オープンな意見表明は促したが、生産的・体系的思考を奪うSNSという魔物について
2011年以降、ネットに文字で書いたモノを投稿する人が増えた。増えていないかもしれないが、可視化された。閲覧するのに制限がかからない、Twitterなどのネット接続された文字媒体への、カジュアルな投稿への抵抗感が減ったのだ。旧世紀(1980年代など)であれば、知らない人と対話するのは「おかしな行為」であった。2000年代最初の10年も、公の場所と私(ワタクシ)の場所という分類があった。
パソコン通信→2ちゃんねる・ミクシィ→Twitterという流れを考えてほしいのだが、だんだんと内弁慶的なモノが、オープン弁慶とでもいえるものに変化している。
とにかく、2011~2019年はそういった時代であった。人々は文字で対話するようになった。音声ではリアルタイムすぎてつらいと若年層が言い出すぐらいに。
1999年に、「iモード」(あいもーど)という、携帯電話機で、一連の思考を送るのに足りるレベルで文字メッセージをやりとりできるサービスが始まり、携帯電話3社が通話以外のメッセージングにも注力しだした。2004年にはパケット定額制という形で、金銭的破綻を伴わずに、映像データもある程度やりとりできるようになった。
メッセージングサービスで結びつけられる以前の個人は、スタンドアローンで思考を進めざるを得なかった。それしかなかったからだ。携帯電話メッセージング登場後は、内発的な思考を持たずとも、外界からの刺激に反応し続けることで、表皮的な思考を連鎖させることが可能になった。
外部の他者を常に参考にできるということは、他者の意見で己のあり方を修正できるというチャンスであると同時に、状況に反応し続ける自己しか持たなくても社会生活を送ることができるということでもあった。
どちらがいいかということは結論がないので、ここでは述べない。
ここでやっと本題です。
みなさん、最近、骨格や筋道をもった、長い思考を文章に書かなくなっていませんか?
私に関しては、最近長文を書かなくなって、思考力が変質したのではないかと考えます。
多くの人が文字で己を表現する時代が、かえって、己というモノの存在を危うくしているのです。
そして、ながいしこうができないので、このさきがかけません、どうかなにかのついでがあったら、うらにわのアルジャーノンの(以下略
※写真はFBではなくてFDです
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?