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【新釈・グリム童話】星銀貨 -Die Sterntaler-

原作グリム童話:Kinder und Hausmärchen; Die Sterntaler

ドイツ語を自分の言葉に直すとともに、

物語の余白を想像し、独自の付け足しと改変を加えています

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Es war einmal

「むかし、むかしのものがたり。」


☆☆☆

夜道を子どもが歩いている。

この子どもはまだ幼いというのに、2親を相次いで病で亡くし、他に親戚も、引き取り手の当ても無かった事から、貴族の寄付金で運営されるまちの慈善養護施設へ入れられたのだが、

何しろ家が元々たいそう貧しかったうえに、母親に続いて父親が病床に臥してからは、わずかな収入さえ途絶え、さらに薬代などで益々生計は立ち行かない、3人分の、最低限の食事代すら購えないから、病身の親は自分たちの、なけなしのパン切れも「食欲がないから」等と理由づけては、無理にも我が子へ与えていた。

という具合なので、とうとうという臨終の刻にも、もう餓死と言っていい程の痩せさらばえた姿で、その遺体の軽さと言ったら葬儀の手伝いに来た町人が棺を持って、「おい、中身が入っていないぞ」と言ったという位で、

そのようなわけだから当然、子どもに残されたもので形を持ったものなど殆ど何もないに等しく、遺産と呼べそうなものはその、誰よりも篤く深い神への信仰心より他には無かった。


そうして子どもを引き取った、施設のほうでも、それは確かに、あくまで慈善事業として身寄りのない子どもたちの養育をしてはいるのだけれども、

まったくどんな得も利も無いまま、不幸な子どもを際限なくいくらでも世話できるような余裕があるはずもない。また当世においては、そのような子どもたちはいくつも路頭に溢れていたので、おおくの人数を救う為には、出来るだけはやく、預かった子どもたちに適当な貰い手なり働き口なりの見つかる事が、いつも求められていた。

が、器量の良い子や、何かしらの特技・才能に恵まれたような子から順番に貰われてゆく中で、

何か取り立てて欠点があるのではないにしても、何かが秀でているとも言われない、この平凡な子どもが、年々、人員の移り変わる中でもずっと売れ残って、施設の片隅に居続けている事に関しては、施設側としても内々、持て余していると言わざるをえない状況だった。


当然と言うべきか、施設内での、子どもの待遇は良くはなかった。

「厄介な無用者」という、子どもに対するレッテルは言葉に表さないまでも、施設の仕事を担う大人たち共通の認識であったし、それは自然と無言の内にも、施設で暮らす子どもたちにまで伝播する。控えめな性格であったので、はじめの頃は年長者に、それから、後には新しく入ってきた、子どもよりもずっと年齢の小さな者たちにまで、侮られ、いじめられ、

「お前のせいで、パンの取り分が減った。」

「いつまでずうずうしく居座るつもりだ?」

等と言って、食事を横盗りされる事もしばしばあった。

もっと直接、殴ったり、蹴ったりする者もいたし、

大人たちはそんな施設の経済や運営に直接関わりのない、子ども同士の事情にまで、いちいち注意を払いはしなかった。

夜はベッドや毛布を奪われるので、子どもは部屋の隅にうずくまって、ずっと着たきりの服の中でからだを縮め、冷たく固い床の上に寝るしかなかった。


ある晩。

子どもは1人眠れずに、じっと床の上で目を開いて、カーテンの隙間から窓の外を眺めていた。

黒々と闇に沈んだ部屋の中と比べ、外は月や星が輝いて、ずっと明るいように見えた。

「お外のほうがあたたかいかもしれない、」

ふっと、子どもはそんなふうに思った。寒気と眠気によってぼんやりと麻痺したような頭の中で、

「そうだ、どうせ、ここにいても食べ物も寝る所も無いのだったら、誰もいない森の中へ行って、湖でからだを洗い、ふかふかした草むらに寝そべって、この星空をいっぱいに眺めるほうがいい。

