続 給湯器が壊れて記憶の蓋が開いた
シャワーや蛇口からお湯が出なくても風呂には入れていた数日を過ごした後、いよいよ追い焚きができなくなった。前夜、浴槽に水を張っておくのを忘れた私のせいで凍結防止機能が働かず、配管が凍ってしまったのかも知れない。油断していた。
交換は2日後の火曜日。日曜の夜に銭湯を探すことになった。
かつて何度か利用していた温泉施設はコロナが流行る前に店を畳んでいた。
市の施設は緊急事態宣言を受けて時短営業となり、最終受付の時刻に間に合いそうにない。
検索で一件の温泉を選び、利用料金が安いからタオルもドライヤーも持って行った方がいいよね、と準備して出掛ける。
遅い時間にも関わらず駐車場にはそれなりに車が停まっている。高台に建つ施設の正面には何てことない街の夜景が広がる。
中に入ると右手にEの形で下足箱スペースがあり、扉には100円を入れて戻ってくるタイプの鍵が付いていた。硬貨は一枚でいいか。娘が入れた靴の横に自分の靴も押し込んで閉める。
券売機で二人分の入湯券を購入し、向かいの受付に出す。
「靴の鍵を」
下足箱の鍵を出すのね、はいはい。
しばらく外湯に行ってなかったせいで作法を忘れていた。
差し出した鍵は一つ。
渡されたロッカーの鍵も一つ。
交換システム!
面倒でも100円硬貨を2枚出し、別々の下足箱を使うべきだったようだ。
そのまま鍵を受け取って女湯に向かう。
「ま、いっか」
「入るやろ」
娘と一つのロッカーに服を突っ込むことにした。
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下足箱。
あの頃はどうしていたっけ。
銭湯の上がり口はL字になっていて、左手の壁側に下足箱、正面には女湯と男湯の暖簾が下がっていた。
下足箱を使うのは主に大人で、子供はL字の上がり口に沿ったすのこの前に靴を並べていた。子供に鍵を持たせると無くしてしまうからだろう。
小さい頃は歩くたびにキュッキュッと鳴る突っかけで、少し大きくなるとサンダルや運動靴で行っていた。
買ってもらったばかりの運動靴で行き、帰る段になって自分の靴がないことに気付いたことがあった。
同じキャラクター柄の薄汚れた運動靴が残されており、どうやら先に出た誰かが私の靴を履いて帰ってしまったようだ。
靴がないことを親や番台さんに話してもどうすることもできず、泣く泣く残されたその靴を履いて帰った。
持っている運動靴は一足で、成長してきつくなるか運動会のタイミングで次の靴を買ってもらっていた。別に貧乏とかそう言う事でもなく、当時はそれが普通だっように思う。
その日から銭湯に行く度にその靴を履いて行き、私の新しい靴がすのこの前に並ぶのを待った。
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記憶にあるのはここまでで、靴を取り戻したかどうか覚えていない。
毎回新しい方の靴の争奪戦になった、とかその子と親友になった、とかなら忘れない筈だから、この後のことを思い出せないのはきっと何も起こらなかったのだと思う。
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基本料金のその銭湯には立派な露天風呂もあり、ラドン温泉と書かれていたからきっと効能もあるのだろう。
ゆっくり浸かる間に利用客もまばらになっていた。充分に温まり、温泉気分を満喫して湯から上がる。
備え付けのドライヤーは3分30円。コンセント利用も3分30円。
硬貨を出すのが面倒な私たちは、タオルで拭いただけの洗い髪のまま、銭湯を出て車に乗り込んだ。
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月曜日は朝から着替えを用意しておいて、仕事帰りに実家へ向かった。
靴のこと、母は覚えているのだろうか。
『そんなことがあったかねえ。』
なんだ、覚えていないのか。
『風呂に行くのにいい靴を履いていったらあかんわ。』
そのとおり。
あの日の私にも言ったのだろうか。母にも同じようなことがあったのだろうか。
靴にも名前を書いておかなきゃね。
晩御飯とお風呂の両方をもらい、母の就寝時刻を少し過ぎた頃に帰途についた。
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火曜日。
朝から小雪が舞う中、新しい給湯器がやってきた。配管にも凍結防止のヒーター線を巻いてもらう。
作業員の左胸に青白いマークが息をするように光っている。電熱ベストに違いない。手足にも電熱線を巻いてあげたい。
寒波の後、給湯器の修理や交換に大忙しだという。見に来てもらうのも、給湯器選びも、工事の予約も多くの人の手を借りて、こんなに早く復旧した。
少しの非日常にぽっこり記憶の蓋が開いて、給湯器も新しくなった。
工事のアンケートをまだ出していないことを思い出した。販売店と作業の人たちへ感謝の気持ちを書いておこう。