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【小さな御話】うろこを塗る魚


広大無辺の海洋世界。そのどこか、浅くも深くもない辺り、

水は黄昏色をして、多様な生命が往来する、

そのほーんの片隅に目立たずひっそり建っている、1軒の店がありました。


ちいさく看板が出ています。

“Sally's Coloring Shop”


店を営むのは1匹の魚。

彼魚[かのぎょ]もまた、特別おおきいわけでもなく、ちいさすぎると言うのでもなく、甚だ地味で、ぱっとしない、ありふれた銀色の魚でした。


ちりり、軽やかな鈴の音と共に店の戸が開けられ、隙間から1匹の魚が、すぅーと泳ぎ入って来ました。

「ごきげんよう、サリーさん。しばらく忙しくしている間に、すっかり色が抜けちゃって。いつもの、お願いできますか?」


魚は如何にも生気のない様子で、疲れた声で言いました。

生気のない――と言いますのも、魚の体は幽霊みたい、半透明に透けていて、しかも稚魚や淡水魚たちのような、はりのある透明感でもなければ、クラゲたちのような幽玄の美も感じられず、くたびれ弾力を失ったゴム製のおもちゃか何かみたい……うっすら見える骨や臓器が、悲壮感をいっそう強調します。心なしか目も白く濁り、そうまるで「死んだ魚のよう」でした。


「まぁニコルさん、ごぶさた。ようやく子育てから解放されたのね。そりゃ疲れるわ、よく頑張ったわねぇ。さ、どうぞ、こちらに座ってリラックスして下さい」

サリーさんは言い、透明魚ニコルさんに、大きな鏡の前に据えられた、貝殻と珊瑚で出来た椅子をすすめました、この椅子は、

座面にも背もたれにもサリーさんお手製のふかふかクッションが縫い付けられていて、とても座り心地が良いのです。

そうしてサリーさんは準備に取り掛かりました。


――ところで皆さんは、

あの複雑微妙で千差万別、種々多様に存在する、海の魚の、鱗の色が1枚1枚、手作業で塗られたものである事をご存知でしたか?

鼻で笑った、そこのあなた。何故ですか?


「魚の鱗の色の違いは、各生態や生息場所に由来するものであり、主に外敵から身を護る為・若しくは獲物に悟られ難くする効果を狙っている。

海を泳ぐ魚が銀の鱗をもつのは、捕食者に狙われた際、光を反射して目をくらます為であり、ヒラメやカレイが砂模様で海底に紛れるのも、餌が近寄って来るのを待ち構えているから。

また深度によって、射し入る太陽光の波長も変わり、植物プランクトンや多様な生物の共存する熱帯の珊瑚礁では魚の色も多様で鮮やか、可視光の届かない深海の魚には、光の影響を受けない赤色をしたものが多いのもそのため」


現今の生命科学では、だいたいそんなふうな説明を与えるでしょうか。でも、

浅い、浅い。何故、そんな人間の尺度で、魚世界、海洋世界のしくみを理解したつもりになれるのでしょう?

そう、そんな程度の説明を聞いて、納得しては不可ません。

おぉきぃ地球の、ひろぉい海には、私たち人間などにはとうてい理解できない壮大な神秘が、まだまだ幾らも存在するのです。

魚たちは、魚頭にしか分からないし、魚言葉でしか説明のできない、実に「科学的な」やり方で、海のあちこちから色素を抽出・固定化し、さらに魚心にしか分からない、実に「道徳的な」やり方で、粧い、粧しているのです。

たとえば、こんなふうに。


サリーさんが店の壁、一面に作り付けられた巨大な棚から、大小色形も様々な容器――瓶や甕、バケツ、つるんと泡を固めたような丸いのや、かっちりした正立方体、それに実験器具めいた形をしたのまで、多様な容れ物を、次々と選び取り、傍らの作業台に載せていきます。

