音
いつだったか、十数年間ずっと悩まされてきた、この脳内を引っ掻き回す激キモ毒虫には名前がついていたことを知った。この類の経験は2度目だったが、前回とは少し異なる視界の開放を伴っていた。
ところで、その「前回」にあたる 不思議の国のアリス症候群 の判明では、それが最後に発症してからある程度の時間を経ていたし、それも精神に支障をきたすレベルの特に甚だしいものは体調の悪い時にしか起こらなかったなどの理由で、当時ではもうその症状に煩わされることが殆ど無くなっていたのだ、衝撃的ではあったものの、既に過去の話にすぎなかった。たしか、仰天ニュースの再現映像をみてウケただけだ。僕の五感はもっとぐにゃぐにゃで曖昧で、ぐるぐる回転、みたいな……ちょうど、少し前のAI生成の映像がなかなかそれらしい様相かもしれない。
それで、僕は常々、音や反復運動、落ち着きのない動作などに、拒否感や嫌悪感では足りないような、強い殺意を抱くことがあった。いま思い返せるなかでの最も古いその種の記憶は、小学校低学年あたりから、息を殺してゆっくりとフェードインしてきていた。
その衝動が萌すのはたいてい、睡眠を試みているときだった。近くで寝ているだれかのいびきが鳴っているとき、時計の針が一秒毎に空気を歪めるとき、両親が喧嘩しているとき、そういうときなどに、例の毒虫は脳内を暴れ回るらしかった。僕はそのだれかの鼻を摘んで音(と呼吸)の発生を妨げたり、耳を塞いだりして対処していたが、いまと比べるとかなり軽い症状だったからか、往々にして、暫くすると慣れ、次に起きたときには、昨日の夜のことなどはもうすっかり忘れているのだった。
小学生としてどちらかというと後半にあたるほうのそんな時期では、とうとう僕の記憶に両親の会話として喧嘩以外の音が刻まれることはなく両親は離婚した(マジで対話を見たことがない)し、運の良いことに僕が出会った大半の時計は無駄な音を立てなかったし、じぶん以外の人間と同じ場所で寝る機会も少なかった。生活の中でまれにみる雑音や、修学旅行の集団睡眠などの営みのなかで多少苦しんだとはいえ、たぶん、病的ではなかった。
その症状が本格的に悪化していったのは恐らく中学校に入って以降だ。なにがそうさせたのか、以前は機会が少なかったからか、アレルギーの文脈でよく聞くように、これも曝露によって悪化するのか、それとも他の原因があるのか、ただの偶然か?まあそんなことはきっとこれからも知らないんだろうけど、とにかく!僕のそれは悪化し始めてしまったらしかった。
授業中、テスト中、受験中、その他ふつうに会話しているとき、生きているときなど、テキトーなタイミングで貧乏揺すりなどをする迷惑極まりない人間が、この世には存在する。いやまあ実際のところ、より病的なのはそのひとではなく僕なのかもしれないけど、とにかく!そういう人間が存在してしまっているのだ。それが視界に入ってしまったとき、僕は僕としての全てのリソースを①それへの殺意とその抑圧、②視界からの排除、③関連の音の排除、みたいなものたちへと注ぐことになる。その結果、授業中などでは、僕の机には視界を塞ぐ為のすばらしげな要塞が出来上がったり、耳を強く塞いで震えて泣きながら伏せたり、トイレなどに逃げて時間を潰したりすることになる。殺意は大袈裟な表現ではなく、「コイツを殺してぼくも死のう」くらいなら余裕で思えるレベルだ。実際に彼らを殺していないのはかなりの努力だ。人生で唯一レベルの努力だ。なお、当然、だれも褒めてくれはしない。
貧乏揺すりでなくともそうだ。鼻をすする音、咳払い、嚔、わらい声、はなし声、足音、咀嚼音、鼻息、指先の叩き音、タイピング音、口笛、鼻唄、独り言、その他騒音、からだを揺らす姿とか色々な反復運動とか、落ち着きのない動作とそういう音など、などなど、などなどなど、枚挙に暇が無い。最近の特筆すべき地獄でいえば、隣人、それも横だけでなく上もだ、それらの熱唱と上の階の工事音がそれだった。耳栓をして、ヘッドホンをつけて、最大音量でホワイトノイズと正弦波を流して、上から布団を被っても、まだ足りない!どんな天気でもどんな時間でも、ひとり暮らしのはずなのに、現在進行形で誰かに躾をされているわけでもないのに、僕は家の中から外へと追い出されてしまった。今となってはありがたいことにどっちも引っ越してくれたし、無事に工事も終わり、少なくとも家の中において音のせいで精神が破綻することはかなり減った。よかった。
ただ、病名と、同じ悩みをもつ人間の存在、これを知ったときに、現実はなにも変わらなかった。きっと世界はいつもそうだ。信用すべきものなどは、最初から何処にもないのだろう。人生に倦んだのち、それで生き延びたときに紹介された精神科にいったとき、そこでなにかを話したとき、結論は処方箋の中に封するらしかった。あれは僕にふさわしい場所ではなかった。会話もくだらなかった。診察料が高い。「人生に執着する意味を感じない」といったら、そこから話が進むことは二度となかった。
なにかしらの病名がつくより前に、僕はさっさと通院をやめた。つまり僕のなかにいわゆる病気はひとつもない。いわゆる、このうえない健康ということだ。
これはきっと僕が色々なもの、世界やひとびとへ不信と嫌悪と無関心を抱くのに一役か一役弱買っている。人やものとの関わりを明らかに妨げているし、それは明らかに他人のせいではない。努力、努力?まあどっちにしろ、こうなってしまったのには変わりない。まあミソフォニアがなくても僕が僕である限り、思索の導く結論は変わらないんだろうけど……なら、背景なんかにはよらなくて、やっぱり僕は自己中心的なんじゃないですか?
はあ〜〜、人生、マジできめ〜〜〜〜〜〜
そんなこんなで、ミソフォニアは名前こそややマイナーかもしれませんが、症状に苦しんでいるひと自体は僕以外にもかなりたくさんいるみたいです。どうか貧乏揺すりをやめてあげてください。静かにしてあげてください。きっと対価はなんにもあげられませんが、人助けだと思って、ね?
ひとの声や音とかを騒音だと思うこと自体がおかしいとか、そう思ったら体調が悪い証拠だなどのふざけた言説を見かけるたびに、僕らは全力で耳を塞いで、時が過ぎるのを待ちます。生きている限り執拗に、ずっと繰り返されてゆきます。なんとも残念なことですね。
というわけなので、ぼくは手話を学んで耳を切り落として自画像を描くことにしようとおもいます。では、またこんど。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?