ホラー短編小説「塀」
どうする?どうすればいい?
汗が吹き出してくる。
硬く、目をつむると、瞼の裏の暗闇に、閃光のように赤信号の光が明滅した。
その時、僕は唐突に過去の出来事を思い出した。
なぜ、今まで忘れていたのか。そしてその思いつきは、起死回生のアイデアのようにも、地獄の門の入り口にも思えた。
ハンドルが汗で滑る。
僕は一つ大きなため息をついてから、ギアをバックに入れた。
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恐らく小学5年生の頃だったか。
当時、僕は仲のいい友達がいた。Yだ。
放課後はいつも一緒に帰っていたし、その日も帰る途中にある滑り台で遊んでいた。
僕たちは滑り台の上で、じゃれあっていた。僕はYの背中を、ふざけて押した。
もちろん、「押すなよー!」という、じゃれた声を期待していた。
だが、彼の体はどういうわけか柵を乗り越えて、中空へ放り出された。
そして、視界から消えた。
ご、という音が下からした。
僕は、たっぷり10秒、呆然とした。
そして、恐る恐る滑り台から身を乗り出して下を見た。彼が横たわっていた。
動かなかった。
僕は気付けば、動かなくなった彼を植え込みに隠していた。小柄な彼は意外なほど、周囲からうまく隠れた。
すでに周りは薄暮に包まれていた。
僕は顔を伏せて公園を出た。近所のおばさんに話しかけられたが、曖昧にうなづいて通り過ぎた。
そして、僕はその塀の前にいたのだ。
レンガで出来た。見たところ不思議なところもない塀だ。僕はそこで何かに命じられたように足を止めたのだった。
「こまってるねえ」
それは、当時の僕よりもっと幼い子どもの声だった。
「だれ?」
「こまってしまうものがあるなら、もっておいで」
僕の質問を無視して、その声は応えた。そして、
「かえてあげるから」
と言った。
その夜、僕は家をゆっくりと出、物置から父の使っていた猫車を出した。
そして、公園で動かないYを見つけた。少しだけ、頭に傷があった。
僕は猫車に彼を乗せ、その塀まで猫車を押していった。
「きた。ほんとにきた」
その声は嬉しそうだった。
「ひとかあ、いいよ。こっちに、それをよこして。はやく」
僕は渾身の力で、Yの体を塀に押し付けながら、にじり上げていった。そして、やっと塀の上に彼を横たえさせた。
「ほら、もうひとこえ!」
僕はYを塀のの向こう側へ押しやった。
予想していた地面に落ちる、どさっという音がしなかったことを覚えている。
「よし。じゃあやくそく。かわりをおくるよ」
そのまま、少し待っていると、男の子の顔が見えた。
Yだった。
きている服も、全く同じだが、頭に傷もない。
「こんばんは。〇〇君」
僕は何も言えなかった。
「さあ、帰ろう。今日は遅くまで遊びすぎたね」
そう言って彼は、少しだけ笑った。
その日から、僕とYはその日までと変わらない日々を過ごした。なぜか、僕もその日以降、その事実を忘れてしまっていた。
彼が、偽物であることを。
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僕はエンジンを止め、車から降りた。
目の前には、あの塀がある。
人通りはない。深夜だし、元々、辺鄙な場所なのだ。
「ねぇ、君はまだいるのか」
僕はいささか古びてしまったその塀に話しかけた。
「もう一度、助けてくれないか」
僕は、返事を待った。
生ぬるい風が吹いて、木々を揺らした。
「いいよ。こまってしまうものがあるなら、かえてあげる」
子どもの声がした。
僕は、トランクからぐっとりした成人男性の体を取り出した。
全く力が入ってないそれは、かなり重い。
「これだ、この人をとり変えてくれ」
「いいよー、じゃあこっちに」
僕は全身の力を使い、塀の向こう側へ押しやった。やはり、体が地面を叩く音はしなかった。
「よし。これでいいよ。かわりをいまつくっているからね」
僕は安堵した。
これで、僕の人生はこれからも続いていく。
友人を遊具から突き落としたことも、酒で酔っては人を車ではねたことも、それはこの塀の向こう側に消えてしまったのだ。
塀のこちら側にあるのは、安らぎのある、調和に満ちた世界だ。
そう、これでいい。
これでいい。
本当にこれでいいのか?
「ねぇ」
僕は塀に話しかけた。
「これ、僕もそっちに行っていいのか?」
僕は返事を待った。
「いいよ。きみじしんがこまってしまうものなら」
僕は、塀に手をかけた。
向こう側を見た時に、息を呑んだ。
なにもない。そこには深い闇が、どこまでも広がっていた。
「どうしたの?」
子どもの声は、その闇の、ずっと奥の方からしていたのだとその時分かった。
「僕の代わりは、生まれるんだよな?」
僕は尋ねた。
「もちろんだよ。まわりのひとはきづきはしないさ」
そうか、僕はそう言って、身を投げた。
凄まじい速度で体が落ちていく。
不思議と、恐怖はなかった。
僕の思考は、そうして喪失した。
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深夜、2人の男が塀の向こうから現れる。
2人は通りに降り立つと、会釈をしてそれぞれの岐路についた。
2人はそれぞれの玄関を開け、それぞれの風呂に浸かり、それぞれの布団で寝た。隣には家族がいた。
そうしてそれぞれの日々が過ぎていった。
ある少年が、この塀にボールを投げ入れてしまう。近くの父親に泣きついた。
「お父さん」
「どうした?ああ、ボールがあっちに行っちゃったのか」
「ねぇ、とってきてよ」
「まあ、そのまま待ってな」
少年は訝しがったが、なんと、少し経つとボールが向こう側から弧を描いて戻ってきた。
「え!すごい!ねぇ、お父さん」
なんで知ってたの?と少年は尋ねる。
なんでだろうね、と父親は少し顔に影を作って答える。