【創作短編】bbBEELZEBUBBUZZESss(中)
実際、蠅の声はその小っぽけな虫の躯ひとつから発せられているとは信じられないほど、地声からして既に大きく、美しい声等とは到底言えないけれども、一言一句、発音も明瞭だった。
どんな周波数を持っているのだか知れないが、まさに、耳を塞いでも入ってくる、否応なく届かす声、だった。
悪魔は耳から犯すという・・・・・・
これも、何処かで読み拾った知識である。
おれは当然ながら、いくら声がデカかろうが、こんな卑しい蠅ごときに口頭でやりこめられるような心配はしていなかったが、それにしても、もしもこんな演説の奥で、奴が何かしらを企てて、おれに仕掛けようと目論んでいるのならば、ひとつ暴いてやろうという気が起った。
言葉の扱いならこちらの方が上手である事を示してやろう。どうせまともに会話できる相手じゃない。いっそ、楽しむ方が勝ちだ。
おれは軽く、鎌をかけるつもりで、
「ところで、お前も末裔であれ、要は悪魔の1族なんだろう?そんなら、そうも簡単に手の内を、おれに喋って良いのかい」
「手の内だなんて!旦那、止して下せえ。そう何でも彼でも疑っちゃあ困ります。用心深いのは結構ですがね、今に限っては違いますよ。
今の話は、ただの一般論として申し上げたまで。私はちょいと話題を提供して、旦那と楽しくお喋りがしたかっただけで。
他には、何の腹積もりもございません。公明正大、清廉潔白、この身にゃ黴菌ひとつ付いてやしませんや」
「どうだかな・・・・・・」
「ちぇ、人間様方の差別意識はこれだからやり切れねぇ。種の出自は曖昧なくせに、根はとことんまで深いと来てる。
どうです、私がたとえば可憐な蝶々ででもあったなら、旦那もも少し好意的に、相手をしてくれたんではないですか?奴等だって、芋虫の時代にはさんざん迫害されるのにねぇ」
・・・折しも、そのように言っている我々の横を、ふらふらと黄色い揚羽蝶が1頭、酔ったような調子で音もなく飛んで行った。くたびれた夏の名残を引き摺って、去り行く蝶の影を見送ってから、
おれはまた白い茶碗[カップ]の汚点へ視線を投げる。
「そうだな、人間はどうあっても差別から離れられない生き物だ。それが嫌と言うのなら、そもそも関わり合いにならなければいいだろう。幸い、お前は蠅であって人間じゃないのだし」
「何を言いなさる。ああ可笑しい、旦那ともあろうお方が、あんまりな御冗談を!」
と、ここでまたひとしきり、蠅はあの耳障りなぶぶぶという笑い声を立て、それからずっと話し声にもいやらしい嗤いを含んだままで、
「この地球で、生きて行こうとするならば、人間様と関わり合いにならずにいる事の方が困難でさあ。
よっぽどの僻地、あるいは、地球の外へまで逃れても、まだ充分とは言い切れまい。今にも追い付かれ、掘り起こされ、支配されそうして駆逐される時を兢々として待つよりは、いっそのこと懐深くに飛び込んで、その恩恵に与るのが賢いやり方、ってもんでしょう。
本当にねぇ。繁殖力と言い、雑食の度と言い、あなた方こそが、この世で最も生きる事に長けた、逞しい種族に違いない。どうにかその精力の1滴でもいいから、此方へもお恵みを垂れてもらいてぇもんだ」
「精力。――そう言う事ならばお前たちこそ、何でも食らうし、何処にでも湧いて出やがるじゃないか?」
「へへへへ、そりゃあ、人間様に倣っているだけで」
気色悪い、甘ったるい声で諂って、手もみをしながら蠅は言う。
「ねぇ旦那、勘違いなさらんで下せえよ。これらは全部、本心からの尊敬を籠めて言っているんですぜ?
