3月の忘却。
何の気なしに書いた日常のメモ代わりの文章だったけど、思い切って外に出しておくことにした。
何でもない日常の一コマだけど、多分数年経てばそれも貴重な何かになる。
以下3月の今やある日の忘却だったもの。
歳を重ねるごとにやるせなさと感情の処理の仕方に手間取っている。若い頃の方がまだ出来ていた気がする。あくまで気がするだけで、実際は解らないけど。
生きるってめんどくさくてやるせなくて、たまに素晴らしいものだ。
こないだはほぼ10年ぶりの連絡を取った友人が居る。
早くに結婚して子供もいたが、離婚して数年前に再婚したそうだ。
子供は彼女と新しい父親のもとで育っているらしい。人の子供ほど成長スピードの早いものはない。頻繁にあっていた10年前はまだあんなに小さかったのに今や小学校の最終学年だ。今じゃあの頃会っていた所詮知り合いのおばちゃんでしかない自分の事など幼子の記憶のなかにはないだろう。
何時まで経っても大人になれずに無駄に歳だけが増えていく。こんな筈じゃ無かったなどと嘆くことも出来ない遠くにきている途中だ。
子供の頃や思春期の頃にぼんやり考えた普通に働いていて、誰かと出会って結婚まではいかないにしても付き合っているんだろうなぁ…なんて想像は結局つたない想像でしかなかった。
周囲には結婚して子供まで居る友人ばかりなのに自分は一人誰とも付き合いもないまま生きている。
出会いや何かしらの動きとは重なるもので、数ヵ月連絡の付かなかった親友からの連絡もあった。
彼女も子育てに日々を忙殺されている。連絡の取れなかった数ヵ月は子供と繰り返し風邪を移して貰っての繰り返しだったそうで、このご時世とも重なって何とも心休まない数ヵ月だったのだろうなぁと一人感想を返した。
彼女の忙しさ想像することはできるが本当に理解が及んでいるかは不明である。