無題(1)

とある手書き風フォントをいじらなくてはいけなくなってしまったので、対応文字などを確認するために、ない語彙をネットから引っ張り出して駄文を錬成しました。そのまま捨ててしまうのも悲しいので、とりあえずここに供養でもしておきます。

おはようございます。本日、2020年5月11日も、いつもと何ら変わらぬ素敵な朝がやってまいりました。丑三つ時の魑魅魍魎達はどこへやら。鳥のさえずりは静かな街に高らかに響き渡り、澄んだ空はどこまでも青く美しく広がっています。α-波を聞いて、無理やりぐっすりとした眠りについた方々も、そろそろ起床の刻が近づいていることでしょう。素敵な夢が見られたと良いのですが、どうも現実はそれほど甘くないようで、寝覚めの良い夢などは簡単に見られるわけでもないようです。夢というものは現実以上に薄情なもので――いえ、もしかしたら現実よりも情があってのことなのかも知れませんが――、兎にも角にも、大抵の夢は、貴方の周囲で見知らぬ者が跳梁跋扈して貴方を不幸に貶めるのです。ええ、勿論、他にもいろいろな夢を見ることでしょう。まず手始めに、悪夢について語ることと致しましょうか。悪夢と一口に言っても、それは多種多様。前述したように貴方が誰かに不幸にされるもの、また逆に貴方が誰かを不幸にするもの、もしかしたら誰も彼も皆が不幸になるもの……。当然です。誰かを不幸にするのに、梟雄である必要もなければ、炯眼や睥睨を向けたり、殘虐非道な行いをしたりする必要もありません。ええ、そうです。世間には幾多もの人間が紡ぎ出した、夥しい数の文章が、絵画が、映像が、物語が、これでもかこれでもかと静かに蠢きまわっています。そうは言っても、事実は小説よりも奇なりと言ったところでしょうか、残酷な創作物に典型的である、老獪な手段を用いて他人を貶めるような、鷹揚とした人でさえ驫麤にしたくなるような、そんな生易しいものは、現実にはそうそうあったものではありません。(はい。こんな熟語が存在しないということは十二分によく分かっています。ただ、少し表現を強調したかっただけなのです。)現実は、そう、もっと煩瑣で、右も左も分からないうちに、ほんの毫かな、見えるとも見えぬとも知れぬような僅かな光に、一縷の望みを懸けて進む日々の連続なのです。何事も禍根となる可能性を秘め、そしてそれはまるで騒擾する厄災を呼ぶ漁火であるかのように振る舞うのです。話が大分逸れてしまいました。とにかく、貴方が見る悪夢は、そのどれもが静謐な日々を穏便に過ごそうと考えている貴方にとっては頓に憂鬱で、朝になって夢から醒めた貴方はきっと夢の中の自分自身に憐憫な眼差しを向けたくなることでしょう。しかし、夢の中の貴方とは一体何者なのでしょう。この非情な世界でも、無難で不聊な日々を送る貴方から見れば、まるでそれは別人であるかのように思われるかも知れません。なぜなら、今までは、忌憚されることの多い悪夢について――話が逸れたことは気にしないでください――淡々と綴ってきましたが、夢の中の貴方は鉑なり金なりを、貴方にとっての鉄や銅のごとく簡単に手に入れることも出来ましょう。貴方が男なのか女なのかなど私の知る由もないことですが、〝彼〟は貴方よりも遥かに起伏に富んだ人生を送っているのです。貴方とは別の誰かであろうと考えるのも無理はありません。それに、仮に同一の存在だったとしましょう。もしそうなら、一体何処の誰が、私や貴方の住む「此方側」の世界の優位性を示せるのでしょうか。無論、誰もそのようなことは出来ません。残念なことに、どちらの世界が本物なのかを考えることなど、無意味なことでしかないのです。どちらの世界が開闢の刻を経験して甄陶された世界であるのか、そんなものは瑣細な問題でしかない、そういうことを意味するのかも知れません。それならば、私達の住む世界は何故に「この世界」なのでしょうか。先程、この世には沢山の物語があると述べました。しかし、就中「神話」と呼ばれる疇の物語はその多くが有史以前の古くから言い伝えられているのにも関わらず、幾つもの類似性が指摘されています。私がそれらに興味があることはさておき、この奇妙奇天烈な類似性は、私達が本物の世界について探究するにあたって、必ずや何某かの道標となることでしょう。それどころか、これに敷衍することすら出来ないような論を世に出した暁には、唯の謬見に過ぎない、と、強力な論拠を持って反駁されることもあるのかもしれません。話が逸れに逸れてしまいました。最早私の稚拙な文章構成能力では到底軌道修正をなすことなどままなりません。私にとってこの世界が何であるか、それだけを残して筆を置くこととしましょう。私にとって、この世界は存在しようがしまいが知ったことではありません。元来、私の知るもの全て、唯其れだけが世界を構成するものとなり得るのです。……これ以上の詳細を述べるのに、蒙昧な私の語彙は不足しすぎています。これを読んだ貴方が何を思うのかは皆目見当もつきませんが、ここまで開き直るような、同じ轍を踏むようなことはして頂きたくありません。最後に一つ、どうかこの冗長で稚拙で無意味で、矜持の破片もない文章を読んで時間を浪費してしまったことを後悔するようなことの無いように、東雲が陽に照らされる、美しくも醜く、そして儚いこの世界の「外」で生きていってください。恐らく、貴方が私の世界を構成するようになる瞬間が訪れる可能性は、限りなく低いものでしょうから。