うん、それに、そのほうが、天にいらっしゃる神様、お父様やお母様からも、私の姿がよくお見えになるだろうし」

子どもは施設を出て行く事を決意した。


次の日の夜、子どもは皆の寝静まった頃を見計らって、そうっと部屋を抜け出すと、

忍び足で、音を立てないよう、注意して建物の閂をはずし、外へ出た。荷物、なんていう物はもちろん、何ひとつ所有していなかったから、着の身着のまま、唯一の防寒具と言えるぼろぼろにほつれた毛糸の帽子――昔に母が、自分のセーターを解いた糸で編んでくれた、大切な形見の帽子を、風に飛ばされないよう目深に被って、

夜露の凍った、刺すような冷気の中へと足を踏み出した。

「どこへ行く?」

急に、後ろから声を掛けられたので子どもはびくっと、撃たれたように立ち止まり、おそるおそる振り返った。見れば今、出て来たばかりの施設の扉から、守衛の顔が突き出して子どもを見ている。


この施設には、余分な人員を雇うような余裕はなかったのだけれど、せめてもの用心にと、毎夜まちから交代で大人がやって来て、警備と言えるほどでもない、ただ、玄関脇の宿直部屋で夜を明かす、という慣例になっていたところが、

この日の晩、当番に当たっていたこの男が仮眠を取っている時に、静まりかえった夜の中、子どもが立てたわずかな物音に気付いて起き出して来たのだった。

子どもはこの守衛の顔を今までにも何度か見た事がある、喋った事はなかったが、何かいつも疲れたような表情の、いかにも弱弱しい体つきの、夜盗に立ち向かえるとは到底みえない中年の痩せた男で、そんな人でもこんな何もない施設の警備としては、充分すぎる人材だったのだ。


子どもはちょっと怖気づいたが固い決意を胸に、気をふるわせて、

「お願いです、どうか見逃して下さい」

と懇願した。

「私はここにいては、きっと生きてはゆかれません。せめて自分の足で、ゆけるだけ歩いてみたいのです」


「そうか」

・・・意外にも、中年男は子どもを引き留めるそぶりを見せなかった。男の依頼された仕事は外部からの侵入を防ぐ事であって、内からの逃亡に責任は無い。あるいは単に、この施設にとって、この子どもがもうそれほどに「余計な荷物」でしかなかった、という事実を、男も知っていたのかもしれない。

ともかく男は何も言わなかった。

短い沈黙の後、いかにも疲れたように、すべてを諦めたような低く、聞き取りにくい声で、子どもに言った。

「それじゃあ、そこで、少しだけ待っていなさい」

そうして一旦、建物の中へ引き取ったかと思うと、まもなく手に何か小さな物を握って、再び外へ出て来た。


「これを、」

と言って、男が子どもに手渡したのは、夜食用に置いてあった1個の小さく素朴なパンだった。渡された男の手と同じように、固く、乾燥して冷めきった、それでも貴重な食糧だった。

「持っていくといい」


中年男の様子には、感情や、思考の類を読み取れるような、何物も表れてはいなかった。固く乾いて疲れた顔。子どもはちょっとどうしていいのか戸惑って、

「ありがとう」

と、取りあえずお礼を言ってパンを受け取り、そして、さらに何か言おうと考えている内にも、中年男はくたびれた背中を子どもに向けて、さっさと建物へ引き返した。

もはや振り返る事もなく、男の入った扉は静かに閉まって、内側から閂を戻す、こと・・・ざりり、という固く乾いた音がした。

子どもはしばしその閉じた扉を見つめていた。それから歩き出した。


それは綺麗な星月夜で、冷たく澄んだ夜の空を、冬の星座が賑わしていた。子どもはしばらくは寒さも忘れ、ただただ夢中で吸い寄せられるように、夜空へ向かって聳えるかのような、黒々とした森の木々が形作る、その山のほうへ、孤独な道を辿りはじめた。・・・・・・


