市民社会の安全保障①
新型コロナ感染症の拡大は止まらず、豪雨による水害も相次いでいる。このような危機に対して、どのようにわれわれの住む社会の安全を確保することができるのか。私は、9年前、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故のあと、海外の危機対応政策について調査に行った。その調査で学んだことを、東京大学政策ビジョン研究センター(現未来ビジョン研究センター)のホームページのコラムに掲載したが、今読み返してみて、現在の危機への対処に当たっても参考になると思われるので、再掲することにした。発表したのは、2012年12月28日である。長文のため、3回に分けて掲載することにしたい。
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1.はじめに──「安全保障」についての認識
ますます進む少子高齢化、まもなく限界に達しそうな財政危機、進まない東日本大震災からの復興、深刻な原発事故への対応、そして竹島、尖閣諸島をめぐる隣国との対立。今のわが国は、これまでにない国難ともいえるいくつもの危機に遭遇しているが、それらに対してどのように対処したらよいのであろうか。
「安全・安心」ということがいわれるようになって久しいが、どのようにしたらそれが実現できるのか、それを保てるのか。そもそも国民社会の安全・安心とはどのようなものなのか。
わが国では、これらの課題については、高齢化の問題、震災からの復興等、個別的に考え、それぞれに対処するための策は講じられてきたかもしれないが、それらが複合的に発生した場合への対応や、総合的な社会の安全を保障するための体系的な政策は作られていない。政府の何処かで検討されているのかもしれないが、国民の間でそのような危機への対応策についての認識が共有されてはいるとは到底いえない。
これまでは、実際に起これば深刻な危機であっても、当面起こりそうもないものについては想定せず、まさに「想定外」として処理してきたのがわが国のやり方であった。しかし、最近の尖閣諸島をめぐる中国との対立は、ありえないと思っていた軍事的紛争が、わが国にとって決して非現実的なものではないことをわれわれに知らしめた。
先に述べたもの以外にも、大規模な感染症の流行やサイバー攻撃、石油等のエネルギー源の輸入の途絶や価格の高騰、そして世界的な金融危機等、一度発生すると社会が大きなダメージを受ける脅威はいくつも存在している。
こうした一般市民の生活を脅かすような危機に対して、われわれはどのように対処すべきか、危機をどのように捉えてどのように備え、それが発生したときには、われわれは何をすべきなのか。より率直にいえば、危機によって何らかのダメージ──人命、財産の喪失や一般市民の社会生活への深刻な障害──をいかにして防ぐか、さらにはダメージを受けることが避けられないとき、それをいかに最少化し、それからいかに早く回復できるようにするのか。
わが国ではこうした広い意味での市民社会の「安全保障」政策が作成されていないことはもちろん、作成の必要性についての認識も乏しいといえよう。だが、日常的にも、その国の歴史上の経験においても、大きな危機に遭遇してきた国々の中には、体系的な安全保障政策を策定し、それを国民の間で共有しているところがある。わが国も、起こりうる可能性のある危機から目を反らさず、このような広い意味での「市民社会の安全保障」政策を、国民参加の下に策定すべきではないだろうか。
2.フィンランドの例
2012年8月末から9月初めにかけて、私は、わが国でも導入に向かいつつある国民番号(マイナンバー)制度と医療のIT化の調査のため、北欧諸国デンマーク、フィンランド、そしてエストニアを訪れた。
これらの国、とくにフィンランドの調査をして得た最初の印象は、国民番号制度を含め、行政の電子化は、より基本的な行政目的、具体的にいえば国民の生活の安全を守るという上位の目的を達成するために必要な効率的で有効なツールとして位置付けられているということである。
フィンランドでは、市民生活の安全確保の観点から、市民生活のあらゆる側面をカバーするように政策体系が考えられていて、その政策を、とくに危機において、確実かつ効率的に実施することを目的として、情報システムが設計されている。
