【笠谷和比古】大道寺友山「武道初心集」『武士道 サムライ精神の言葉』
同書からの抜粋となります。
第二章 忠義の心得
武士たらんものは、
正月元日の朝雑煮の餅を祝ふとて、
箸を取初るより其年の大晦日のタベに至る迄、
日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候
大道寺友山
(『武道初心集』)
大道寺友山(一六三九〜一七三〇)は京都伏見で生まれ、
江戸に出てからは山鹿素行と同様に
小幡勘兵衛や北条氏長らに師事し、
甲州流兵学を学んだ。
その後会津藩や福井藩に召抱えられ、
享保二年に隠遁してからは著述活動に専念した。
友山によれば『葉隠』に書いてあると同じく、
武士たる者は正月の元旦に雑煮を食べる前から、
大晦日の暮れに至るまで
常に死ということを心にとめておくことが大事である、
と『武道初心集』の冒頭で述べている。
ただし、これは『葉隠』の死にもの狂いで生きよということではなく、
もっと功利的な面もあり、
常に死を覚悟している武士は「忠」「孝」ふたつの道に叶っており、
「其身無病息災にて寿命長久」
であるとされていた。つまり
死を覚悟して生きれば逆に長生きできる
という逆説なのである。
次に友山によれば
「義をつとめ、不義をつつしまば武士道は立申すにて候」
と述べており、武士道においては
「義」が中核であり、本質であるとしている。
「義」は「善」であり、
反対の「不義」は「悪」とされ、
「義理をちがへて不義を行ふは武士の意地にあらず」
と断言している。
友山は義を実践して生きることを武士道としているが、
義も三段階に分けられるという。
まず「人を恥じて行なう義」である。
これは人の目を気にして行なう義であり、
世間体や世間の目を気にしながら行うものである。
次は「心に恥じて行なう義」であり、
自分の中の良心にしたがって行う義であり、
自分の中で邪念が起きてもこれと戦い、
つらぬく義である。
自分の内面の規制により行う義ともいえる。
最後は「ありのままの義」である。
これはまったく自然体の義であり、
世間体や自分の内面の対話によって決まるような義ではない。
ありのままに行動することによって義を行なうことを意味している。
このように義こそが武士道の根幹であると説かれているが、
この義を行なわない輩は不義なる者であり、
武士にあるまじき行為としている。
このような者は「恥」とされ、
友山は
「義を行なひ勇を励むとあるに付きては、
とかく恥を知ると申すより外の心得とてはこれ無く候」
と述べている。
こちらの内容は、
『武士道 サムライ精神の言葉』
発行所 株式会社青春出版社
著者 笠谷和比古
2004年4月15日 第1刷
から引用させて頂いています。