押し付けの押し入れ


ほらね、綺麗になった。
そんなことを心の中で思いながら手を叩く。
あとは掃除機をかけて終わりだ。

人が来るというイベントがない限り、部屋が掃除できない。
何度綺麗にしたって同じ部屋で生活する同居人の手によってすぐ汚される。
もう何をしたって無駄だ。どれほど綺麗な部屋にしたくたって、自分が汚してしまったのと、人が汚したのでは、掃除のやりがいにも差が出るというものだ。
何度行っても服は箪笥に入らずにタワーのように積まれる。明日も着るからと脱ぎ散らしの服はその辺りに放棄される。

いや、これも相手にとっては放棄しているのではなく
「そっと」置いているということだけなのだ。

人はよく自分にとっての当たり前を相手にも求める。
自分は綺麗な部屋に住みたいと思っているし、そちらの方が心地が良いと思っている。ならば相手にも同じ空間に生きるものとしてそれを求めてしまうのだ。ただそれは、間違っている。相手にとっては、この空間が綺麗な心地よい空間に見えているのだから。

感覚的なものの共通理解は非常に難しい。
それをどう感じるかは相手の感性によるからだ。それをどれだけ熱弁しようと、相手にとってメリットがあると解ろうと、結局相手の「当たり前」には勝てないのだ。

「普通」こうでしょ?
「当たり前」だよね?

こういった誰もをみんな同じ箱に入れて、同じ形にして排出する社会に嫌気が差している私ですら、よく相手を自分にとっての「心地よい押し入れ」に閉じ込めようとしてしまうのだ。

冬がすぎ、もうすぐ夏が来るというのに、心地の良い空間に返してもらえない厚手の毛布を自分にとって「都合の良い押し入れ」にぶち込んで掃除機をかける。まさしく周りに溢れる人間関係のようだ。誰もが誰かを押し込んでいる。自分を変えずに相手に代わってもらおうと願っている。

今度は、部屋の掃除の前に押し入れの中を掃除しよう。
自分の頭の中の思考のゴミも一緒に、吸引力の変わらないこいつは吸い込んでくれるだろうか。

Image time 2022.06.09
Image human @me
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