☆☆☆

あくる日の事、子どもは森の中にいた。

まだずっと歩き続けている。胸には中年男から貰ったパンを抱き、擦り切れた衣服に穴の開いた靴で、1度も立ち止まらず、休む事もなく、ひたすら道を先へ、先へと歩いてここまで来たのだった。

どうしたわけだか子どもは、いくら歩いてもちっとも疲れないし、空腹も、眠気ももはや感じなかった。ただもっと先へ、行けるだけ先へ、少しでも、あの星空に近い場所へと、それしか念頭に浮かばなかった。

陽は子どもの頭上に昇りまた落ちて、再び夜がやって来ようとしている、辺りは次第に暗くなっていく。


この森には、獰猛な熊や猪も生息していて、時折は大人相手であってさえも、致命的な大怪我を負わせる事さえあったのだが、

この時、森の中をたったひとり、無防備に歩くこの無力な子どもの前に、襲い掛かる影はひとつとして現れなかった。野生動物たちは子どもに気付いてもただ森の一部と受け容れて、ひっそりと落ち着いた静寂を保っていた。

元より、子どもは森に対して何らの恐れも不安も抱いてはいない。その、くねくねと登り続ける森の細い小道を、神の導きと信じ辿っていく事には、どんな迷いも生じる隙はなかった。


ところが、もう大分、山も上まで登ったかという頃になって、子どもは道の真ん中で1人の男に遭遇した。近くには人家も無い、こんな辺鄙な場所になぜ、とは思ったものの、子どもは礼儀正しくその男に挨拶をした。

「こんばんは」

「ああ、こんばんは」

と、男は返したが、それはひどく弱弱しい声だった。子どもはパンをくれた中年男を連想しかけたが、今ここにいる男は、さらにいっそう、今までに出会った誰よりも疲れた様子を全身に纏い、加えて子どもにも劣らぬほど、貧しく、みすぼらしい身なりをしていた。身に着けた服は原型を留めないくらいにぼろぼろで、頬はこけ、かなしく浮き出た目は渇き、掠れた痛々しい声を絞り出して、子どもに言う。

「ああ、何か、食べるものを持ってはいないかね。どうか、何でもいい、ほんのわずかで構わないから、食べ物を恵んでくれんかね」

いかにも哀れっぽく、子どもの足下に縋って物乞いをする、その男の肩に子どもはそっと手を置いて顔を挙げさせた。

「これをどうぞ」

と持っていたパンを差し出した。

「あなたに神のご加護がありますように」


男は礼を言う間もなく、ひったくるように子どもの手からパンを掴み取ると、その場に膝をついたまま無我夢中の態で食べ始めた。

子どもはその様子を少しだけ見つめてから、黙ってまた道の先へと向き直り、歩き出した。


それから5,6間も行かない頃、またも子どもは1人と行き遭う。

それは子どもよりも、さらにいくつか年下と思われるような幼子で、これもまたひどい身なりだった。

どうして、こんな小さな子がひとりきりで、こんな夜中に森の奥深くを歩いているのか?当然ながら、子どもには予想も付かない事ではあったが、何らかの具体的な考えを抱くより先に、まずその声が、耳に飛び込んできた。

「おつむがいたい」

その子は、悲壮な声で子どもに訴えた。

「寒くって、ちょっとでも風が吹くたびに、耳がちぎれて血が出そう。ねえ、お願い、なにか、この頭を覆うためのものをちょうだい」


すぐさま子どもは自分の被っていた帽子を脱いで、その子の頭に被せてやった。伸びきった毛糸の帽子はその小さな頭には余り過ぎ、しかも編み目は粗く、あちこち擦り切れほつれていて、とてもしっかりと寒気を防げるような代物ではなかったが、それでも幼子は満足そうで、従って子どもも満足だった。


それから、なおも、ひとり山道を歩いて行きながら、子どもは内心で考えた。

“よかった、何か渡せるものが私にあって”


唯一の食糧であるパンや、大切な形見の帽子、それらを丸ごと他人に譲り渡してしまう事について、そのとき子どもの心の中で、1片の雲ほどの計算も逡巡も、湧き出る事はなかった。

