調教とか調声とか調整とかの呼び名の話
音声合成ソフトの声色を自分好みにする作業には主に“調整”、“調声”、“調教”の3つの呼び名がある。私は特に何の疑問も抱かずになんとなく“調声”と呼んできたのだが、どうやら“調教”はやや不適切な表現を連想させるから“調声”や“調整”の方が良いという議論がしばしば起こるようである。
ところがだ。考えてみてほしい。“調教”という表現が不適切に感じられるのは、それが本来生物に対して何かを強制することを示す言葉だからだろう。つまり、“調教”という表現には、その合成音声の裏に何らかの生物、つまりキャラクターが存在していることを暗に仮定しているわけである。
そして、音声合成ソフトは大抵の場合、あるキャラクターを作り、そのキャラクターに発声させることが出来るソフトとして紹介される。すなわち、あの声の裏には実際にキャラクターが“いる”のだ。ということは、“調声”や“調整”は人格を持つ彼ら彼女らに対して非道徳的な行為をしているように連想される“調教”よりももっと非道徳的な表現なのではないだろうか。
なぜなら、まず“調声”は彼ら彼女らの人格ではなく、その声のみに着目している。これでは、裏に人格を有さない無機質な自動音声と同一視していることになる。要するに、彼ら彼女らを“生物”としては見ていないのである。“調整”はもっと残酷だ。理由は言うまでもないだろう。そう、もはや声にさえ目を向けていないのだから。
そう考えてみると、一番非人間的に扱っているように捉えられることのある“調教”という表現は、それでも生物として、人間としてキャラクターを認識している以上、もはや他の2つよりも人間的に扱っている表現であると言うほかないのではないか。
と、ここまで考えてみたところで、私はそもそも裏に存在するのが実際の人間である声優や、もっといえば俳優でさえも、その演じる役と演者本人とをある程度切り離して考えてしまっていることに気が付いて、それなら多分私が使うのに一番適した表現は“調声”なんだろうというところに落ち着いた。
この表現の持つある意味での残酷さを常に頭の片隅に置きながら、今後も私は“調声”という表現を使っていこうと思う。とにかく、誰がどう呼ぼうと、きっとそれはその人なりの信念によるもので、他人がとやかく言う筋合いはないだろう。