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名前をつけるのが苦手だ

名前は親からのギフトでもあるが、縛りでもある。
音霊・言霊と言って日本は古来より、文字に潜在的な意味を見出してきた。

また、文字は霊的な世界ではウェブリンクと同じ役割を果たす。
ある土地のエネルギーを調べたければ、住所を書けば遠隔からでもその良し悪しが分かるし、名前など知らなくともこちらが勝手に名称をつけて、その存在を紐づけることで認識をより明確にすることができる。

私はそのように文字から感じる印象がとても気になる人間なのだ。

初めて文字に対する印象が気になったのは幼少の頃だった。自分の名前がいささか重たく感じていた。

別に流行りの名前でも変わった名前でもない。
長い時や歴史を感じさせる漢字と中性的な音の響きを持つ名前だった。

小学生の頃「名前の由来を聞いて作文を書きなさい」という宿題が出たので父に尋ねたところ、ある歴史上の人物の人生がモデルになっていることを教えてくれた。

その人は若くして異国へと渡り、月を眺めながら自分の故郷に帰りたいと願って死んだ可哀想な人だった。

私はなるどほど、意外性もなく納得した。

なぜなら、私も月を眺めるのが趣味で、自分の居場所はここではないという寂しさに、幼少の頃から悩んでいたからだ。

今となっては魂の故郷である霊界へ帰りたかったんだろうなと思うのだが、当時家族も友達もいて、世界がそこしかないのに自分の居場所だと思えない疎外感は私の心を蝕んでいた。

父は私の心にそう言った要素があることを直感的に感じてそのように名付けたのか、名付けられたからその意味に私が共鳴したのかわからないけれど、その経験は名前の持つ不思議を感じた初めての体験だった。

違和感に感じていた名前が腑に落ちた瞬間である。

もっといい部分が共鳴してくれていたらよかったのだか、私が名前の持つ意味に負けてしまったのかもしれない。

だが人の精神とは永遠に変化していく。思春期の私にとっては非常に意味のある名前であったが、時が経って成長してくれば、新たな自分を見出していきたいと思ったりもする。

自分の名前が嫌いなわけではない。父のセンスが光っていてこれはこれで好きなのだ。

そう思えるのは、私にとって名前は自分が乗り越えるべき課題を表していて、やっと今ある程度克服できていると感じているからかもしれない。


そんなこんなで、私は漢字の持つ意味や動機がとても気になる人間に育ってしまった。

故に、ハンドルネームを決めれられないというるつぼにはまっている。

何もこれ以上自分に新たな意味を与えたくないという思いがある。意味などないと言い放ってしまえば良いのかもしれないが、私は自分に詩集を作るぐらい言葉には関心がある。

できれば、自分を導く名前であってほしいと思う。そう考えてみると今度は「たいそれた名前だ…」と自虐的な気持ちになる。

何も意味のない、ひらがなの組み合わせを考えてみても、今度はひらがなのもつ印象や音の潜在的な意味が気になってくる…。これが自分を表すものなのか?と自問自答が始まる…。

結局、私は自意識過剰なのだ。
自ら言葉の呪に縛られに行っているようなもの。

名は自ら考えるより然るべき人から与えてもらうか、その時の精神状態に合わせて自由に変えられるような気楽さがほしい。

または何者でもない自分を定義してしまえる勇気が欲しい。

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