容器には言うまでもなく、専門技術によって保存された、いろいろな色のいろいろな素が入っているのです。

それから抽斗を開けて、乳鉢とか小皿、スポイト、パレット、スプーンやヘラ、刷毛や太さの違う何本かの筆、といった細々した用具を取り出し、そして、

何やら真剣な面持ちで、色の調合を始めました。


同種の魚ならだいたい同じ色模様でしょ?とか、

1色の魚はベタ塗りじゃないの?とか、

言うても、そんなに手間じゃなかろーが、とか、思う人もいるかもしれませんが、否、否。

人間の目には1色に見える魚でも、鱗の1枚1枚が異なっており、さらに1枚1枚に、繊細な効果や意匠が散りばめられているのです。

そのお客さんの注文通りの、かつ、最も似合う、色をつくり、鱗1枚ずつを塗り分けると共に、全体でも、体型ぴったりの寸法に仕上げ、どの角度から見ても最適な位置に模様を描く、

さらにころころ状況の変わる海の中で、いつ、どんな事態に遭遇しても、瞬時に魚の意図を反映できるような、色の加工を施すのは、

プラモデルの彩色とは全然わけが違う、実に繊細な職人技、魚たちの世界でさえも、一朝一夕に身に備わる能力ではありません。


サリーさんはその点、非常に評判が良く、お客の信頼はとても厚いのです。

だからこんな目立たぬ店であっても、いつも途切れずお客がやって来ます。


「長距離の回遊に備えて、落ちにくい塗料を頼むよ」

「最近、ちょっとお腹のあたりが気になるんだけど……もう少しだけ、スマートに見えるように出来ない?」

「かわいい系よりは、クールな感じに見られたいの」

「今度、浅瀬のほうへ冒険してみようと思うんだ。でも人間がこわいから、見つからないよう、あの海の夜明けと同じ色に染めて頂戴」


そういった、各魚の要望、ちょっとしたわがままなんかにでも、サリーさんは真剣に向き合います。

そして、ひろぉい海の、いろぉんな色には、言葉で言い尽くせない程の種類があり、必ず、どんな微妙な魚心にも、ぴたりとはまる色が存在するのです。


……さて、そうこうする内に、そろそろニコルさんのカラーリングも終わりそうです。

見違えるように、美しい瑠璃色に彩られた鱗。1枚1枚に陰影が付けられ、見る角度によって絶妙に趣を変化させる、複雑な青色。吸い込まれそうに深みのある、上品で滑らかな質感。

サリーさんは最後に、極細の筆で、すぅ、すぅっと、人間の目には見えない塗料で、流れるようなラインを引きました。これは簡単に説明すると、魚世界におけるアクセサリーのようなもの、生活に必需ではないものの魚等の気持ちを豊かにする、たいへん優雅な装飾で、ニコルさんの趣味に合わせ、さりげなく上品に仕上げました。


全身に着色が施されると、死んだようだった目にも生気が戻り、ニコルさんは嬉しそうに、サリーさんに御礼を言いました。


店を去り際、ニコルさんはちょっと止まって振り返り、ぱっちり開いたうるうるの目で、見送りに立つサリーさんの全身を眺めました。

「ところであなたは、こんなに素敵なセンスがあって、確かな腕も持っているのに、どうして、あなた自身を、そんなに地味にしているの?

もっと綺麗な色に塗ったら、きっと見映えも良いし、お店だってもっと流行るのに」

このサリーさんの体色は、やはり魚の目から見ても、地味でぱっとしない銀色、と映るようです。


「いいえ、私、お店は、特にこれ以上、流行らなくってもいいんですよ」

サリーさんは答えました。

「ニコルさんみたいに、昔からよく知る大事な魚客[ぎょきゃく]さんたちが、こうして通ってくれる事が嬉しいし、

楽しくお喋りしたり、ゆっくり1匹1匹と向き合える、これくらいの生活が幸せなんです」


……そして、海の彼方へと元気に泳ぎ去っていくニコルさんを見送る、サリーさんの口辺には、

揺らぐ海草がときおり砂底に描く、儚い影の模様のような、わずかに淋し気とも取れる、微笑の名残がありました。


彼魚[かのぎょ]にも、かつては、

派手な色に染めてみたり、奇抜な模様を入れてみたり、

そんなことを繰り返していた、時代もありましたし、

最先端の流行=お洒落だと、思い込んでいた時期もありました、

群れでの生活に疲れ、みんなと同じでなければいけないのかと、

迷ってしまって、悩んでしまって、自分とは一体何だろう、

などと考えながら、海中で孤独な旅を続けた経験もありましたし、

…でも、ここで、そんな彼魚の人生――魚生を、説明するには、

地上のこんな画面では狭すぎて、

とても、収め切れるものではありません。






...It's Only a Fish Story.

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