その基本的な考え方は、非常に体系的である。まず、第1に、国民生活の現状を基準として、それを脅かすような脅威をリストアップする。第2に、それらの脅威が発生した場合、国民生活に不可欠のどのような要素が欠落するかを把握する。そして、第3に、危機が発生し脅威が現実化した場合に、それらの要素を可能な限り供給するための仕組を構築する、というものである。
こうした政策によってめざすのは、図1が示しているように、まずリスクの発生を防ぐための「リスク管理」である。しかし、不幸にして脅威が現実のものになったときには、そのダメージの縮減、換言すれば被害の最少化を図る。それが、持続計画(continuity plan)の実施を含む「危機管理」である。要するに、被害を最少化し、壊滅を避けて社会やシステムを維持していくことをめざすのである。そして、その状態が安定したのちに、回復・復旧のステージに入る。そこでの課題は、できるだけ早く復旧を図ることであり、当然、復旧の速度は初期のダメージが少ないほど早い。
図1.市民生活の水準の維持
コンセプトに基づいて、起こりうる脅威を列挙し、その脅威が現実に発生したときに、欠けるもの、換言すれば、供給の確保が必要なものを、予め明確に決めておくのである。優先して供給を確保すべきものを明確にし、優先順位を付けておくということは、異なる観点からみれば、緊急時に放棄すべきもの、断念すべきものを予め決めておくということでもある。この放棄するものの中には、市民の財産や都市のインフラ等が含まれることはいうまでもないが、大規模自然災害や戦時の場合には、より大きな被害を防ぐために、一定地域の住民の生命も含まれていると考えるべきであろう。
フィンランドの国家緊急供給局(National Emergency Supply Agency)では、「供給の確保」(security of supply)を、「深刻な社会不安や例外的な状況が発生した場合に、国民生活、経済生活、そして国防にとって不可欠である経済活動と技術的インフラストラクチャーの持続性を確保する能力」と定義し、想定される脅威を示すとともに、それに対して確保すべき供給の対象を決めている。
すなわち、供給の確保に対する最も深刻な脅威としては、まず第1に、市民生活に不可欠な財やサービスの外国からの輸入が一時的に途絶えたときに起こる危機がある。必要物資等を外国からの輸入に依存している国においては、輸入の途絶は直ちに市民生活に大きなダメージを与える。
第2は、コミュニケーションネットワークや情報システムのマヒである。すなわちサイバー危機であり、現代社会においてこうしたネットワークやシステムがいかに重要なものであるか、そのマヒがいかに社会に深刻な影響を与えるかも、改めていうまでもないだろう。
第3は、エネルギーの供給、とくに電力の供給における深刻な障害の発生である。北欧の国々のような寒冷地では、冬期のエネルギーの不足は生死の問題である。
第4は、人々の健康や福祉における重大な障害の発生である。感染力の高い感染症の流行等が想起される。
そして第5が、災害、極端な自然現象の発生や環境異変などによるダメージである。地震や、風水害はもちろん、原子力施設の事故などもこれに含まれるといえよう。
これら以外にも、もちろん悪質で大規模な犯罪やテロ、そして外国からの侵略も脅威に該当することはまちがいない。
では、こうした深刻な脅威に対して、何を守るべきか、どのような物資ないしシステムの供給を優先的に確保すべきなのか。それは、社会の諸要素間の依存関係に基づいて決められる。すなわち、図2に示されているように、最も多くの要素が依存しているものが、最優先で供給の確保がなされるべきものとされている。
図2.諸要素の依存関係のピラミッドとさまざまな脅威
このような考え方に立ったとき、フィンランドの社会にとって、その供給が最も重要な要素が、エネルギーとその供給網である。エネルギーが不足し、供給ラインが途絶したときには、すべての社会的機能が停止する。それゆえ、何よりもその補給とラインの回復が優先されなくてはならない。
そして2番目に、データ・システムとコミュニケーションネットワークである。下記に述べるように、効率的かつ迅速に供給の確保を行うためには、情報ネットワークが正常に作動することが不可欠である。
