられます。(重村の私見です)
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その以前には昇庸実の弟で登山家へ養子に行った笠利(屋仁)の登山伊次郎氏により「箱積り」が考案されてあり緯絣の大柄が作られています。
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龍郷柄はそれほど古い柄ではありません、徳留勘四郎氏が交代締めを考案した後に、当時の笠利村の喜瀬にて喜瀬柄を考案したのが発祥だと考えられます(徳留勘四郎氏は鹿児島の人で喜瀬の人を嫁にしていた)、その後地空き部分にソテツ葉をアレンジした模様を入れたり、勲章柄を取り入れたものが現在の龍郷柄として発展したものと考えられます。
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手括りの時代は自然をヒントに柄を考案していました、この図案は方眼紙に書き現される以前の模様を方眼紙上に書き起こした図案です。
龍郷柄のルーツを探す旅はこれからも続くと思います、続編をお楽しみください。