親の代わりに片付ける、と言う事。
最近では、「生前整理」という、親世代ならば反射的に「あんた、つまり私に死ねって事?」と嫌悪感をあらわにする言葉が収納関係の本を賑わしている。
これからを生きやすくするために。
少しでも動くのが億劫になる前に。
未来の為に、これまでの始末をする。
子供に迷惑を掛けないように、自分の始末は自分でする。
収納関係の本を読むと生前整理と言う言葉を使用する意味で、解説として大体がこのような意味合いで掛かれていることが多い。
私は、70代と60代の親の代わりに今まさに以前住んでいた生家と現在家族で住んでいる自宅を整理している。
整理を始めたのは20代後半の頃だ。そんな私も今は30をもう超えている。
どちらも親の持ち物である家と言う箱は、気が付けば不用品で溢れかえっていた。十年前位から母は頻繁に言っていた事がある。
「あの家を片付けたい…どうにかしないと」
でも、その言葉を繰り返し何かの機会に言う割に、物置代わりになっている生家は綺麗になんてならないまま、ずっと埃と締め切られた薄暗い室内の中に淀んだ空気で時を止めたまんまだった。
直ぐに処分の出来ない小型や、処分に時間が掛かり移動も中々出来ない大型の不用品を、壊れる度に業者や市のリサイクルセンターに持ち込まずに、一時置きという誰にするでもない言い訳の様な言葉を付けて生家に放り込んでいた。
どうにかしないと。
片付けないと。
定期的に呟かれる母の言葉に反して、生家は気が付けば物が増えていくただの朽ちた箱になっていった。
それを、私が親の代わりに整理を請け負う事にしたのは、私自身が病気を患い、何度か死にかけたからだ。
一年間で20回以上救急車で運ばれて、その内5回は意識不明の重体搬入。
生きてはいるが、その病気が治らずに一生付き合う事が判明した時、私が呆然としながら始めた事は自分の部屋の生前整理だった。
同じ頃、高齢の父と母が夫婦揃って大きな手術を立て続けに受けることになった。以降、父も母も老いる一方だ。毎年何処かしら不具合が出て、手術したり病院に掛かったりしてる。
その時20代だった私は思ったのだ。
70、60でも、20代の私でも。年に関係なく人間死ぬときは死ぬのだ、と。
人間、死にかけるほどではなくても、日常から大きく外れた不自由な環境に触れれば色々と思うもので、私はそれが親の代わりに生家と今住んでいる自宅を整理する事だった。
それが始まり。