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白鳥の降る夜(小説)

 銀河が大きく旋回した時、その先端が白鳥を掠めた。普段は滅多に起こらないことだ。けれど白鳥は随分と年をとっていて、目が悪かったから仕方なかった。あるいは銀河を仲間の群れと思って近づいたのかもしれない。彼らと逸れてから途方もない時間が過ぎていたけれど、白鳥の脳裏には仲間たちの顔がまだ鮮やかに焼きついていたのだ。
 最期の時にも白鳥は、親しかった者たちの姿を思い浮かべていた。銀河に纏わりついた小惑星が飛礫のように白鳥を襲い、その身体を砕いた瞬間、人間でいうなら微笑に当たる表情が彼の顔には浮かんでいた。 
    粉々になった白鳥の身体は宇宙を漂い、大方は生まれる前の遥かな時へと還っていった。けれど一部は遠くの星に流れついた。白鳥自身は見たことも聞いたこともない蒼い星である。今やひらひらと舞い落ちるほどに細かな欠片となった白鳥の身体は、その星の小さな島国のある街にそっと降り注いだ。
 
 健一が野外幻燈会なるものを訪ねたのは、ほんの気まぐれからだった。やけに洒落た名の催しだが、要は外で映画を映して車から鑑賞するというものである。上映されるのは古いフランス映画だった。ずっと昔に観た覚えはあるが、正直なところ内容は思い出せない。妻と一緒に行ったことだけは覚えていた。その妻も今はおらず、思い出話をすることも叶わないのに、いったい何故こんなところへ来たのだろう。空いた場所に車を停めながら、健一は自問した。しかし後ろに車が停まってしまい、帰ることもできなくなったのだった。
 会場は予想外に混んでいて健一を驚かせた。皆、退屈しているのかもしれない。車の中の人々の顔は窺えるようで窺えず、普通の映画館より孤独が応えない。そんなところも人気の理由だろうかと健一は思った。
 よく晴れた、月の美しい夜だった。冬のさなかというのに雪の気配もない。この街ではごく当たり前のことなのだが、三十年近くここで暮らしていながら、健一は未だに故郷の町の冬を忘れられずにいたのだ。冬は雪が降るものだ。少なくとも健一にとってはそうだった。毎晩、音もなく積もる雪。闇の中、仄白く浮かぶ積雪の地。この世のものとは思えぬ静けさ。自然の荘厳さへの畏怖。幼い頃に感じた雪に対するさまざまな思いが、不意に健一の胸に甦った。
 とはいえ——それはいってみれば遠い憧れのようなものだ。冬でもからりと晴れ、陽の燦々と降り注ぐこの地に暮らしてみれば、雪景色の荘厳さよりも除雪という不毛な作業の方がよほど怖ろしく思える。雪などなく快適に暮らせるのが一番だ。そもそも故郷の町なら、冬場に外で映画だって無理だろう。銀幕も車も、雪にすっぽり埋もれてしまう。町を離れたあの日から、帰る気もなく今日まで思い出しもしなかったのに、急にどうしたというのか。古い映画と聞いて感傷的になっているのかもしれない。上映開始までには、まだ幾らかあった。健一はコーヒーを求めて外に出た。
 
 とうに日暮れの時間を過ぎ、周囲は濃い闇に包まれていた。ライトに照らされた会場だけが場違いに明るい。光源の加減か、自身の影が複数揺らめく通路に妙に幻想的なものを感じながら歩を進める。ノイズの入った音楽が流れ、少し灯りが落ちて、銀幕にモノクロの映像が映し出された。
    異国の街並みだ。高い塔を舐めるように映す。その動きにつられて上を見たとき、ちらちらと白いものが舞い降りてくることに健一は気づいた。
 雪、と咄嗟に思った。だが、そんなはずはない。それほどの寒さではないし、第一、空に雲はない。影同様、これも光の加減だろうか。そうも考えたが違った。白いそれは、たちまち見紛うことなどあり得ないほどに降り始めた。観客たちも騒めき出し、一様に車から降りて空を仰ぐ。健一も、ぼんやり口を開けたまま空を見ていた。
 光と闇が混じり、紺青に見える宙から絶え間なく降り注ぐもの。見上げていれば、まるで水底にいるような心持ちとなる。これはやはり雪だ。雪以外の何かであるはずがない。健一は強く思った。いや、実際のところ、それはあの白鳥の欠片だったのだが、まさか彼にわかるはずもない。久しぶりに雪を見たと心躍らせる彼が知る必要もないことだ。ふわり舞い散る白鳥の破片に覆われて、車も健一も立ち尽くす人々も、やがて白く染まった。
 