そこにはまず、この時の子どもが実際的な飢えや寒さというような肉体の感覚を、まるで薄皮を隔てて触られている程度にぼんやりとしか感じていなかった、という所為もあろう。

が、また同時に、そこには重要なひとつの真実――この子どもが実に敬虔な信者であった、という事実も示されている。


子どもにとっては、たとえば、天にまします主の存在、その御心を信じるのとまったく同様に、その子、兄弟たる、世界すべての人々を思いやり、仮にも誰かが困っているのならば手を貸して、

苦しんでいるのなら共に悩み、痛み、泣き、

そして喜びを分かちて共に笑う事は、考えるまでもなく、当然の事であったのだ。


信仰というものは、本来ならば、人間の思考回路とはまったく別のところに独立してあるものだから、

脳によって変換可能なシグナルに置き換えられ、思考の雲として心に産出される筈もなく、

よって、他者に対する言葉や行動ばかりか、自分に対する意識や心理作用、

「なぜ、どうして、なんのために」

そういう瑣事に惑わされるなどありえない、絶対の信心を貫ける力を秘めていた。

それはむしろ心臓の働きにも似た、生命活動を維持する自然の生物的、根幹的な不随意のものだった。


子どもは敬虔な信者であった。何か余計な雑念が湧くような箇所は、その澄み切った生命活動の中のどこにもなかった。

だから、それから更に道の先々で、同様の貧窮した人々から、シャツや、腰巻や、靴や、靴下などを、ねだられるたびに、子どもはその場でそれらを脱いでは与えてやった。そしてとうとう下着1枚きりになって歩いた。


いつのまにか森は、深い夜の真ん中にあった。

自分の足下すら見分けの付かないくらいに、一面が闇に包まれているのに、子どもの目には何故か、これから行くべき道だけが、夜闇の中にすうっと白く、光って浮かび上がっているように見えた。はるか、頭上を振り仰げば、高い木々の黒い梢を透かして、満天の星空が覗いていて、子どもの歩みを励ますように瞬き、輝いている。

子どもはしっかりとした足取りで、道をどんどん歩いて行った。


そうして、しばらく進んだ時、もう何度目の事だろうか、やっぱりまた、道の真ん中を向こうから人がやって来るのに出くわした。


その子どもは何も身に着けていなかった。

背格好も、年の頃も、ちょうど子ども本人と、そっくり似ていて、どちらがどちらか?という事を第三者の目によって判別する為の材料は、片一方が着けている、その粗末な下着、ひとつきりしかなかった。

「その下着を、」

と、何も着けていないほうの子どもは痩せた腕を上げ、相手を指さしそう言った。

「私にくれませんか」


下着姿の子どもは、そこでほんのちょっと、考えた。

瞬時、ちらりと、最後のこれさえも渡してしまったら、自分の身は一体どうなるのだろうという考えが胸をかすめる。

この下着を渡したら・・・それは、文字通り子どもは一糸纏わぬ姿になるだろう。しかし、それはつまり・・・今、目の前にいるこの相手、この子が今置かれている状況と、そっくり同じなだけではないか?と、するならば、これは、自分か、相手か、どちらを選ぶか、という問題、なのだろうか?


