死ぬ前に考えること
今、死ぬとしたら私は何を考えるのだろうと空想することがある。
人は死に際「やった後悔より、やらなかった後悔」の方が心残りになるのだそうだ。
私は、自分の能力の限界を感じているし、興味のあることには手をつけてきたので、自己実現ということにおいては、そんなに後悔というほどのものはない。
どちらかといえば、やった後悔の方に心当たりがある。
というより、人生をかけて経験と感動に注力しても、本当の意味で心の奥底から虚無感を追い出すことはできないと漠然と感じている。
死ねば、何も残らない。どんなに偉い人も時が経てば忘れられ、地位や名誉が消え失せていくのは思っている以上に早い。
ただ、人は己の人生を一生懸命生きるほかないのだが、自己を満たすこともある一定のラインを超えるとやはり虚無を発見する。
そんな私が瞑想中に気がついたことがある。
⬛︎ 自己を超えた時にしか、本当の満たしは起こらない
私が物質世界に諦めを感じるようになったのは、瞑想と祈りがもたらす深い精神的な満たしを経験したことがきっかけだった。
いつものように祭壇の前で、神への感応を求めて内に深く潜っていった時、一気に心が高まり、圧倒されるような癒しと充足を感じた瞬間があった。
このエネルギーに満ちていたら何も必要ないのではないかと錯覚するほどの満たしに、私は感動して咽び泣くほどだった。
それは一度きりではなく、何度も何度も私の心を掬い上げてくれた。
そうした内的な満たしについて理解が深まるにつれ、物質的価値観や自己実現というこの世が掲げる成功に対し、見方が一変したのだ。
覚者が「足るを知る」ことの大切さや、禁欲について説くのもよくわかる。
五感との付き合いがうまくできなければ、それ与える満たしに酔ってしまい、大いなる存在を感じるどころではなくなってしまう。
しかし、内的な満たしを体感せずして、禁欲するのはかなり難しいことだ。
内的な満たしもなく、物質的価値観からも目を背けたら、虚しいだけの人生になるだろう。
つまり、執着や欲望は内的に満たされてこそ、手放せるものなのだ。
話が脱線してしまったが…
そんな風に世界を見てしまう私が、死の間際心に残る一抹の不安は、縁のあった人々に対して十分に良心を尽くさなかったことだ。
人の儚さや、自我の虚しさを深く理解するならば、自分の地位や身分など、すべてのこだわりを捨てて、もっと真心を持って尽くせばよかったと反省せずにはおれない。
「気づいたならば、今から生き方を変えたらいい」とそう自分を励ますほかないのだが、生活全般をあらためていくには、自己保身を改め器を広げていく必要があると実感する。