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アフターストーリー『沼男は誰だ』〜根本 心〜

未通過×です。

自陣『キルキルイキル』にも触れます。
大きなネタバレは無いはずです。

他PLのPC名を勝手に使用しております。

セッション中のセリフをそのまま流用しております。

ご了承いただければ幸いです。

問題があれば消します。

https://iachara.com/char/555316/view

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白を基調とし、花柄があしらわれたカーテンが外の明るさを遮る。

薄暗い自室のベッドで根本心は寝転んでいた。

閉まりきっていない隙間から入る光だけが、朝を告げている。

ーー起きたくないな。

寝ていてもわかるほど身体が重たかった。

背中がお腹側から重力に押さえつけられているようにベッドに張りつき、両脚は曲げるのすら億劫なほど重い。

腕はーー。

「あー、怪我のせいか」

その原因に思い当たる。

昨日の仕事で不意をつかれた時に、素手でナイフを捌いてしまったのだ。

左腕に意識を向けてみれば、鼓動が脈打つ感覚があった。まだ血が流れているのかもしれない。

重たい右手でゆっくりと布団をめくってみた。

手首から肘にかけてだけではなく、腕全体が血の海に沈んでいる。

「下まで行っちゃったな、これ」

シーツは白だったとは思えないほど染まっていた。

疲れたからといって、手当てもせずに眠ったのは、流石に横着しすぎたかもしれない。

「洗濯でなんとかなるかな?」

マットレスの洗い方を悶々と悩み、答えが出なくて諦める。


体調の悪化は、きっと血が足りていないせいだ。

だけど、それにしては少し違和感があった。

ーーナイフに何か塗ってあったか、もしくは……。


腎臓にガタがきているのか。


リンメイの手際は流石だった。

契約から丁度1ヶ月後の仕事帰り、裏路地に差し掛かった所でバイクの前に黒塗りの車が飛び出してきて止められた。

そして、完全武装した5人の男に囲まれ銃口を向けられる。

「根本心だな?」

フードの内から聞こえるボイスチェンジャーの機械音。

同意すると同時に、上着を脱ぐように指示されて武器を全て取り上げられた。

そして両腕に手錠がはめられ、ゆっくりとマフラーを外される。

急所の首筋に注射器が当たる感覚。恐怖を覚えるそれを最後に、心の記憶は途切れている。


気がつけば、自室のベッドの上にいた。

発熱のダルさと喉の渇きを感じながら、身体を起こして服をめくると、腹部に見慣れぬ傷跡が増えていた。

感覚は変わらないが、確かに契約は果たされたようだった。


姿を見られないことに固執したような手口の中で、腎臓の予備力なんて、きっと確認されていない。ある日突然限界を迎える。そんなこともあるのかもしれない。


「寝れば治るかな」

極めて楽観的な考えで心は目を閉じた。

眠りに誘われる感覚の中、思考だけがやけにはっきりとしていた。
こういう時はいつも、余計なことを考えてしまう。


ーー契約したあの日……私は何を考えてたんだろ?

"死んでもいいかな"