「こんなに暗い夜だもの、」

やがて、子どもは自分の心に言った。

「裸を見られて困る心配もない」


そして子どもはやはり自分の下着を脱いで、相手の子どもに与えた。

それを渡して、すっかり裸一貫になってしまってみると、なんだかむしろどこまでもさっぱりと清々しく、生まれ変わったような気分になった子どもは、

「あなたに、神のご加護がありますように」

そう、笑顔で子どもに告げて、それから先の道を軽々と歩いて行った。


永く続いた森の道は、それから程なくして開けた場所に出た。そこには小振りな湖が、静かな水を満々と湛え、美しく光り輝いていた。

なぜ、輝いているのかは、水面を見れば瞭然で、

それは天の輝く星空を、いっぱいに映しているからなのだった。


子どもは湖の脇に立って自分の姿を見下ろした。

財産も、着物も、食糧も、何一つとして、持ち合わせないただひとりの自分、という存在そのものを。


それから無言のまま天を仰いだ。

まるで今にも、零れ落ちてきそうに犇めく星々が、きらきらと夜の天空を満たしている。こんなにも美しい星空が、自分の頭上にはいつも存在したのだという事実を、きっとあの施設のあの部屋の中にいたのでは、一生、気付けはしなかったろう。子どもはそれを創りたもうた偉大な存在に感謝した。この世はなんて美しいのだろうと思った。

感動は自然と、地に泉を湧き出させるかのように、子どものからだの深い奥底から涙をこみ上げさせて、

子どもの瞳は美しい湖そのままに、天の星空を映していた。

無数の星はこの小さな瞳も、森の湖も、夜も、まちも、世界もまるごと包み込んで、ただ清らかに、壮大に、輝いている。それは見つめるほどにいっそう大きく、いっそう近くなって、子どもの瞳を輝かした。


・・・・・・そうして、

本当に、星は実際に子どもに向かって落ちて来ていたのだ。


その夜、清い光は流星となって、はるか遠くの天上から、この小さな子どもの元へ、一斉にさぁっと降り注いだ。

音もなく湖に落ちたものは水底でいつまでもきらきらと輝き、

そして子どもの足下で地面を打った星は、硬い音を立てたかと思うと、まばゆい星の輝きをそのままに、美しく光る銀貨に変じていた。


星の光に隈なく照らされて、辺りは真昼よりも白く明るく輝いた。

その中心にいる裸の子どもは、ひとり、ただ、どうするという気も起きずにじっと立ち尽くしていた。星降る夜の真ん中で、いつまでもいつまでも、尽きる事なく降り続く星の銀貨を、そのあまりの美しさを、ただ夢中で眺め続けていた。


☆☆☆

それより後の物語を、私たちは聞き伝えによって知っている。


その子どもは天から授かりし、有り余る潤沢な銀貨のおかげで、生涯裕福に暮らす事ができたと言う。

上等の麻や木綿の下着を買って、分厚い毛糸のセーターも、洒落た形の帽子も買って、コートも、靴も、何でも揃え、心地の良い1軒家に住み、食べ物に不自由する事もなく、

それでも慎ましく、質素な暮らしを心掛けて、正直な神の子としての在り方を違える事はなかったと言う。

毎夜、子どもは窓から空を見上げては、あの日の奇蹟を思い出し、すべてを導いて下さる神への感謝と祈りを忘れなかった。子どもの一生を保証して余りある大きな空の無数の星たち。その数は、いつの夜も、わずかなりとも減ったようには見えない。

子どもだった子どもが大人になり、さらにその子どもも、そのまた子どもも大人になっても、少しも変わらぬ、雄大な美しい星空であり続けるように見えた。


☆☆☆

「へえ、つまり昔の人というのは、そんなに純粋に神様を信じられる位に、頭の内容が空っぽだったのですね」


彼はそうしてグラスに残った、最後の1口を飲み干すと、グラスを置き、立ち上がり、美しく着こなしたスーツに乱れがないか、曇りひとつない革靴の爪先まで、1目、ざっと確認してから、店員に目配せをしつつ戸口へ向かう。

去り際、私に向かって、

「ありがとう、なかなかたのしい、お話でしたよ」

愛想のよい世辞を添える事も忘れない。


高層ホテルの上階に位置するバーラウンジ。偶々ひとりで、居合わせた者同士、ほんの1夜のほんの暇つぶしにと他愛ない話を交わして、

そして恐らくはもう2度と会う事もない。

彼は最後にちょっと立ち止まって、窓のほうを振り返り、透明なガラスの向こうに広がる、贅沢な夜景を眺めていた。

「もう星なんて、あんまり見えないね」


そして彼は優雅に夜を辞して、そのままどこかへ去っていった。

☆☆☆




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