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【創作短編】bbBEELZEBUBBUZZESss(前)


さっきっから、

珈琲茶碗[コーヒーカップ]の縁の所に、1匹の黒い蠅が留まって、せわしなく手を摺り、脚を摺り、していたのだが、

そいつがおもむろに人間の声と言葉でもって喋りだしたには、平生より冷静沈着を自負しているさすがのおれも、危うく魂が消えかけた。


「御機嫌よう、旦那、へへ、素敵な御庭で。ちょいとお邪魔を致しております」



「・・・どうぞそんなに、睨まないでおくんなせえ。羽根を持ち、空を飛ぶという、この憐れな宿命を背負った弱小生物に、ほんの一刻ばかり、休息の場をお貸し下さる――それくらいの御慈悲は、地上の完全支配者たる人間様にも、おありでしょう?」


おれはさぞ険しい顔で睨み付けてでもいたのだろう。

実際には、自邸の庭での安逸な1人の時間に、突如として下品に割り込んできた、この超現実的状況に脳の情報処理が追っつかず、ただ固まっていたに過ぎないのだが、

その沈黙をどう解釈したのか、蠅の口調はさらにおもねるように、わざとらしいまでに甘ったるい声色を装って、そうして茶碗の縁をじりじりと移動しながら、しきりに手を摺り、脚を摺っている。



「せめて茶碗[カップ]ではなく受皿[ソーサー]に留まってくれれば良かったのに」

――という呟きが、暫時の後おれの発した第一声だった。

茶碗の底、4分の1ほどの冷めた珈琲。残りを飲む気は、奴を目にした瞬間から失せてしまっている。


「ははぁ、そこを突かれちゃ敵わねぇ。良い匂いがしたもんで、つい、ね。特にこの、旦那の口を付けた箇所、これは、チョコレートか何か、食べましたね。もう残っていないのは、惜しいが・・・・・・」

「何か用でも?」

名残惜しそうに茶碗の縁を摩る、蠅の気色悪さに我慢がならず、おれは不快感を隠そうともせず言った。

「ただ休憩したいだけなら黙って留まって、黙って飛び去ればいい」

「つれないなぁ」

蠅は臆した様子も無く、

「ちょっぴり茶碗を汚されたくらいで、そうイラついちゃいけません。品格を疑われますぜ。だいたいこれを飲んだって、毒どころか、味の変化もわからないくらいの筈ですがね。

えぇ。たしかに我々はあなた方にとっちゃヨゴレモノでしょうが、もう昨今じゃあ、ちょっと間接的に食器や食物に触ったくらいで病気を伝染させるような、そんなおそろしい力を持った仲間は、そうそう自然におりません。

ある程度以上の街ならば、ゴミだって、生物の死骸だって発見され次第迅速に片付けられますし、そもそも病原菌もないクリーンな土壌で生まれ育った我々に、媒介なんて、とてもとても。

何なら、私たちの事を1匹2匹、飲み込んだって異常はないでしょうよ。いやぁはは、勿論、食べられるのは、御免被りたいですがね」

「こっちだって食いたいと思わないよ」

「そうですか?そりゃ光栄だ。いやぁ何しろ人間様は何でも彼でも食べなさるから。特に、どんなゲテモノでも流行すれば、皆でこぞって手を出すしね・・・・・・

と、だから、そんなに睨まんで下さいよ。おお、怖ろしい。

こちとらはもうこの通り、見ての通りの弱小下等生物に成り果てちまったんですからね。

これでも太古の昔には、大軍を挙げて地上を席捲し、幾つもの国を伝染病の恐怖に陥れ、屈強な兵士も、砂漠の獅子をも屈服させ、好き放題、圧政を振るったもんなんですが。

ともあれやっぱり、何を言おうとこの世の中で、人間様に敵う者などおりませんや。どんな凶悪な毒にも災害にも順応して、たちまち対処法を編み出しちまう。

医療と衛生の白き御手は、あっという間に我らが黒き能力をも、払拭してしまいましたとさ。ぶぶ、おそれいりやす。かつて悪魔と恐れられ、同時に崇め奉られた『蠅の王』の末裔たる私ども1族でさえ、現代にあっちゃあ、もはや何の力も残っちゃいない。