そう思ったのは人生で2度目だった。

自分を捨てられるほど馬久留さんと仲が良かった訳ではないし、親友の分も生きると決めた命を簡単に捨てるつもりはなかった。

リンメイに響く交換条件を探しながら、手練れの2人を殺すシミュレーションを繰り返していた。

ーー死ぬつもりなんてなかった、筈なのに……。

0円が60万円になって、63万円になって、自然と口から言葉が溢れた。


「いいよ、私が払う」


理由は今でもわからない。

それでも確かに、これで死んでも仕方ないと、そう思っていた。

それに何故だか、心は今もその選択を間違えだとは思っていない。

「半身を失った私にピッタリだしね」

おどけたように呟く。もう寝られる気はしなかった。

怪我した左腕を庇うように身体を起こし、リビングへと向かった。


冷蔵庫の上から食パンを取って無造作にトースターへ入れ、ヤカンを火にかけて、そのままへたり込む。

血が足りなくて視界が回った。とても立ってなんていられない。

「はぁ、やっちゃったな、これ」

頭を抱えるようにして目眩が治るのをじっと待つ。

しばらくしてヤカンが鳴き、トースターが音を立てた。

よろよろと不安定な身体で火を止め、水切りカゴからピンク色のマグカップを取って、いつものようにコーヒーのドリップパックに手を伸ばす。

しかし気が変わって、紅茶のティーパックをカップの中へと放り込んだ。


そしてそのまま2人掛けのテーブルに乱暴に皿を置き、貪るようにトーストを口に運ぶ。

一口噛むごとに身体に体温が戻っていく感覚があった。

「やっぱり煩わしいな」

焼くより短い時間でトーストを食べ終えると、心は次の食パンをトースターに放り込み、飾り棚から救急箱を取り出した。

右手で左腕を圧迫して止血を行い、消毒して傷を保護し、包帯を巻く。

昔は自分でやらなかった手当てが段々と上手くなっていく。

少しの寂しさを覚えながら、包帯の端を結んだ。

それと同時にトースターが鳴る。心は軽く首を横に振ってキッチンへと足を向けた。


「はぁ、満足」

1斤全てを平らげてお腹は落ち着いた。

エネルギーを補給できたからか、体調も落ち着いている。

心は無造作に痛み止めと造血剤を口に放り込み、紅茶で流した。

これで全部元通り。

『本日は全国的に晴れる予報です。平均気温も昨日より5度高く、ぽかぽか陽気になるでしょう』

無意識につけていたらしいテレビから、お姉さんの声が聞こえてきた。

カーテンを開き外を見てみると、確かに心地良さそうな日光が、道路でじゃれあう小学生を照らしている。

「いい天気だな、どうしよっか」

恐る恐る左手を握り、開く。

先程までの悪夢のような痛みはほとんど消えていた。

流石は会社御用達の医者の薬。これなら何でもできるだろう。

「久しぶりにツーリングしよ!」

言うが早いか心は血塗れの服をゴミ箱に投げ捨て、最低限の荷物だけをウエストポーチに入れて外に出た。

そして、これから更に暑くなるであろう太陽の下、暑苦しいヘルメットを被り、勢いよくアクセルスロットルを回す。



ヘルメット越しに音が通り過ぎていく。

風もさほど強くないため、いくらスピードを上げても快適に走れた。

ーー仕事以外で走るのいつぶりだろう?

人気の無い山道に入り、思考を巡らせる。
最近はあまり遠出をしていなかったから、多分結構前だろう。

「あ、藍美さんと一緒の時だ」

あの時は、何度も2人で鐘有邸への道を走った。

ツーリングかと問われれば違うかもしれないが、とても楽しかった。

「藍美さん、幸せだったのかな……」

心は彼女と居て楽しかった。

藍美さんは最期、馬久留さんに見てもらえた。きっと望みが叶った。

でも、彼女の人生は果たして幸せだったのだろうか。

"後悔だけはしないように"

