ユーモア研究会(仮)(Smile Seeking Society)
・・・笑えない。気づけば、笑わなくなって久しい。他人が笑っている場でも、なにがおもしろいのかわからない。笑いかけた途端に「なにがおもしろいの?」と水をさされて笑えない。
それでも、
「笑っていい」のだと、思いたい。まだ「笑える」のだと、信じたい。・・・そうしてできたら、
きみにも、笑っていてほしい。
笑いを、学びによって得よう、だなんて。
難しく考え込んだって面白いこと思いつくわけでもないし、むしろ考え込むほど笑えなくもなるし、
誰かを笑わせる技法を学びたいならお笑い養成所へでも通えって話だし、
しかも、たとえば、今まさに戦火の中、被災地の上、大事なものを喪った悲しみのさなかにいる人を、
いったい誰が、どんな手段で、笑わせたり、癒したり、できるんだ?
またそれらを丸無視して平然と、笑っていられるんだ?
それでも、それでも。
「笑ってもいい」と。
そのときの地表に、ひとつでも多くの、笑顔が浮かんでいたらいい、と。
――もしかしたら「無機物さえも 思わず ほほえむような」、そんな奇蹟が。
☆彡☆彡☆彡
ある日、研究会の扉を叩いて入ってきた青年が言う、「笑わせたい女性〈ヒト〉がいるんです」
会員たちは青年に案内されて、「彼女」のもとへ行ってみる――と、それは公園の隅に佇む、古びた、作者不詳の、錆びて表情もわからなくなったブロンズ像だった。
「バカバカしい」と何人かは立ち去った。
けれども青年はひたすらに真剣で、頭がおかしいわけでもなかった(いやおかしいのだろうか?けれど、誰にそれを判断し、批判する権利があるというの?)
ギリシャの彫刻ガラテアに、ピグマリオン王の愛が通じるように、
一心に彫られ、あるいは描かれ、篤き信仰を浴びた聖像に名状しがたい力が宿るように、
どこかの世界、いつかの時代には、彼女に笑顔を与えられるなにものかが、もしかしたら。
「力を貸して下さい。なんせ僕には、ユーモアのセンスが壊滅的に無いのです」
普通の人なら完全スルーな依頼だけれど、研究会の面々は、元からとびきりの変人ぞろい。
そして何より心から「笑い」を信仰していたから。
「いいでしょう」「のぞむところ」「笑いの種を、かきあつめて」「たとえどんなひとだって」「笑わせてみせましょう」
とにかくたくさん、「笑いの種」を集めるのだ。
誰かひとりの天才で、解決できる問題じゃない。
そのかわり、ネタは古今東西に溢れていて、「笑い」の種類も様々だ。
馬鹿笑い、忍び笑い、思わず吹き出す、つられて笑う、自然と笑顔になっている。
万国共通の赤ちゃんの笑いから、大人になるほどに狭く細かく単発的になっていく、文化や言語や時代や年齢の差異、特定の知識がなければ理解すらできない笑いまで。
けれどとにかく、全部ためそう。サンプルはあればあるほどいい。彼女に何が通じるか、なんて、前例もマニュアルも無いのだから。
みんなは東奔西走し、時には過去へだって遠征して、「笑いの壺」に、「種」を集める。
そうしてみんなで彼女の待つ公園に持ち帰って、披露する。たとえ彼女が笑わなくても、誰かのツボには入っているかもしれない。たとえひとつめでは笑えなくても、別のひとつでは笑えるかもしれない。
おわりなく、バカバカしく、続く研究活動。参加者はいつでも募集中。
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