嫉妬という感情を超えたい
昔は嫉妬する時はその人がとても好きなのだと思っていた。
本当にそう信じてた。
でもそれは自分の狭い人間関係による思い込みに過ぎなかった。
至る所に嫉妬がある。
これは原始的な感情なのだそうだ。
動物でも嫉妬する。好きな人だけじゃない、嫌いな人に留まらず全く知らない人にまで嫉妬する。
きっと、人それぞれ理由があるのだろうが…自分にとっての嫉妬とはなんだろう。
答えはすぐに浮かんだ。「自分が得られるはずの利益を他人が享受している」という一言に尽きる。(思い込みに過ぎないのだが…)
恥ずかしいぐいらに利己的な理由だ。なんて厚かましくて、幼稚なのだろう。自分と他人を比較して、それが得られないことに悲しみまで覚える。
自己保身、自己憐憫の塊。
その理由を考えていくと、私の場合は「生きる」ということに関わっているようだ。
例えば、
この人に愛されていなければ心が死んでしまう。
この人に好かれていないとお金が稼げない。
非常に依存的な思考パターンがそこにはある。心身が脅かされているという必死さに満ち満ちている。
他の嫉妬には才能への嫉妬がある。
しかしこれは私の「生存」に関係ないので、自分も練習してみようと思うか、思ったほど熱中せずに時間と共に諦めがつくので単純だ。
美貌に対する嫉妬だって、なんだかんだ言い訳ができる。なぜなら時間は平等に流れるからだ。人は皆衰える。美しさは短いのだと思えば自分がブスでも幾分慰められる。
きっと、私の「生存」に対する嫉妬は「自分で生きていく自信がない」ことが原因なのだ。
私が嫉妬を超えるということは、「ひとりで生きていけるようになる」ということ。
なんて果てしない、目標なのだろう。本質的に人はひとりでは生きていけない。だとすれば、協力関係にあっても依存心を徹底的に手放していかなければいけない。
この件に関して、天にガイダンスを求めてみよう。
生きていく自信がないなんて、信仰心の欠如甚だしい。
神様のどぼ漬けの中で私たちは生きているようなものなのだから、今どんな状況であれ、神の御心がなされることに感謝していけていけば十分ではないか。
そう、結局は日々の心の訓練あるのみ…。