何度も言った気がする。

2人の関係は彼らの物だ。邪魔をしたくはなかった。

途中、優しい彼女に甘えてしまった時もあったが、2人の決断を見守りたいと、そう思っていた。

たとえそれが、どんな結末になろうとも。


ーー…………。

決断、結末、現在。
頭が痛い。

「……私、後悔してるのかな」

ーーだから、藍美さんに何回も念押したのかな。

ふっと何かで視界がぼやける。

「!! あぶない」

その瞬間、目の前に猫が飛び出してきた。

無理やりハンドルを右へと切り、対向車の来ていなかった反対車線へと飛び出す。

バイクのタイヤは黒猫の目の前を通って進路を変えた。

ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。

「うっ」

左腕に激痛が走った。
ハンドルから手が滑り落ちる。

右に傾いていたバイクは支えを失って横転し、心の身体と共に道の脇の河原へと落ちていく。

本能的に受け身を取った感覚の中、心の意識は闇へと沈んだ。


それからどれだけの時間が経ったのか、仰向けに寝転ぶようにして心は目を覚ます。

「あーあ、やっちゃった」

予想よりは痛まない身体を起こす。そして、ヘルメットを外そうとした時、違和感に気づいた。

ヘルメットを被っていない。

それに心はこの場所をよく知っている。

「あれ?」

周囲を見渡す。
心はジャケットを羽織っていないし、ここは紛れもなく自宅のリビングだ。

先程まで……確かにツーリングをしていたはずなのに。

不思議な状況に目を細める。
本当にここは自分の家なのか。

違和感があるのは、いつもより部屋が綺麗に見えることと、食べた記憶の無いカレーの匂いがすることくらい……。

ーーいや、違う。

今朝テーブルの上に放り出してきたはずの救急箱が綺麗に棚に収まっていた。

誰かが片付けたのでなければ、ここは心の家では無い。


その時、背後に気配が現れた。
前に飛び込むようにして距離を取り、空中で振り返る。

そして、戦闘の構えを取った両手を心は即座に下ろした。

「なんで……」

目の前にあるのは、二度と見れないはずのブロンド。

愛しい親友が心に向かって微笑んでいる。

それを見た途端、感情が溢れてきた。
それが理性を上回り、激情に任せてその胸へと飛び込む。

心よりも身長の高い細身な身体が、勢いに負けて倒れていく。

修道服の両腕が優しく彼女を包み込んだ。

「会いたかった」

頭を擦り付けるようにして押しつける。

ーーもう絶対に離さない。

締めつけるように両腕に力を込める。しかし心はすぐ身を起こす。

そして、ゆっくりと顔を上げ、視線を彼女の瞳に合わせた。

「でも……やっぱり夢なんだね」

噛み締めるように吐き出して、無理に笑った。

少し寂しそうに蒼色の瞳が伏せられる。

いくら強く抱きしめても、彼女の身体に温もりは感じられない。

力を込めれば込めるほど、抱きしめている感覚は曖昧になっていく。

彼女はきっと偽者だ。
でも、それでも良いからずっとこうしていたい。

心は再び彼女に抱きついた。

「ねぇ、私、間違えたのかな?」

顔を彼女にうずめたままで問いかける。

多分、ずっと聞きたかったこと。

それが言えたのは再会できたからなのか、彼女が偽者だとわかっているからなのか。

それは心には判別がつかない。

その時、彼女の身体が微かに揺れた。そして、それに呼応するように世界も揺れて歪んでいった。


そうしてーー心は目を覚ます。

レンズ越しの青空はとても綺麗で、残酷だ。

ゆっくりと身体を起こす。腕や足、所々が痛む
ただ、出していたスピードを考えれば、随分と軽症だろう。

河原草地、受け身、フルフェイス、心は運が良い。そして運が悪いのかもしれない。

ヘルメットをはずす。風が頬を撫でた。


虚空を見つめる瞳でゆっくりと右手を持ち上げ、胸元のネックレスを握りしめる。

研磨されていない石の角が掌に刺さって痛いが、それでも心は手に力を入れ続けた。

数分の時が過ぎ、心は静かに右手を下ろす。

ゆらりとその場に立ち上がり、辺りを見回してバイクに近寄り引き起こした。

どうやら故障は無いらしい。

スタンドを立て、近くに落ちていたウエストポーチを拾った。

取り出したのは朝と同じ痛み止め。
それを水も無しに飲み込む。

一瞬の浮遊感があり、痛みはすぐに治まった。

「これのせい? それとも走馬灯?」

手に残ったクスリの包装シートを見つめ、空を仰ぐ。

常用している痛み止めが、麻薬に近い成分を含んでいるのは知っていた。

先程の夢が、その作用によるものなのか、事故の衝撃のせいなのか判別はつかない。

どちらにせよ、優しくて残酷な話だ。

また、心は親友を失った。


「ずっと、きっとわかってたんだ」

草むらに腰を下ろし寝転がる。

眩しすぎるほどの空に瞳を細め、微笑んだ。
神様ならば、そこに居るかもしれない。

ーー私は後悔してた。

あの日の選択を。彼女を失った世界で生きていくと決めたことを。

彼女の分も楽しく生きるなんて強がりだった。

ずっと寂しかった。寂しくて仕方なかった。

1人の人生がこんなにも虚しいなんて知らなかった。

嘘偽りでも親友に出会えて、実感した。


「私は死にたかった」

そうすれば彼女に会えるから。

「私は藍美さん達が羨ましかった」

2人で泥になれたんだから。

「怒られるかな、みんなに」

生き残った命を自分勝手に捨てたなら……。

あの子はきっと怒るだろう。

勝くんや藍美さんもきっと止めてくる。

"だめだよ心、自分で自分を殺すなんて。そんなの、いけないことだよ"

"心さん、やめてください。死ぬなんてそんなこと言わないでください……"

