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アニメ 偽物語 つきひフェニックスOP「白金ディスコ」に思うこと

本記事は偽物語(下)つきひフェニックスの重要なネタバレを多数含むので、アニメを観たか、原作を読了したか、ネタバレ上等の方だけ読み進めてください。


白金プラチナディスコ」とは

こちらの動画を当時ニコニコ動画などで聴いたことがある人も多いと思う。吉幾三は置いておいて、下敷きにされた「白金ディスコ」という曲は、西尾維新の後の<物語>シリーズとなる3作目、『偽物語』の下巻、副題を「つきひフェニックス」とする作品のアニメ化に伴い、そのOP曲として作成されたものである。

<物語>シリーズは多数アニメ化されているが、慣例としてその作品や章ごとのメインヒロインにあたる人物のキャラソングが、そのままOPとして使われている。つまり、「白金ディスコ」は、主人公阿良々木あららぎこよみの2人の妹のうち小さい方、阿良々木月火つきひのキャラソングである。

曲名の「白金」は、「プラチナむかつく」という月火の口癖に由来している。

結論から言えば、この曲の歌詞は──特に2番以降は──阿良々木月火の、兄たる阿良々木暦に対するifの「家族愛」あるいは存在受容への感謝が描かれていると言える。

『偽物語』「つきひフェニックス」

話を整理する。<物語>シリーズは、基本的には「怪異」と呼ばれる妖怪や呪いなどの超常現象の被害を受けているヒロインが、主人公に手伝われて、助かる物語である。シリーズを通した主人公は阿良々木暦という童貞臭い高校生(そして半分吸血鬼)だが、たまに既に出てきたヒロインが主人公になったりする。また、OP曲を歌うのはヒロインなので、とある中年男性もヒロイン扱いされていたりする。

『偽物語』(下)「つきひフェニックス」の場合、阿良々木月火は副題の通り「不死鳥」である。「不死鳥」という怪異に憑かれているのではなく、正真正銘「阿良々木月火=不死鳥」なのである。これが、ほかのヒロインとは大きく違う点だ。では、阿良々木月火が被害者ではないかといえば、それもまた違う。

この世界における「不死鳥」とはなんなのか。それは、妊娠した女性の胎内に、本来の胎児と入れ替わる形で宿る怪異である。少なくとも、作中の説明によればそうなる。

つまり、3人の阿良々木兄妹の末っ子である月火は、生まれたときから怪異であり、かつ、その自覚のないまま中学生の半ばまでを過ごしていたことになる。そして、今後も自覚をもたないだろう。本来月火として生まれる子供は、托卵された先の卵のように、生存レースからはじき出されたことになる。

不死鳥の特徴。それは、文字通り死なないことだ。現実世界に伝聞される不死鳥よろしく、人型のこの不死鳥は寿命を全うすると、次の母胎にまた宿る。これを繰り返して存在し続けている。そして、寿命が終わるまでは、その人間の擬態は解けない。

具体的には、傷の治りが滅法良い。小さな傷なら時間をかけてそれなりにゆっくりと治すが、傷跡が残らない。大きな損傷なら、むしろ瞬時に治ってしまう。これは、吸血鬼の血を宿す兄暦の治癒能力をはるかに凌駕するものだ。存在することに危険が及ばない限り、不死鳥はなるべく人間に擬態するようにその不死性を制限している。

無論、両親や兄や姉も、彼女が不死鳥だと気づいてはいなかった。きっかけは、彼らが暮らす地域に「影縫余弦かげぬいよづる」という陰陽師が来訪したことだ。彼女は、シリーズ当初に暦が吸血鬼にまつわる騒動で世話になった「忍野おしのメメ」という「怪異専門家」とでも言うべき怪しげな中年男性の、大学時代のサークル仲間であった。

影縫は不死性をもつ怪異の退治を生業としており、持ち前の「超暴力」によって、不死の怪異を死ぬまで殴り続ける。つまり、月火は影縫の「討伐対象」だったのだ。

暦は影縫からの忠告を聞き、それからそれまでの月火に関する僅かな違和感、そして実際に影縫の連れる式神に攻撃されて上半身が吹き飛んだ直後に復活する月火を目撃し、月火が正真正銘の怪異であることを認め、人間として一緒に育ってきた妹の正体について、どうすべきかを苦悩する。

結局、月火は不死鳥で、実際には血の繋がりのない怪異だったとしても、しかし自分にとっても、そしてもう1人の妹にとっても兄妹であることには変わりないという結論に(とんでもない方法で)暦は至る。そして、影縫を拳で説得することを試みる。暴力の勝負は惨敗に近いが、影縫は結果的に引き下がった。

歌詞を見る

これが、「つきひフェニックス」の本筋だ。だから、結局今回の話は、いつもとは違い、元々怪異だった月火の正体が露見し、しかしそれでも家族であって、それを守るという暦の防衛と家族愛の物語だ。月火自身は、何も知らない。歌詞の「小さな嘘」や「いつわり」は、当然人間への擬態のことだが、作中伏線として張られていた、月火の虚言癖に通じるところがある(「嘘つき・・・ひ」というあだ名がある)。

しかし、やはり歌詞を読めば、月火が自身がフェニックスであり、本来いた下の妹を蹴落として生まれた怪異であること、それを感じ取っていながら、しかしかけがえのない家族として守り抜いてくれた兄・暦に対する感謝と愛を歌っているように見える。

