「中外日報」2020年7月10日 第4面 随想随筆 瓜生崇(文字起こし)
出典:「中外日報」2020年7月10日 第4面 随想随筆 より
真宗大谷派玄昭寺住職
瓜生 崇(うりう たかし)
「宗教は正邪の差別性内包」
私は9年前の2011年に今の真宗大谷派の末寺に入った。その前は、とある真宗系の新宗教教団で講師をしており、そこは伝統真宗派とはいわば敵対する関係にあった。
そうした経緯を持った以上、多少の差別やいじめを覚悟していたが、不思議なことにあまりなかった。その代わり、私はその新宗教教団の欺瞞(ぎまん)性に気づいて脱会し、伝統教団で本物に出遇った、という体験を語ることを求められた。
当初はその期待に応えて、各地で講演に呼ばれて積極的に語ったが、途中でバカバカしくなった。なぜなら、私が元いた教団ではその逆のこと、すなわち、伝統教団の欺瞞性に気づいてやめ、真実を求めてその教団に入った体験談が重宝されていたからだ。
「本願寺は堕落しており、そこに真実はありませんでした」と語る信者に聴衆は感動し、「本物の宗教」に出遇えた喜びに高揚していた。せっかく脱会したのに、似たようなことをする必要性がどうしてあるだろう。
人は懸命に生きるほど、何が善で何が悪か、何が本当で何が間違っているのかがわからなくなる。その存在の根本の迷いに直面した人間は、宗教に「真理」や「正しさ」を求めてきた。
だから自分の信仰する宗教が本物でなければ困るのだが、「本物」は常に「偽物」を必要とするものだ。つまり宗教は、その存在の根源に正邪の差別性を内包していると言っていい。
「未だ宗教で救われぬ」
法話では「世間」の考えのおかしさが語られ、科学や経済に依存することの愚かさが説かれる。信仰を同じくする者たちは互いを思いやるが、一方教義を剣とし異端を切り裂き他を嘲笑することに容赦はない。
「共に生きる」をスローガンにしながら、分派したかつでの仲間への訴訟は躊躇(ためら)わない。世俗の権威は否定するのに、宗教のヒエラルキーと権威は絶対で、教団の偉人の言葉を我が物にして酔うのである。
正邪の迷いから解放される教えを聞きながら、「正しい生き方」や「正しい信仰」という聖域に自らを閉じ込めてゆく。しかし、それのなんと居心地のいいことだろう。
私も30年近く宗教を求めてきて、この懈慢(けまん)の聖域から一歩も出られないのである。そうでない考えを語ることはできても、自分がそうなれない。私は宗教者だが、未だ宗教で救われていないのだ。