詩音さんとは、あまり多くは話せなかったけど、きっと止める側の人なんだろう。

"俺も駄目だと思う……自殺とか"


世界とはいつも理不尽だ。

生きたかった人を殺して、死にたかった人を生かす。

「勝くんみたいな人が生きるべきなのに」

真っ直ぐで眩しすぎるほど純粋だった勝くん。

ーー私は彼に助けられた。

寝不足で全然動かなかった身体で、見えない刃に切られるまで気づけないような意識の中で死を覚悟した時、彼が内藤を吹き飛ばしてくれた。

ーー私は彼を殺した。

内藤のブローチには嫌な予感がした。

勝くんが近づく前に撃ち抜こうと銃に手をかけた。なのに躊躇ってしまった。

何故か仕事の自分を出すことに抵抗を感じた。
その一瞬が彼を殺した。

心は彼に何も返せていない。
この命、あげられるものならあげたかった。


「……詩音さん達が生きるべきだったのに」

愛する家族がいた詩音さん。

結局、お姉さんには会えなかったけど、言葉の端々から深い愛が感じられた。

待っている人が居る家に帰る。
そんな平凡な日常がある。

『あいつは、俺が守るから』

言い切るほどに強い絆がある。

そんな彼らにこそ生きて欲しかった。 


気持ちに気づいてしまったら、自分の人生が急速に陳腐なものに思えてきた。

人生を楽しんでいると思っていた。街の人は優しいし、仕事も順調だし、仲良くしてくれる人達も居る。

ツーリングは楽しいし、ご飯は美味しい。

でもーーそれって本当に楽しかった?
何をしていても、物足りないと感じていなかった?

話し相手の居ない旅路、自分のためだけに作る料理。

全てが思い込みで、無理に笑ってはいなかった?

「……空っぽだ」

心はあの時、きっと半身以上を失った。

その隙間を藍美さんで埋めようとした。

「最悪だ、私」

あの夜その不安を本人に伝えたのは、きっと懺悔。

あの夜ずっと眠れなかったのは、もう一度得た温もりが消えるのが怖かったから。

心は自分が思っていたよりも、ずっと臆病だ。

「これから、どうしよっかな」

力無い声が強くなってきた風に紛れる。

死ぬのはきっと許されない。

だけど、明日からまた生きていけるのかわからない。

「聞いてみよっか」

携帯を取り出し、電源をつける。
開くのは、2人しかいない5人グループ。

『今日、会えないかな? 前にみんなで行ったファミレスで』

期待していなかった返信は意外と早く来た。

『わかった』

彼より早く既読をつけそうな人達は、いくら待っても、メッセージを見てはくれない。

「行くか」

しばらく携帯を見つめた後、画面を消して立ち上がる。

今日は海さんに会うには、丁度良かったのかもしれない。

ーーだって、3ヶ月目の月命日だから。



ファミレスに着いた時、彼はまだ来ていなかった。

待ち合わせであることを伝えると、他に空いていなかったのか、店の中央の6人テーブルに通される。

運命の悪戯も、ここまでくれば嫌がらせに思える。

心は、あの日と同じ席に座った。


人を待つ時間はやけに長い。

いつもは気にならない家族連れやおばさま達の楽しげな声が耳に残った。

否が応でも、藍美さん達とここに来た日を思い出してしまう。

みんなでフォアグラを食べて、あんなにも楽しかったのに、そんな日はもう来ない。


待ち合わせ場所を間違えた。

そう思って立ち上がった時、海さんはひっそり入口に姿を現した。

あれから少し季節は進み、彼の格好も以前よりは涼しげなものになっている。


「久しぶり」

上擦るかと思ったが、意外とちゃんと明るい声が出た。

「あぁ、久しぶりだな」

彼はゆっくり向かいに座る。
あの日と同じその場所に。

「どう? 最近調子は」

「てんやわんやさ」

海さんは、以前に増して暗い目をしていた。

無理もない。

彼と詩音さんが母体を壊したから、今の現状がある。

罪悪感があるのかもしれないし、無力感があるのかもしれない。

ーーそれとも、私みたいに寂しいのかな。

なんにせよ、ひとまずは彼が生きていてくれて良かった。

そう思う。

「でも、今日会ってくれて良かった。少しほっとしてる」

「お前は……大丈夫なのか?」

大丈夫じゃない。
大丈夫だったら、今日この場にはいない。

死にたい気持ちは変わらない。
明日からの生き方だってわからない。

でも、さっき程ではないのかもしれない。
酷いかもしれないけど、独りじゃないんだって思ってしまった。

"みんな、私を置いてっちゃう。寂しい"

