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原罪と穢れ

『原罪』
西方キリスト者は怖れ
東方キリスト者は触れず
ユダヤ人は思い悩み
イスラム者はそんなもの無いという
同じアブラハムの宗教であるにも関わらず非常にややこしい感じがしますが至ってシンプルな話なのです

イスラムでは『行為』が『罪』となります
『邪念』をもっても振り払い『正しい行い』をすれば『善行』なのです
神はアダムとイヴを許したもうたのですから『罪』はもはや存在しないので償いようがない訳で実に論理的です
一方西方キリスト者や一部のユダヤ人はアダムの犯した『罪』は全人類に及んで染み込んでおり拭い去れないと考えます
東方教会ではこの問題は常に避けられ不要とされました
キリストは人の子らの『罪』を十字架にかかり贖ったのですから当然です
罪がまだ残っているのであればキリストの死の意味が無くなる
彼は自らを死地へ追いやった全ての人々を許しました
しかし『原罪意識』とはカソリックにおいて免罪符や贖罪状の発行による利益を得るために不可欠なものであり宗教改革によるプロテスタンティズムに繋がっていきます

現代の世情を見れば『原罪』などより余程罪深い行いを彼等はやっている様に思えてなりません

本邦の神道に当て嵌めれば『穢れ』が近い概念でしょうか
ただしコレは贖うようなことではない
生き物(含む植物)の命を頂くことは生きていく上で仕方がないし
だから「いただきます」なのです
月経などを不浄とするのは血を避けるからです
塵芥は素戔嗚尊が司ってらっしゃいますし(八坂神社や須賀神社)死は黄泉津大神たる伊邪那美命(伊弉冉)です
禊祓により罪穢れを払う清浄観は人が神々に感謝を捧げるためのものであり心を清め身に降りかかる障りや死への縁をなくすためです
本来初詣とは旧年中の無事(命のあったこと)を感謝するものであり新年の御利益を願うことではないのです

穢れを特定の階層に押し付けた忌まわしい過去がこの国にはあります
本来なら皆で共有し神々へ畏怖と崇敬を持たなければならなかったのに
押し付けた事で『穢れ』から離れたと錯覚し押し付けた層を見下し
終いには神々への畏怖と崇敬をも忘れたのが今日の宗教的に節操のない日本人の姿なのかもしれません
万物に感謝し気を強く持ち己に嘘なく正しくあることが理想なのでしょう

神道では万物に神が宿っていると考えます(八百万の神々)
神々は霊体的存在ですから幾度でも分霊出来ると考えられています
しかし記紀の神々は非常に人間臭い
荒魂(あらみたま)であり和魂(にぎみたま)ですから他の自然や動物同様に恵みも災厄も人に与えられる訳なのです
決して特別扱いなんてしてくれない
自然の猛威の前に人などあまりに無力ですからお願いする訳なのですが
争いになると戦の神(八幡神など)へ祈願しますが双方同じでしょう
学業の神様(菅原道真公など)は学業に集中し万全で臨むのを助けて下さるかもしれませんが偏差値を上げてくれる訳ではありません
縁切りの神様(安井金比羅宮:崇徳院)に安産祈願してもきっとお困りになられることでしょうし氏神か居住する地の産土神(うぶすながみ)に行きなさいと思われているかもしれませんね専門外だと

今なお神社は日本人にとって身近な存在ですが
氏神と産土神の違いが分からなかったり
そもそも何処行っても一緒でしょ?とかいう話になったり

氏神(祖神)とは家系を護ってくださり(血縁的)
産土神とは土地のものを護ってくださる(地縁的)
これとは別に個人的な崇敬神社に参る場合もある
ちなみにお伊勢様は別格です

私に当て嵌めれば姓(かばね)から考えれば本来の祖神は天穂日命(天之菩卑能命)となりますが(中原氏貞親流)
北部九州に居を構えた関係で少弐氏→龍造寺氏→鍋島氏(小城藩)と主君が変る中で天穂日命と同じ誓約五男三女神である宗像三女神を祭神とする天山神社の氏子となり
祖父の代で転居し天神様の氏子となりました(因みに菅原氏は同じ天穂日命が祖神ですから天満宮には必ず境内に祀られています)
何の因果か一周廻って元に戻った感がありますが京都平野神社に実は参りそこねており次こそ必ず参詣したいところです
現在の住居的には若宮八幡様が産土神となるのでしょう

非常に分かりにくいと感じる方も多いでしょうが氏神と産土神は近世には混同されており基本的には七五三で参詣した社に行くのが一番です

一つ例外があるとすれば倉稲魂命(宇迦之御魂神)いわゆる御稲荷様です
元々食物の神様でしたが現在では産業全体の神とされ身の栄達を祈願出来る社ですが叶えられれば参詣・寄進を欠かさず行わないといけないとされます(当然です他者も栄達を願いますから)
何故か倉稲魂命は使いの白狐と勘違いされている方も多いですが女神です
なお使いである狐は肉食なので油揚げは…食べないでしょうねw


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