ISN'T IT ROMANTIC
小学一年生のときの夏休みの長さ、ずーっと続くのではないかと信じていたのに、大人になると、「えーもう6月、ついこの間初詣にいったのに」ということになっていて、いわゆる分母となる生きている時間が増え続けるから、数ヶ月なんて、たいした時間の積み重ねではなくなってくる、ということらしい。
同じように子供の時に「感じた衝撃」は濃密にまとわりつく。
見たり、感じることのできる世界は狭く、それは忘れても何かのきっかけで、ストレートに再び戻ってきたりする。
最高に気の合う友達との過ごす時間は永遠に続くと思っても、卒業するとパタッと終わったり、反対にいじめたり/いじめられたり、といった衝突や摩擦も、濃密に生きている時間を支配しながら、それが本当にどういうことなのかは分かっていなかったりする。
相手の気持ちなんて一生かかってもわかり得ない。(分かろうとする気持ちは別のことだが)互いが自分勝手な温度差でも(すごいいい奴と、まぁいい奴と思っている同士でも)親友として成立したりする。
それは誰かにいじめられ(責められ)つつ、誰かをいじめて(責めて)いる、そんな時間を、そんな世界を、大きな関心ごとと捉えながらも、本当はどういうことなのかを分からずに、僕らはやり過ごしていた。
ほんとのことなど分からないので、傷つき、自分を責める者もいれば、
なんとなく忘れてしまう者もいる。
しかし傷は消えてしまうものなのか?
時が経ち、子供の時の夏休みの濃厚さを引きずってしまっていては、色々なことがあふれてしまう。だから分母の時間の長さだけでは対処できなくなり、「忘れたり」、「傷つかなく術」を身につけて、大人になっていく。
そんなふうに世界をやり過ごす。
それでほんとに傷は消えたのか?
でも、消えたようで消えてないんだな、忘れたようでしっかりと心の奥底に錨を降ろして留まってるんだな、と小山田くんの言葉を読んで感じるものがあった。
やんちゃなフリッパーズから、Fantasmaを通り、Point以降に辿り着く旅路をいっしょに見て、聞いてきた人たちは世界中にたくさんいて、一緒に揺れてきたのだと思う。僕も私もあなたも彼も彼女も、責めて、責められて、揺れてきた。忘れていたと思っていたものは心のなかに、ずっと抱えているものだ。
そしてそれは時にロマンチックで美しい形で表れるのかもしれない。
以前、ビル・エバンスの本を立ち読みをして、ずっと引っかかていたフレーズがあり、ネットで検索したところ、それと思われる一文があったので、貼り付けさせていただきます。
修練を持って届けられたロマンチシズムは永遠だと思う。
子供の頃に分からなかったものは、解決などせず、でも時に
芸術として美しい形で表れる。
僕らはその奥の「分からなさ」を感じ取って触れたときに、その芸術は強いものになるのではないか。
昨日発せられた言葉が、(当時はなかった)通信環境で世界をすごい速さで巡っている最中、小山田くんの音楽を聞きながら、自分の抱えている(いた)傷を、エグったりしなくてもいいので振り返ることが、今日できることかと思った。
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