そんな子供みたいなこと考えて、自分だけの空間で絶望していたけれど、今は同じような傷を抱えた彼がいる。

ーー私まで海さんを置いていく訳にはいかないよね。

烏滸がましいかもしれないけど、それが心の今の支えだった。

「うん、完全に大丈夫って訳じゃないかもしれないけど、後のことは、あの時神様に任せたから」

そう、任せたんだ。この世で最も信頼できる友人に。だから、何も心配なんていらない。

「きっと強い……強くて優しい神様なんだろうな、それは」

「そうだね。
生きてる私たちはさ、亡くなっちゃった人達の分も楽しく、元気に生きなきゃって、昔思ったんだ。だから……思い出すし悲しいけど、毎日を楽しむようにしてる」

これは自分にも言い聞かせる言葉。

今までだって全部、カラ元気だったのかもしれない。

楽しめてなんていなかったのかもしれない。
でも、楽しみたいとは思う。

死にたいし、みんなに会いたいけど、それはきっと人生を楽しんでからでも遅くはない。
そう思おう。

死にたい自分を自覚しながら、それでもみんなの分も生きる。
そう決めよう。

「生きてる俺たちのこと、その神様やあいつらが見守ってくれてるのかな」

「うん、多分。見ててくれてるよ」

きっと、そんな目をしている海さんのことも、みんな心配そうに見てるよ。

「だからさ、海さんもそんな下ばっかり向いてないで、少しだけでも視線上げてみたら?」

「そうだな……そうだよな。
あんな、大丈夫ですか? 大丈夫ですよって人の前に出て笑顔向けてくれる奴と、自分のこと知っててそれでも最期まで一緒にいてくれた奴だもんな。あいつらが見てくれてるんだもんな」

前を向くまではいかなくても、少しは上を向いた視線に心は笑顔を向けた。

「みんなが、今の海さん見たら心配しちゃうよ」

「そうだな、そうだよな。ありがとう。俺、最後に、しに行きたいことがあるんだ」

そう言って彼は店を出た。

海さんの自動車と心のバイクで連なって道を走る。

目の前を走る車の中で、彼は何を思っているのだろう……。

夜風が静かに吹き抜けた。


到着したアパートに電気は灯っていない。

大家さんに事情を話して鍵を開けてもらうと、部屋の真ん中にはあの日と同じ泥があった。

そして、その近くには『しおん』と書かれたメモ。

ーーこの人も……亡くなる直前に他人のこと考えてたんだ。

勝くんも含めてこの"きょうだい"は、本当に良い人すぎる。


海さんが無言で小瓶の中身を泥の上に空けた。

生前、出会えなかった姉弟は、ようやく出会うことができた。

「……ありがと。結局、花音さんには会えなかったけど、向こうでも仲良くね」

そんなこと言われなくても、きっと仲良くするのだろうけど。

ーー花音さんのこともお願いね。

心の中で祈りを捧げ、黙祷した。

「忘れないよ」

隣から掠れるような声が聞こえる。

そして、静寂が場を包む。

思い出、後悔、願い……。
全てを捧げよう。ここが彼らとの最後の会話だ。

2人は静かに泥と向き合う。


「今日はありがとな」

しばらくして海さんが沈黙を破った。

「こちらこそ、ありがとね」

彼の方を向き直る。

纏う雰囲気が会った時とはどこか違った。

気のせいかもしれない。そう思いたかっただけかもしれない。でも、心はそう感じた。

「お前が言ってくれたこと、忘れないから」

ーーうん、忘れないで。私も忘れないから。

「次会う時はもっと明るい顔見せてね。約束だよ」

「そうだな。また会おう、また会おうな」

「うん、また」

そう言って別れる。
バイクに跨り、彼より先にその場を立ち去った

過ぎていく景色はすっかり夜だ。
星が出る澄んだ空の下、心は走る。


誰も待っていない自宅に向かって。

後ろを振り返ることができないバイクに乗って。

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