3番目が、物流(ロジスティックス)および金融である。物資の供給の確保のために物流が重要であることはいうまでもない。また、金融システムの崩壊は経済活動をマヒさせる。
4番目が食糧の供給と健康管理、マスメディアであり、5番目が政府と企業、そして最後6番目に市民と消費者である。正常な市民生活や消費は、エネルギーの供給、情報システム、そして物流・金融システムが正常に機能し、さらに食料供給や公衆衛生が確保され、行政機関や企業の活動が存在して、はじめて成り立つのである。
以上の脅威についての捉え方と確保すべき供給の順位については、わが国にそのまま当てはまるものではない。気候も異なれば、外国への依存度も異なる。わが国で、同様の政策を策定する場合には、わが国に相応しい体系を構築すべきである。
それはともかく、多くの場合予測が困難な脅威の発生に対し、上述したように被害の最少化と迅速な復旧を図るには、被害の状況を可能なかぎり早く正確に把握しなければならない。端的にいって、フィンランドの行政情報システムは、こうした事態に活用することを目的として構築されているといえる。
よく整備され、国が一元的に管理する国民番号制度も、そうした事態における住民の状態把握を念頭に置いて、他のシステムと結びつけられている。どこで発生するかわからない危機に対して、それが発生時に、迅速に発生場所の位置情報とそこにいる住民情報を結びつけ、住民生活で欠けたもの、必要なものをいち早く供給する体制を整備しておこうというのである。被災者が多数に及ぶ場合、こうしたシステムの存在が被害の最少化と被災者の救済に貢献することはいうまでもない。
高齢化が進むわが国の農村部においては、高齢者の生命と生活を守るために、このようなシステム、そしてその前提となる国民番号制度は必須のものといえよう。早急な制度化が期待される。
このような情報システムの整備が、危機への対応策として最も重要であるが、被害が発生したときに不足する物資等を速やかに供給するためには、そうしたものについての備蓄や調達の仕組もなくてはならない。とくに市民生活の維持に必須の物資を外国からの輸入に依存している場合には、その供給の確保には日常的な備えが必要である。
また、こうした物資やサービスは多数の省庁・行政機関が所管していることから、緊急時の総合的・体系的で迅速な対応を可能にするためには、救済や支援に必要な被災者等についての情報を関係機関が共有すること、そして連携して救済に当たることが重要である。
フィンランドの国家緊急供給局のミッションは、こうした場合の統括者としての役割を果たすことであり、そのために日常から、各機関の役割の連携について計画を立て、危機に備えている。平時において、そもそもリスクの発生を予防し、発生時にも被害の最少化を図る事前の対応が「リスク管理」であるが、危機発生後の効果的な対応、すなわち「危機管理」のあり方を緻密に計画しておくことも、リスク管理の一部に含まれるといえよう。
ところで、市民社会を維持するために必要なものを早く供給することが供給の確保であるが、必要な物資の中には、国内で生産されないものや充分な備蓄がないものもある。それらのものを確実に早く確保するためには、外国から調達しなければならない。それを迅速かつ確実に行うためには、常日頃から供給元となりうる国と協定を結び、緊急時に備えておくことが必要である。それには、それらの国と常に良好な関係を築いておくという外交上の手当が重要である。
以上、私が理解したフィンランドの事例について述べてきた。フィンランドは、人口600万弱の高緯度地方に位置する国である。前述のように、この国で当てはまることが、20倍の人口を擁するわが国にそのまま当てはまるわけではないことはいうまでもない。しかし、置かれている状況は異なるとはいえ、市民社会を守るという観点からの体系的な思考方法が参考になることはまちがいない。
フィンランドは、東に位置するロシアと長い国境で接していて、歴史上何度も圧迫・侵略を受けてきている。他方で、エネルギーをはじめ多くの物資等の供給に関して、ロシアに依存している。こうした国際関係の中で、どのように外交を展開してきたのか。限られた国内の資源、国力を所与として、国民の生活を守るために何が可能なのか、それを考えてきた合理的な思考には、学ぶところが多いと思う。
市民社会の安全保障②
3. 危機管理における合理的思考に続く。