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アイドルとわたし SNSで発信するオタクは「偉い」のか?

アイドルを好きになって、SNSで発信をすることについて考えている。発信、というとなんか違和感があって、SNSもブログも写真も、自分が楽しいと思った日々の気持ちを残したいなと思ってやっていて、何度も見返したり読み返したりできるように、そしてたまに誰かに届けばいいなと思ってこうして人に見える場所に置いたりする。

記憶するために

昔からWebが大好きで、小学校のころに出会って衝撃を受けた。疑問に思ったことを調べるとすぐ答えが返ってくるし、関連リンクを踏むといつまでも活字が読めた。何より、人の頭を覗き見ているようで好きだった。普段暮らしていたら到底知り得ない大人の考えていることが読める場所だった。そこでは年齢や性別のような煩わしい属性からは離れて、ハンドルネームだけがわたしを表すものとして存在した。電話線を占有して飽きもせず毎日パソコンにかじりついた。

わたしはすぐ忘れてしまうたちで、どんなに好きな漫画やアニメも楽しかった思い出だけが残って中身は全部すっぽり忘れていることがよくある。その気持ちをどうにかして、せっかくならより鮮烈に、より鮮明に残したいと思っていた。写真を始めたのもそんな理由だった、アイドルを好きになったけどしばらくライブがなくて、カメコさんがアルバムにまとめてくれていた昔の写真を掘り出して、ライブで汗が飛び散る様子とか屋外のリリースイベントでキラキラに輝く笑顔を見て、これだ!と思った。カメラを買ってから1年以上、毎公演写真を撮ってレタッチをしてその日のうちにSNSにアップするようにした。より強く記憶に焼き付けられるようにやれることは全部やろうと思って、どんなに下手くそでも下手くそなりに色々と調べて試した。後で見返せるようにGooglePhotoでアルバムにした。

「好き」はいつも私の原動力だった。何かを好きでいることがわたしをはっきりさせてくれて、いつも何かをめちゃくちゃ好きでいたし、いつもWebにそんな気持ちを残そうとしていた気がする。記憶するために。


「推しについて発信する」ということ

推しが選挙に出ることになったので、好きなところを見つめ直すいい機会だなと思って、どうしてこんなに好きなのかを考えてSNSに書いた。読み返したいなと思った気持ちをまとめてnoteに書いたし、撮り溜めてきた写真をアルバムにまとめた。いつもより人目につくから、自分がいいと思った理由や姿が全然知らない誰かの目に留まったらいいなと思った。全部自分のためにやってきたことだけど、選挙中は誰かに届けるということを意識した期間だった。

像と鏡、という概念がある。お芝居をやってたときに人から教わったことだけど、お芝居は観客に舞台上の出来事を想像させる必要があって、例えば何か嬉しいことを表現するためにはその受け手=鏡がいかにも嬉しいことが起こったかのように反応することで、観客に「何か嬉しいことが起こったんだな」と想起させるということだった。文章でも同じことが言えて、ただ事実を箇条書きで並べても全然味気なくて、そこに受け手がどう思ったかを書くことで初めて実感をともなって伝わってくる、というのはこの期間の重大な発見だった。

選挙の間は、◯◯推しのオタクとして発信する必要があった。私の中には私が勝手に解釈した◯◯ちゃんしかいないし、2次元のキャラクターならまだしも生身の本人が見ている場所で、そんな勝手な解釈を垂れ流すことは恐ろしいことだった。写真もそうで、わたしが素敵だと思う◯◯ちゃんの姿が誰かにとってもそうなのかずっと心配で仕方がなかった。コメントやいいねをもらうと(推しを広めるためになるのだから喜ぶべきことなのだけど)他人の褌で相撲をとっているような気がして申し訳ない気持ちになるのだった。

ただ、何かを発信して、わかる…みたいな気持ちがふわっと広がっていくのが好きだ。写真もブログも、ほとんどの二次創作は、知らない人や違うクラスタに届くのはほんとうに稀で、あくまでファン同士の「好き」の再確認の場所なんだと思う。そうやってファンが楽しんでいることで、なんか楽しそうだなと思って覗いてくれる人がいたらいいなと思う。


アイドルの推し方は人それぞれ、前も書いたけど売れるためには広く知られることが大事で、全員が発信をしなくていいし、現場に行かなくても、CDを買わなくても、ただ好きでいるだけでいいと思う。今日も推しと推しを好きな自分がいるだけだ。それは綺麗事なのかもしれないけど、少なくとも私はそうありたいと思っている。

今日も消えていく記憶をどうにか留めたくて、それが奇跡的に誰かに届けばいいなと半ば祈りのような気持ちでこうしてnoteを書いている。

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