【隠れたジブリの名作】海がきこえる(1993)
氷室冴子原作の青春小説をもとに、宮崎&高畑よりも若手で制作するジブリのプロジェクトとしてアニメーション化された作品である。つい先日これをたまたまGEOで見つけたばかりに、素敵な名作を掘り出してしまった。それはまるで初期~中期新海誠作品(「星の声」~「言の葉の庭」)のような雰囲気で私の好きな「何も起きず、何かが起きる、とても静かに力強く。」の作品であった。
そのためジブリとはいえ作風が異なり、特にある意味で理想を掲げたドラマチックで演劇的な宮崎駿作品と比べて、繊細でわざとらしくない若々しさを、起伏が落とされた丹念な描写で表現される。さらに無表情でさっとなされる挑戦的な映画的な演出はヒロイン武藤里伽子が湛える寸鉄の情動が結晶したかのようでもあった。
これからすこし具体的な場面等を一緒に見ていくので、ネタバレ注意ということを了解のうえ読み進めていただきたいと思います。あるいはもう先に見てしまいまうことがよいかもしれません。
寸鉄のごとき挑戦的な演出
映画は杜崎が東京から地元高知の同窓会へいくところから始まる。飛行機に乗って向かっていくシーンで、高知の高校時代=里伽子との出会いの回想をするシーンに移り替わる。
ここでは時間的な移行【現在→過去】と空間的な移行【東京→高知】が同期させられているのだが、切り替わるフレームがまるで写真アルバムのようにひとつ白い空間に収められた視覚的な演出で驚かされる。このような演出方法はいくつかのシーンでも見られるが、どれも時間・空間的移行(例えばやはり回想シーンを行き来する際)に伴って現れるために、効果としても「写真アルバム=平面」的である
カットで切断=接続されるフォローショット | <お金貸してくれない?>
以下は杜崎と里伽子との初めての出会い(会話)である。
画像だと演出効果がかなり分かりづらいが、最初に杜崎がショットに映っていて、次第に里伽子がショットインするシーン。本来ならここではフォローパンでなめらかにだんだんカメラを右方向に動かし里伽子を登場させるのが普通のカメラのやり方だろう。
しかしここでは、カットで切断&接続されている。すなわち、パッ・パッ・パッとショットが切り替わるのである。内容面で杜崎と里伽子とがする初めての会話で「お金貸してくれない?」という異質な出会い方を、演出が協力してその異質さを強調しているかのようである。
予示的な異質なショット | <このとき、やはり困惑せざるをえないのだ>
杜崎と松野が修学旅行のハワイの街をぶらつこうとするシーンである。
昼に二人が会話しているところ、ほとんど唐突に夜の灯火がショットが挿入される。すこし立つと元のシーンに戻り、杜崎が、松野の出かけようという提案に対して「うん」と答えるミディアムクロースアップショットに切り替わる。ここで観る者は、あれはなんだったのだろうと戸惑う十分な時間が与えられたあと、さきのシーンに切り替わる。ここでようやく合点がいくのである。単にスムーズに切り替わる、というよりもこうして映像のリズムを揺らめかせることで、この映画自体は劇的ではまるでないし、これが物語にも直接関係してくるわけでもないのだが、映像がふと意表をついて力を持つように感じられるになる。静かな力である・・・。
未来が現在に差し込まれること。だが実際はこれは回想シーンの一部であるため、過去でもある。過去が現在に、回帰ではない形で、まだ見ぬ形で、しかし予示的に唐突にやってくる。過去—現在—未来の時間がもはや流れることをやめて異質なものとなって私たちの目の前に現れる。このとき、やはり困惑せざるをえないのだ。
人物相互の情動交換と「平坦化」| <生きる現実はもっと繊細なのだ>
杜崎と里伽子が空港で揉めるシーン。里伽子が修学旅行のときに杜崎から、お金を落としたからという理由でとりあえず現金を借りたのが、実は東京にいくためのお金だったということが発覚する。
このショットでは里伽子はおらず杜崎は感情を苛立たせている。
里伽子がトイレから戻ってきて杜崎がそこにいるのを見つけると、苛ついたように杜崎に当たる。しかし一方で先ほどまで怒っていた杜崎は対照的にだんだん冷静になっていき、このあとに続くショットでトラブルの解決策を提示するようになる。
里伽子は先ほどまでは不機嫌だったが、杜崎の提案により見るからに機嫌がよくなるが、次の機内ショットではお互い無表情な様子が映し出される。感情の凹凸がぴったりとはまるかのように「平坦」になる。
それぞれの登場人物の感情の起伏、とくに里伽子のそれは劇的ですらある。だがどうだろう、それにもかかわらず映画全体としては印象として平坦であるように見える。おそらくそのひとつに、里伽子に対する杜崎の起伏の切り替わりによるのではないか。つまり里伽子の感情が激しいときは対して杜崎は落ち着いていて、杜崎の感情が激しいときは里伽子が落ち着いているという「収まり」あるいは「情動の交換」とも言いうるような現象により映画全体として平坦になる。しかしこの平坦ということは決して退屈であるということではない。平坦のなかで、しかしどうしても実際に事が起きているという経験、これは私たち、少なくとも70年代以降のそれぞれの若い世代にとっては、共感できる現実だったのではないか。起伏に富む劇的なものこそがむしろ嘘くさく、物語としても信じがたいもの、つまりフィクションのフィクションになってしまっていたのではないか。生きる現実はもっと繊細なのだ。解像度を高めてみないと取り逃がしてしまうようなもの。分かりづらいもの。しかしそれだからこそ生きる世界を信じるに足るものにしてくれる。
男女二人いても何も起きない、だが何かが確実に起きている
また後に出てくるショットでホテルでふたり、一泊するシーンがあるがそこでもほとんど無関心かのように描写される。男女ふたりなのだからドキドキするだとか、何かが起きるのだとかいうことはなく、まさに「平坦」なものとなっている。
そして翌朝の対応も、里伽子はまず杜崎に昨夜の謝罪をする、ではなく風呂場で杜崎が寝ていたためにトイレと洗面所が使えなかったことを言うのである。そして寝起きの杜崎に対してすぐ、友達と出かけるその準備をするから30分ぐらい外に出て行って、と一見冷たい当たり方をする。しかし杜崎は「へぇ、よかったじゃないか」と別に何もなく受け入れるのである。ここで思い出したいのは、杜崎はいわば理不尽なことに対しては積極的に抗議するカタギタイプであったことである(中等部の頃にも抗議していたという話や、高校の修学旅行中止の話が出たときは先頭に立って抗議していたところも描写されている)。このホテルでは確実になにかが起きている。<何も起きていない>が<なにかが起きている>。その後のショットで、この日をきっかけにして杜崎は東京の大学にいくことを決心した、と語りが入る。
終わりに
以上、演出・内容をつまみ見てきただけであるが、この作品の雰囲気が感じ取られたと思う。
「何も起きず、何かが起きる、とても静かに力強く。」讃歌がきこえてくる。これがぼくにとっての、この作品の<海>なのだ。
『海がきこえる』