 誰かが大きな声をあげた。何ごとかとようやく宙から目を離し、痛み出した首筋を押さえながらそちらを見る。銀幕だ。ちらつく雪の向こうに、草原が映っている。その画像に重なり、何か大きなものの姿が浮かんでいた。銀幕の映像が途切れた僅かな間に、その姿が翼を広げた鳥であることを認めた。
 あれは、白鳥だ。そう健一は確信した。子供の頃に何度も見た。健一の故郷の町には白鳥が飛来する湖があるのだ。冬の始まりは、この鳥たちの鳴き声とともに訪れる。毎朝毎晩、餌を求めて湖から飛び立ち、また帰ってくる白鳥を仰いでは、冬の一日の短さを感じたものだ。
 そして――白鳥に餌を与える父の姿。不意に眼裏に浮かんだ像に、健一はコーヒーを落としかけるほどに動揺した。長らく忘れていたことだ。そういえば、そんな出来事もあった。白鳥を見るため家族で湖に出かけたのだ。餌を求めて岸にまであがってきた白鳥は思いがけず大きく、幼い健一は怯えて後退った。殆ど泣き出さんばかりだった彼を父は優しく抱きとめて、大丈夫だから餌を撒いてみろと言ったのだ。
 言われるまま渡された餌を撒けば、白鳥だけでなく鴨まで寄ってきて、皆熱心に啄み始めた。その様はなかなかに面白く、今まで怖がっていたことも忘れて健一は夢中で餌を撒いた。それから出店で蒸気パンと呼ばれる甘い蒸しパンを買って貰って食べた。楽しい一日だった。今思えば、あの頃はとても幸せだったのだろう。
 父の勤めていた会社が倒産したのは、その少し後のことだ。思うように次の仕事が見つからず、父は酒に溺れていった。暴力こそなかったが、いつも不機嫌で怒鳴ってばかりいた。高校生になった健一は父と諍うことが多くなり、母はその度悲しんだ。悲劇といえば悲劇だ。しかし、よくある話でもある。健一は奨学金を貰えるよう必死で勉強し、進学先に県外の大学を選んだ。家を出たかったのだ。不甲斐ない父とも、その父と別れることのできない弱い母とも、もう一緒にはいられなかった。
 雪はますます降って、もはや銀幕もよく見えないほどだったが、なぜか全く寒くなかった。そういえば雪も冷たくないのである。まるで夢の中にいるようだ。巨大な白鳥は、雪に見え隠れしながら会場の上を飛んでいた。皆、呆然とその姿を目で追っていた。
 あの白鳥は、なぜ一羽きりなのだろう。再び空を見上げながら、健一は思った。白鳥は普通、仲間と飛ぶものではないか。あれも自分と同じく孤独なのだろうか。だからこんなに激しい雪の中、惑うように飛んでいるのか。
    妻に先立たれ子供もなく、身軽でよいと思っていたはずなのに、近頃は一人きりが身に染みる。音もなく飛ぶ鳥の姿は、その大きさとは裏腹に酷く儚げで、今や健一には奇妙なくらい自身の姿と重なって見えるのだった。
 父は、今の健一より十も若い齢で亡くなった。わだかまりを捨てられず、結局葬式にも行けなかった。せめて母のことは呼び寄せて一緒に暮らそうと思っていたのに、それもできないままだった。母の弔いをしたきり、まともに墓参りもしていない。なぜそれほどまでに片意地を張ってしまったのか。
 父より長く生きた今、健一にも父のかつての振る舞いが幾らか理解できる気はしていた。人は弱い。総じて弱いものなのだ。些細なきっかけで、持っているすべてを失う羽目になることもあろう。健一自身はそうはならなかったが、それはただ少しばかり運がよかったからに過ぎない。弱さは罪ではない。少なくとも、息子が墓にすら訪れぬといった罰を食らうほどのものではないはずだ。
 不思議な浮遊感があった。自身も鳥になって飛び立てる、そんな感覚が不意に健一を包んだ。知らぬうちに手足を捉えていた枷が音を立てて外れるようだった。翼が大きく広がる。行きたいところを目指してひたすら羽ばたく。そう、故郷の町だ。あの町へ帰るのだ。
    底冷えのする夜の蒼白い静けさが自分を待っている。降り続く白い欠片の中で、健一は口元に微かな笑みを浮かべた。知る者は誰もいないが、それは最期の時にあの白鳥の顔に浮かんだものと同じ類の微笑みだった。
 
 白く積もった雪――と思われたもの――は、一夜のうちに風に散って消えた。幻燈会に集った人々は、いずれも皆、不可思議な降雪と鳥の幻影とに惑わされていた。ある者は、星々の間を飛翔するような幻を見た。ある者は、既にこの世にはいない古い友人の気配を感じた。ある者は無性に何かを懐かしむ心持ちとなって、涙を流しながら帰宅した。そして心の揺らぎに耐え切れない者は、何もかもを会場の演出と決めつけて済ませようとした。
 すべてはあの白鳥のせいだった。極小の破片となって尚その身体に残り続けた白鳥の記憶が、触れた者の心にさざ波を立てたのだ。だが無論、人々にそんなことがわかるはずもない。さまざまな憶測が飛び交い、その出来事は暫く地元の新聞を賑わせたが、決意どおり故郷の町へと発った健一がそれを目にすることはなかった。〈完〉