ま、せいぜいが、人並みの知能を持って、人並みの会話を交わせる、といった程度のもので」


「へええ?蠅の王様ね――そんな伝説は、ちらほら目にした事もあるけどね。お前が、その子孫だと言うのかい」

ぶぶ、おそれいりやす」


と、蠅の奴の、それは笑い声であるらしいが、すぐ耳元でしきりに羽音を立てるような、鬱陶しく纏わり付いて、神経に障る音だった。

不快の只中にいるおれをよそに、蠅は手を摺り脚を摺り、胡麻擂り口調で勝手に喋る。


「しっかしまぁ今時分、家柄や血統なんてものは、誰にも、何の得にもなりゃしませんや。民の畏怖なくしては神も悪魔もただの役名、舞台の上の道化も同じ、ってね。

今の世に、必要なのはそんなものよりも・・・・・・」


と、コショコショいやらしく擦り合わせていた前脚を、そこで一寸止めて勿体ぶるように「ためた」後、「ぱっ」と目いっぱい広げて――と言った所で所詮は蠅の体躯だから、せいぜい最大で5mm程度の「ショボい」動きなのだったが――

ひときわ高々と、演説調になり、


「時流を読んだマーケティング戦略!

誰の目にも否応なく留まるプロモーション力!

そして、捕まえた客を飽きさせないエンターテイメント性!」


「蠅のくせに、」

おれは吐き捨てる。

「人間社会みたいに語るなよ。それは蠅社会についての話か?だったらおれに聞かせる必要は無い。人間社会の話か?お前に人間社会の何が分かると言うんだ――――いいからとっとと失せてしまえよ」


おれは蠅の、可笑しくも可愛くもないちんけな容貌や身振りにも、それとは反対に大きく自信満々に響く声音や口振りにも、いよいよ本気でむかついてきたのではあるが、それでも黙って無視をしてしまわず、会話の相手をしていた時点で、もしかしたら奴の思う壺であったのかもしれない。


おれの言葉を聞くと蠅は、ぶぶぶぶぶ!と笑い転げた。――転げる、と言うよりも、――羽音を響かせ、茶碗[カップ]の縁を、時折向きを変えながら瞬間移動のようにあっち、こっちへ、せかせかと転移する様子は、そうして茶碗を隈なく毒してやろうという、悪意ある作為的行動としか思われなかった。


「五月蠅いなぁ」

「おっ?洒落ですかい、旦那?」

「うぜえ・・・・・・」

「まるで苦虫を噛み潰したような顔をしていますねぇ」


そして自分でさも高尚な冗談を言ったという風な、得意気な様子で身を震わせた。


あ、駄目だ。

最初から、うすうす感じてはいたのだが、こいつと会話は成立しないと、おれはこの時完全に理解した。一見、通じているようで、やはり言葉の共有など、元より出来ていないのだった。互いの意思を少しも容れないで放たれるばかりの言葉は沈黙よりも質が悪い。

面倒くさい婉曲な言い回しで、慇懃無礼に、おれの時間を喋り潰してくる蠅の意図など知った事ではないが、まともにやりあう必要もない。こいつがこの調子で延々と喋るつもりならば、こっちもそのつもりで、言葉の受信設定を切り替えるだけだ。


「しかし何と言っても重要なのは・・・・・・」

蠅は滔々と語り続ける。

「つまり、今のすべてにも共通した必須事項でありますが、それは『大きな声』ですよ。ヴ、ヴ、ヴ、


「ほぉ・・・」

「そう、人を惑わすには、言葉が最も有効だ・・・・・・そして熟考の末の一言を小さく呟くよりも、はったりだろうととにかく大きく!

堂々と、否応なく民衆の鼓膜を打つように!

そうすりゃ、大抵の人は意味など理解する前に――或いは何も意味など無いと理解する前に、ですね、何となく騙されちまいます」


「成程。だから、お前の声は大きいわけだ?」

「ええ。――おっと、いやまさか、旦那を騙そうなんてつもりは、私にゃ毛頭ございませんがね。えぇでもそう考えると、あらゆる悪魔的能力を失った我々に、最後まで残ったものが声であるとは、ぶぶ、案外、道理に適ったものではないでしょうか?」


ニヤリ、と嗤ったような気がした。


(つづく)




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