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三菱一号館美術館「再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル」
三菱一号館美術館が長期改修を終えて再開館している。よく前を通るから開いていないのも不思議だったし、かと言って開いているのも不思議な感じがする。長く眠っていた人が今は目覚めているらしいというそういう認識である。ともあれ再びここに足を踏み入れることができて嬉しい。
この展示を訪れたのは少し前なのでだんだん記憶が薄れているのだが、ロートレックの絵は好きなのでやはり何度見てもいいものだなあという単純な感想だけは残る。前回のルドン、ロートレック展の時がどうだったか忘れてしまったのだが、今回は撮影可能エリアでたくさん写真を撮った。ロートレックが描き残した人々は絵の中を生き生きと存在し、同時に今ではその誰一人としてこの世にはいない。しかし見るものは絵の前に立って、その光や埃っぽさ、空間を充満する人々の匂いのようなものを感じ取ることができる。それは圧倒的な「存在」であり、手の届かない光であり、ポジティブな「不在」でもあった。
対してソフィ・カル氏の展示物は「不在」が描き出す「存在」だった。良くも悪くも鑑賞者のメンタルに様々の影響を与える展示だったと思う。4分間の映像作品は本当に良かった。六人の人がそれぞれカメラに背を向けて海を見ている。長い時間の後彼らはやがて振り向き、無言でカメラをしばし見つめた後、ふいにフレームアウトしていく。一人だけは最後まで残る。この作品にどういう意図があるのか、少なくとも自分は思い出すたびに気が滅入るし、今もまた落ち込んできている。
今年「失われた芸術作品の記憶」という本を読んだのだが、そこで語られていたことが今回の展示を見ている間にも色々とリンクする部分があった。本では盗難や破壊など物理的に失われた作品を扱うが、それだけではなく「ない」あるいは「なくなる」ことを前提とした作品にも言及している。こうしたことはこの展示を見て回る間にも常に頭の片隅にあった。
ここにある、とはなんだろうか? あるいはここにない、がどういうことかも。「在・不在」を語るということは技法を問わず、広義のインスタレーションではないだろうかと思う。事実であり、表現されるものであるということ。われわれは不在という存在を絶えず認識し続ける「存在」であり、そうした行為そのものに視覚性が与えられることはいつでも興味深い。この展示では、そのアプローチの一端を見たと思う。