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7. お母さんの「大丈夫」はすごい
幸せなおじさんとして父のことを書いたけれど、母のことも記しておこうと思う。
男でも女でも、オトナでもコドモでも、母親との関係って、父親とのそれよりも特別で奥深いものではないだろうか。
わたしにとって、母とは…
ダントツでわたしに大丈夫って言い続けてくれている存在なのだと思う。
3人キョウダイの長女として生まれたわたしは、自分で言うのもなんだけど、小さい頃から結構ちゃんと「お姉ちゃん」として機能していたと思う。
我が家のチーママとして、ごはんを作ったり、父の脱ぎ捨てたニオイキツめの靴下を洗濯かごに入れ、妹にはひらがなの書き方を教え、やんちゃな弟とも全力で遊んだ。
家族のなかで、それがわたしの役割、ミッションだと思っていた。全然苦じゃなかった。
子どもはみんな、お母さんを喜ばせたい
小さい頃から両親は朝から晩まで働いていたから、ゆっくり母と何かした思い出があまりない。
小学校の頃、専業主婦のお母さんを持つ友達が羨ましかった。家に帰ったらおかえりって迎えてくれて、夜寝るまで一緒にいてくれるお母さんなんて夢みたい!と憧れた。でも同時に、我が家には絶対そんな日が来ないこともわかっていた。
あの頃、家事とか妹たちの面倒なんてみないで外に遊びに行くという選択肢だってあったのに、わたしは結構家庭優先だった。
たぶん、母に「長女ちゃんの作ったごはん美味しいね」とか「妹たちの面倒みてくれてママ、助かったよ」とか言われたかったんだと思う。
仕事で疲れている母が少しでもラクになったら、って純度100%で思っていた。母が喜んでくれたら、わたしも本望っす、て感じだったのかも。
はじめての遠足で事件は起こった
母とのエピソードはたくさんあるんだけど、特に印象深いのが小1、初めての遠足の日のこと。
楽しみにしていたお弁当タイム。リュックからお弁当の包みを取り出すとそこにあったのは、おにぎり2つとゆで卵2個と塩、だった。わたしはリュックの中身をかっぱがして(北海道弁でひっくり返すの意)おかずを探した。でもなかった。
おかず忘れちゃった!!!とわたしはその場でわんわん泣いた。初遠足でおかずを忘れるなんて!
クラスメイトが同情してくれて、卵焼きとかプチトマトとか唐揚げを恵んでくれて、わたしは悲しさとありがたさで泣きながら食べた。
家に帰って母におかずを忘れたことをすぐさま報告。
すると「え?ゆで卵入れたじゃない?」と母。
え?何言ってんの?と子ども心に??はてなだらけだった。
よくよく聞いてみると、なんと娘の大切な小学校遠足デビューのお弁当は、母自身が小さい頃に遠足に持って行ったメニューだったのだ。ギリギリ戦後生まれのね、そりゃ卵も高価だったでしょうよ。2個も入れてくれるなんて、きっと奮発してくれたのだろうけど、ゆで卵2個って普通に食べ切れないよ。
その後、どんな話をしたか覚えていないけれど、もう絶対ゆで卵だけのおかずはやめてくれ、甘い卵焼きとかハンバーグとかが食べたいの!!ていう主張はしたように思う。
それ以降、二度とゆで卵だけのお弁当はなかった。
ごくたまに、何のキャラかわからない顔のキャラ弁?だったことはあったけれど。
父を選んだのは、母への愛情の裏返し
「ママとパパが離婚したらどっちと暮らしたい?」
子どもが最も聞きたくない問いなのに、母はよくこの質問をした。たぶん、仕事も忙しく、超ワンオペで3人を育てていたから、こんな質問で気を紛らわすしかなかったのかな?と今では思う。
この質問に、妹も弟も即答で「ママ!」と答えた。
わたしはいつも絶対に「パパ」と答えていた。
一生懸命育てている娘に、全然育児に参加してないパパが一番!て言われてるみたいで、母も腹立たしかっただろうし、傷ついただろう。ごめんね、お母さん。
でも、パパって答えたわたしには、ちゃんとわたしなりのセオリーがあった。
妹や弟はまだ幼稚園生。ママといないとごはんも食べられないし、お風呂も入れない。
わたしもママといたいけど、そうするとパパは?パパのごはんやクサイ靴下のお洗濯は?
わたしの小さな脳内では、自分はパパといるのが最適、そうすれば下の二人も困らない、ママも3人よりは2人育てるほうがお金も使わないし、大変さが減るかも。パパのお世話はわたしがするし、これで完璧!
当然、小さなわたしにはこの殊勝な思いを言語化することは出来なかったから、「パパ!」と答えるわたしに、母はいつもプンスカ怒っていた。
大丈夫100%
そんな幼少期の思い出からあっという間に時が経ち、わたしはもう40歳。でも、母と会うといつでもスッと子ども/娘に戻る。
わたしが不登校になった時も、中学受験に失敗したときも、友達とうまくいかなくなって落ち込んでいたときも、社会人になってやりたいことが見つからなくて職を転々としていたときも、そして今、今後どうしてこうか…と悶々としていることを伝えたときも、
「長女ちゃんは大丈夫よ。」
と母は言った。そこに何の根拠もあるはずがない。
わたしは空気がまるで読めない子どもだったから母もヒヤヒヤしただろうし、勉強もそんなにできるわけではなかったし、熱しやすく冷めやすい性格だから習い事でも友達関係でも会社に勤めることにおいても、中途半端にしてきたことが多すぎる人生だったから。
でも、母はいつでも絶対、100%の自信を持って「大丈夫」と言い切ってくれるのだ。母の真意はわからないけれど、わたしにはそう見えている。
母の大丈夫を聞くと、どんなにやさぐれていても、落ち込んでいても、悲しくても大丈夫な気になってくるからものすごい威力だ。
命の順番で、いつか母の大丈夫が聞けなくなってしまう日がくる。その時までに、自分で自分に大丈夫って自信を持って言ってあげられるようになりたい。
それまでは、できるだけ母からたくさんの大丈夫が欲しいから、また暖かくなったら実家に帰ろう。
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