作中、月火は暦の不自然な言動(月火が怪異であることへの動揺や、影縫との決戦に対する準備な)に示唆的で殊勝な態度こそとるものの、これは本能的な作用か、兄への信頼、あるいは暦側の見え方の問題だろう。自分のことを人間だと信じきっている。

かわってくもの/かわらないもの/飽きっぽい私が
はじめて知った/この永遠を/君に誓うよ

ささやかだけど/かけがえのない/歴史を重ねて
ちいさなうそも/ほんとうになる/君のとなりで

ささやかだけど/かけがえのない/歴史を重ねて
いつわりさえも/ほんとうになる/君のとなりで

「白金ディスコ」

以上は、3パターンの各サビの歌詞の抜粋である。

虚言癖の他に、髪型がコロコロ変わるというのも、月火の特徴だ。不死鳥の特性で髪の伸びが早いことがこれを可能にしているが、「飽きっぽい」というのも、太古の昔から永く存在し続ける不死鳥ゆえの潜在的な意識のあらわれなのかもしれない。

「はじめて知った/この永遠」とは、なんだろうか。この表現は、兄妹愛のことをことさら指摘しているというより、むしろ「自身は不死鳥という永遠の存在なのかもしれないが、そんな自覚はないからこそ、永遠と思えるものに初めて出会えたような気分にもなっているのだ」という、複雑な心境を我々に垣間見させているように思える。

「ささやかだけど/かけがえのない/歴史を重ねて」の、ここでいう「歴史」とは不死鳥の永生ではなく、阿良々木月火としての十余年のことだろう。歌詞の中の月火とて、本当の意味で不死鳥の怪異であるという自覚に満ちているわけではない。むしろ感覚的には人間のままに、バケモノという謗りを受けているような状況だ。

「ちいさなうそ」そして「いつわり」は、つまり月火自身の存在であり、家族関係であろう。影縫の襲来がなければそもそも露呈しなかった問題なのかもしれない。しかし歌詞中の、物語の裏側の事情を知っていると想定される月火は、肉体的には強くとも、関係と存在という意味ではとても儚いものに感じられるようになった自分自身を、再び家族、そして「私」という人間という元の場所に戻してくれた、という意味で「ほんとう」になったという。

この「ほんとう」の価値は、「つきひフェニックス」の前日譚で示唆されている内容だ。『偽物語』(上)「かれんビー」は、月火の姉であり暦の大きいほうの妹、阿良々木火憐かれんが、「囲い火蜂」という”でっちあげ”の怪異に冒されてしまう話だ。”でっちあげ”なのだから、これは人為である。つまり犯人がおり、それは忍野メメのもう一人のサークル仲間「貝木かいき泥船でいしゅう」である。貝木は詐欺師で中学生を相手に嘘のまじないを売りつける詐欺を行っていた。作中彼は、おおよそ以下のような旨の発言をしている。

本物のダイヤと、それと全く区別のつかない偽物のダイヤがあったとして、どちらがより価値のあるものなのかと言えば、それは偽物のダイヤのほうである。完璧な模倣には多大なる努力と意志が必要なのだから、本物と遜色ない品質の上に、そのようなバックボーンさえ存在する点で、偽物のほうが尊い。

この主張は、完璧な模倣など存在しえないことや、本物の希少性そのものが容易に価値に転換されることなどが反論足り得るが、少なくとも偽物ばかりを取り扱う貝木の美徳としては、こういうものがあった。

阿良々木月火という存在は、ある意味この「偽物のダイヤ」に近い。厳密には怪異の仕業であるが、人為的に人間に似るように造られた存在であって、異常な回復以外は普通の人間と同じように暮らし、そして死ぬ。生まれてくる前の入れ替わりなのだから、「飽きっぽい」などが本来の性格なのかどうか、内面的にどれほど影響が出ているのかはわからないし、本人の意識さえも人間そっくりそのまま、見分けはほぼつかない。人間になろうとするだけ、人間よりも価値のある存在なのかもしれない。

そもそも、影縫が主張するところの「不死鳥」伝聞に基づいて物語は進んでいくが、月火に異常な回復力という怪異は発生していても、月火が不死鳥であるという論証はなされていないのだ。上半身吹き飛ばされても一瞬のあとには復活している。本人は気絶している。そういうことだけが、主人公阿良々木暦の前で起こっているに過ぎない。ましてや托卵や転生など。証しようもない。

異常な回復力を持った人間という怪奇現象そのものを説明するために、そしてそれを討伐しても良いとするために、影縫や、あるいは作中世界の怪異専門家たちはそのような存在の正体を不死鳥ということに仕立て上げている可能性さえある。異分子排除の大義名分という可能性を念頭に置きたい。ただただ死ににくい人間を排除するというのは、倫理的な問題がある。

このように考えると、「ちいさなうそ」、そして「いつわり」は、異常性を宿した人間という、迫害の主原因であって、関係と存在を脆弱にしうる問題の発露を指しているのであり、「ほんとうになる」とは、その危機からの回復なのかもしれない。

どちらにせよ、作中の月火には自覚のないことだし、そんなことは言いそうにもない傲慢さがある。これは物語の全体像を把握している阿良々木暦の、妄想のなかでの妹像、という風にも考えられる。


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