私どもは、あなた方を慕っておるんです。人間様のお側にくっ付いてさえいりゃあ、まず、食いっぱぐれる心配はありませんからねぇ」
この、口ばかりの・・・胡麻擂り野郎め!――「野郎」だろうか?・・・・・・
いや、まあどうでもいい。こいつはこうやって、媚び諂うかの調子でもって、おれや人間を愚弄する事に、悪趣味な満足を感じているのだろう。
先刻、こいつは謂われなき不当な差別扱いを受けているかのように、非難めいた口調でおれに言ったが、この嫌悪は決して蠅という種に対しての、おれの誤認や先入観によるだけではない。こうして今という現実に、こちらの都合も構わずすり寄ってくる、野卑で不潔な、
「こいつ」の存在が嫌いなのだ。
おれは庭椅子[ガーデンチェア]の背に凭れ、初秋の金風吹き交う我が庭中を見渡した。
1人きりの、完成された、思い通りの生活。
さほど広くはないにしても、それ故に隅々まで手入れの行き届いた、つつましく上品な、我が庭で過ごすひとときの至福。
すっきりと剪定された庭木や植え替えたばかりの花々にも目立った虫食いや病気の兆候は見られず、一見、まるで穢れなき芸術品が如き、この景観を損ねるものは・・・・・・
卓[テーブル]の上、茶碗[カップ]の縁、微小な黒い点たった1粒。
「ああ、
――――――そうだな。
その通り、お前たちの処世術は賢明だ。
考えてみれば確かに、人と蠅とが無縁でいられるなどと、言える筈がなかった。お前は本当に賢いよ――悪かったね。仲良くやろう」
「・・・・・・」
蠅は狡そうに、何処を見ているのか判らない紅い複眼をおれの方へ向けて、暫しの間沈黙した。が、完全に静止している事は出来ない性らしく、無音の間にもかぼそい手足を忙しなく摺り合わせているのは変わらない。
おれは庭を見る視界の端にそれを捉えながら、
「人の世が、今こうして成り立っているのは、そもそもお前たち虫や、草木や自然から、多くの理を学習し、研鑽を重ねてきた結果だ。そういう歴史を忘れて、ひとり人間ばかりが奢ってはいけないね。
言うなれば、おれの生活も、すなわち今この時間があるのも、お前たちのお蔭、というわけなのだから」
「旦那はやはり大変に聡明な御方で・・・・・・
私の見込んだだけの事はあるというもの・・・・・・ですがね。
本当に、そう仰るのは本心でしょうか?どうやら少々、わざとくさいな」
目線を下げれば奴と目が合う。
「無論本心さ。お前の姿だって改めてよく見てみれば、その複眼、隙のないメタリック・ボディ、戦隊ヒーローのモデルになったのも頷ける。何とも格好いいじゃないか」
ヴヴヴ、と身震いさせて、饒舌な蠅はすぐには返事もしなかった。おれの態度に警戒はしつつも、どうやら奴め、手放しの煽てには慣れていないと見える。
そんな蠅の様子をおれはじっくりと眺めた。
やはり少々強引過ぎたか?だがおれは嘘など吐いていない。無論、本心だとも・・・・・・――そう、これは嘘とは言わない、心の一部を敢えて明かさないでいる事は・・・・・・
おれは薄く愛想笑いさえ浮かべた。
「ああ、持ちつ持たれつ、なんだ。お前たちが人間に生き方を学んだ一方で、おれたちもまた、お前たちから学んだ。これからも、きっとまだまだ学ぶべき事柄は沢山あるんだろう。
――色々、教えてくれるね?なにしろ、折角、お前はおれと喋れるのだから」
「ええ、そりゃあもう、喜んで・・・・・・旦那のお役に立てるのでしたら、ヨゴレモノにも一片の価値はあるというもので」
「そう卑屈になるなよ。何かおれに、望む事があるなら言ってご覧」
瞼を持たない複眼は瞬きもせず、それどころか白目もないから動きもない。くすんだ均一な紅色の奥に表情を読むなど出来る筈もなく、けれどおれは自分に向けられた奴の眼を、じっと見据えた。
蠅は幾らか声を抑え気味に、しかしいっそう耳の奥深くに差し込むように言った。
「では先ず、『汚い』『醜い』『卑しい』と・・・・・・そういう我々に対する認識を改めて頂きましょう」
「格好良いと言った言葉を信じないのか?」
「それは、幾らか本当も含まれていたかも知れません。旦那は言葉の上だけでも、丸きりの嘘というものを嫌っておいでですからね。
ですが、こちらも旦那の手法について、何も知らないわけじゃありません。うまく核心に触れないように、言葉を選んで私をはぐらかそうとしましたね?しかしそうはいかない。ひとつひとつの言葉の裏に、深く根を下ろした偏見と、どすぐろい嫌悪があるのは隠せませんよ。
――ほぅら、どうです。もうそろそろ、じっと私と見詰め合っている事の不快さに、耐え切れなくなってきたのじゃありませんか?」
ああ鋭い。
どこまでも嫌な奴だ。これだから、知能と言語を持った蠅など鬱陶しさが増すだけだ。
おれが顔を顰めると、蠅は取り繕うように優しく、粘っこい声色でおれに語り掛ける。
「――とは言え、ね。意識の問題は、それを今すぐ変えろと言ったって出来るもんでもない事は、重々承知していますとも。
旦那の罪とは思っちゃいません。人間様の習性に関しちゃ、日々、勉強させてもらってるんで、へへ。これから、ゆっくりと時間を掛けて、矯めていってくれりゃあ良いんです」
「これから、ね・・・」
「ええ旦那。仲良く、して下さるんでしょう?先ほど確かに言質を頂きました。勿論、前言撤回などしないでしょうな?嘘なんて旦那らしくもない。
――なぁに、五月蠅く付き纏うつもりなぞありませんよ。旦那の生活の片隅に、こう、ちょいとばかし、お邪魔して、毎日ちょっとずつ、言葉を交わして下さればいい。そうして喋っているうちには、段々と、旦那にも私の心が染み込んでいくでしょう・・・・・・
そうして、ね、多くは望みません。あなた方が群がって啜る例の『美味い蜜』を、私にも時々、ほんのひと舐め、さして貰えましたら、後はもう何も要らないのです・・・・・・どうです、ささやかな、可愛らしい願いじゃないですか?」
蠅の、紅い複眼。その下辺りで素早く長細い口が動いた様子は、所謂「舌なめずり」だったのだろう。
(つづく)
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