最後の花火に今年もなったな
夏も終わりかけ、私たちには自動的に「最後の花火に今年もなったな」と脳内に流れるように備わっている。どの駅にも一人は脳内に流れている。前奏の一定のリズムで流れる高音は秋が迫ってくるようにも、夏が帰ろうとしてるようにも思える。フジファブリックの若者のすべては、誰かの思い出の曲でもあり夏の終わりの合図であり青春のモヤモヤを形にしてくれた感謝の曲だと思う。
サビの「最後の 花火に 今年も なったな」という文法の違和感に気付いた。そして私はこの違和感がたまらなく大好きである。これが違和感を感じているのが私だけなら辱い。私は広辞苑を枕にして眠り漢字ドリルを首にかけて汗を拭っている国語博士じゃないので、この文法が間違っているのか間違っていないのかはわからない。でももし日常会話で夏の最後に花火をして公園でみんなで喋ってるとしたら「いやほんま、今年も最後の花火になったで」な気がする。浪速公園で手持ち花火限定でごめんなさい。
でも多分話すとしたら、文法の順番は「今年も 最後の 花火に なったな」なのかなと思う。
「今年も」から始めずに、「最後の花火」から始めることによって、最後であることが悲しい寂しいという心情が感じ取れる。また「今年もなったな」という言葉で、去年もしたのかなとか、来年も約束するのかななどと想像も膨らむし、「今年もなる」という言葉の羅列に「終わりがくること」の仕方なさとか無力さも感じられる。私たちは「終わり」に抗えない。だからこそ終わる前に何ができるかとか、終わることをただ悲しいことと捉えないで生きていきたい。とかいう思考が浮かんでくる。文字の羅列一つでここまで思考させるような、こういう違和感に、フジファブリックの原液が流れているような気がして、それが好きな人たちがたくさんいてそれを求めてフジファブリックを消費している。
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